「はじまり」はいつも切なく、暖かい【出会いと別れの季節に:春におすすめの絵本3選】
①『こねこのビスケット』野中 柊 作・網中いづる 絵/ポプラ社
夏に生まれた、こねこのビスケット。元気いっぱい小麦色、ちょっぴり、いたずら好き。目に見える全てが、“はじめて”で溢れている。そんなビスケットの日常が、柔らかく耳元で囁くように、さえずるように響く詩情豊かな野中柊さんのことばと、抱きしめたくなるほど愛らしい、網中いづるさんの挿絵で綴られていきます。
初めて赤ちゃんを授かり、嬉しいながらも精一杯だった日々、気になるのは「もう何ヶ月」「寝返りうてるようになった」「はいはい、するようになった」そうした行動ばかりが”節目”として記憶にあります。でも――ビスケットが出会っていくのは、いちにちいちにち、流れてゆく季節そのもの。スノードームを見ては雪を想像し、いつか出会えるその”一番遠い"季節に、ゆったりと想いを巡らせていく。なにせ、仔猫の日々は忙しい。「ふゆになると、さむいんだよ」そんな女の子の一言で、ミルクの味を思い出しついつい口のまわりを舐めたりで、ね。高くなる空、かたちを変える月、ゆっくりと着実に移りゆく季節、そのたびにビスケットの心は躍ります。やがて赤や黄色に染まる木々、木の葉がささやく――もうすぐだよ、ふゆがくるよ、と。
ある日、ビスケットは、ぶるっと震えるんです。鼻の頭を舐めると、ひんやり、冷たくなっていました。――これが、”さむい”ってことなの?
ふゆがきた!スノードームに降るような雪に、ほんとうにほんとうに触れられるのも…きっと、もうすぐ。いつもと違う「におい」が、かすかにやってくる。そう、雪のにおい――
いちめんの銀世界で、むちゅうになって遊ぶビスケット。夏の反対側の「冬」まで、過ごしてきた時間。まだかな、まだかなと焦ることもなく、心配しすぎることもなく、ただただ、いっぱいの”はじめて”を、胸の奥まで吸い込んで。……さて、そして、冬と「雪」を堪能したビスケットに、また、次なる季節のささやきが聞こえます。「ふゆのあとには、はるがくるよ」――と。
足下ばかりを見つめてないで、たまには空を見上げなさい。ついつい余裕が無くなる時、よくハッとさせられる言葉ですよね。全ては決して抱えきれないほどに、この世は美しいもので溢れている。にんげんだったら、そして「おとな」になってしまったら、逆に怖くて、そんな森羅万象に向き合うことを意識的に避けているのかもしれない。ビスケットはねこだから、気楽でいいよなぁ、そんなふうに感じてしまう日もあるかもしれない。けれど、繋がり、廻り、そして何度でもあたらしい、目の前のこの「季節」は、いつでも私たちの傍に寄り添って、ふとした瞬間に、大事な気づきを教えてくれます。ふゆのさむさを冷蔵庫のミルクにたとえて、ビスケットがちょっと嬉しく淡い期待を抱いたように、未来への淡い期待を、大人になったっていつだって、胸に抱いていい。美しいことばと挿絵から限りなく広がる優しい世界に、明日への希望を感じさせてくれる作品です。
②『あした、がっこうへいくんだよ』ミルドレッド・カントロウィッツ 文・ナンシー・ウィンスロー・パーカー 絵・せた ていじ 訳/評論社
初版は1981年。児童書・絵本の翻訳家として数々の名作に携わられた瀬田貞二さんによる翻訳です。「絵本ナビ」さんの磯崎園子編集長が日々tweet下さるおすすめ本として、私も初めて手に取りました。実は、息子は時折イヤイヤ期を発動し、朝の登園にやきもきさせられることがあります。週明けなどは、とくに大変。そうしたシチュエーションの物語で、何かしらのヒントがもらえるのかな、そんな気持ちでわくわくと読み始めました。
舞台はある夜。ベッドに入る男の子が、くまの「ウィリー」に語りかけます。「あした、きみ がっこうへいくんだよ。」ふと感じた違和感は、ページをめくる度、胸の深い所へ染み込んでいくような切ない気持ちに押しつぶされ、気づけば涙を流していました。もちろん、「明日、(からはじめて)学校へいく」のは、男の子。不安な気持ちを親友のくまのウィリーに託して、ウィリーに自分を重ね合わせることで、必死に心のバランスを保っている。そんな見方は、うがちすぎかもしれません。あくまで、ウィリーは大切な大切な彼の友人、いつものように、いつもよりちょっと気に掛けて、いとおしく世話を焼いているだけなのですから。
