また優等生ムーブしてない?
こういうこと、私以外の人も感じることあるのかな?と思いまして。
自分の中のアンコントローラブルな自分との向き合い方について、突然書きたくなりました。
「また優等生ムーブしてない?」
「この送別会に至るまでの取り組みは、Kanaさんが求められていること以上に細やかに動いてくれたことにより実現したし、その動きを見て、みんながてつだってくれたんだと思います。」
会社で幹事を求められた送別会を開いて、上司から求めていた褒め言葉をもらいながら、私の内側から聞こえてくる声。
なんでそんなこと言うんだろう。ひどいなぁと、私は私に思います。
そんなこと、わかってる。調子に乗ってるわけじゃない。でも、その過程で私はどうしたら喜んでもらえるか必死で考えたし、喜んでくれてうれしかったし、結果としていいアウトプットになったならいいんじゃない?
ほどよい着地点を見失ったまま、厳しすぎる自分と甘々な自分に引き裂かれて、ぐるぐるの闇の底に落ちていきそうになります。
こういうこと、ありませんか?
「嫌われたくない下心からそうしてるだけなんじゃない?」
「Kanaさんって私の友達で悪く言う人いないです。でもあんないい人で大丈夫なの?って話してました」
最近、友人にそう言われたこともあります。
そこで意地悪にも、
「でも逆にすごい好きって言ってくれる人もいないじゃない?」
と返す私。
「それはそうですけど」
その友人はそんなこと言っても大丈夫な関係値があるから嫌味にはならないのですが、つまりそういうことなんです。
相手に合わせて自分をチューニングして、相手が嫌だと思うことを予測して言わないようにして、困ってる時は全力で助けて役に立とうと、努めてきた結果なのです。
私の中でまた攻め立てる声がします。
そういう声が自分の中に聞こえるということに心底うんざりします。
嫌われたくないという下心からの行動は、卑しいのでしょうか?心からの行動とは言えないのでしょうか?
都合よく私を利用しようとする人を拒んだら、私はたくさんの人間関係を失うのでしょうか?
でも、私は、そんなことはない、ということも知っています。
「それの何がいけないんです」
そう言ってくれたのは「ぼくのメジャースプーン」に出てくる秋先生。
終盤で苦悩する「ぼく」の話をきいた秋先生は言います。
私はかつて、この言葉に救われました。
何回読んでも、このシーンでボロボロに泣いてしまいます。
自分のエゴや執着や、責任感からくる良心の呵責から、外側から見れば「思いやりのある」「褒められるべき」行動をすることがダメなことなんじゃないかとずっと思っていました。
でもそういうのも、十分愛であると。
以来、私はそういう声が内側から聞こえてきたら、「それの何がいけないんです。その気持ちを人はそれでも愛と呼ぶんです」と秋先生の言葉を思い出して、落ち着くようにしています。
ネガティブな自分がいきなり超ポジティブな思考パターンへ変化することはとても困難ですが、そういう自分をメタ認知して歩み寄り、何かしらの救いの言葉を持っていると、ほんのちょっと生きやすくなるなぁと思うのです。