「きみは 大きくなったんだから、あかりはけすよ。」「くらいのなんか こわくない よね! でも すこしあかるいほうが おちつくだろ? いいとも、こんやだけ。ほら……ぼくも おちついた」
「ウィリー?まだ ねむれないんじゃない? なんでだか しってるさ。」
「こっちへきて、ぼくのとなりへ もぐりこみたいんだろう?いつものように。きみが 大きくなったからって もう もぐりこんじゃだめって わけじゃないさ。ぼくたち ともだちだもんね。」
翌朝――きちんと起きて身支度をして、それから、男の子はウィリーを手にし、こう、伝えます。
「まず がっこうへいって、きみのせんせいに あって、 きみの きゅうしょくを たべて、きみの ともだちにも あって、それからかえってきて、きみに ぜんぶ はなしてあげるもん。ここの まどぎわに すわってれば、ぼくが でかけるのが みえるよ。てを ふるよ。」
「きみは がんばりやだろ、ウィリー。きみは 大きくなったんだ。」
「さよなら、ぼくのくま ウィリー。」
私は、幼稚園へ行けない子どもでした。年少の頃は園バスにも乗れず、いつも父が自転車の後ろにのせて送ってくれていました。先生に呼びかけられても、「いません」と、父の背にしがみついていた想い出。震えるようにどきどきして、いつも何かが不安で。でも、決して嫌いなわけじゃない。行かなくちゃいけないのも、分かってる。けれど。小さな心に突然おしよせる不安な「なにか」に、きっぱり、しっかりと立ち向かうために、縋り付きたいものがあるのです。男の子のウィリーのように、私の父の背中のように。
不安を、思うように口に出せなくても、”不安”を感じていないわけじゃない。でも、だからって、子どもがみんな、弱いわけじゃない。自分で考え、自分で傷つきながらも、「前へ」と進む方法を、親が気づかないところで、必死に、素直に、模索し向き合っている。それが”成長”であるならば、本当に、彼彼女達が自分のてのひらで掴み取った、大人になってもずっと誇れる「成長」の証にほかなりません。胸がぎゅっと締め付けられる瞬間も、だから、手を、口を出してはいけない。男の子とウィリーの絆、ふたりの世界に全てを預けて、これから広がる未来へと、エールを送ることしか、私たち親は出来ないのかもしれません。そして、それは、何より幸せなことでもあるはずなんです。
③『はるとあき』斉藤倫・うきまる 作、吉田尚令 絵/小学館
季節の移り変わり。季節そのもののように優しさに満ちた「はる」が、「ふゆ」の所へ行って、こう言います。「そろそろ こうたいね」ああ、そうか、こうして、四季は移り変わっていたんだな、と、ふっと心が温まる瞬間。冬から、春へ。そして次はもちろん、夏。「あ いちねんぶりね なつが きた」そうしてまた1年間、眠りにつこうとする春。そのとき、「あき」が放ったひとことが、衝撃のように心に刺さります。「ようし あきが くるまで がんばるぞ」
あき? あき?――そういえば、わたしはあきに会ったことがない。当然です。ちょうど境目の季節。関わりのある「なつ」や「ふゆ」から、「あき」について聞くたび、「あき」について知りたい、できればいつか会いたい――そんな想いはふくらんで止まらなくなります。でも、どうすればいい?
「そうだ あきに てがみを かこう」
「はる」は、春にしかない風物――”桜”の美しさを、手紙にしたためます。秋には、どんな花が咲くのかな、そんな質問を添えて。いつか、お会いできることを――そんな言葉で、短く万感の思いを込めて。さて、その手紙を「なつ」から受け取った「あき」は。
「おてがみ うれしかった これは こすもす あきの はな あきの さくらと いわれているけど はるの てがみで はじめて さくらを しったよ いつか おあいできる ことを」
こうして二人の”文通”は続いていきます。心を重ねるように、嬉しくて嬉しくて。しかし、何度目かのやりとりの果てに、突然、「はる」は伝達係の「なつ」に、打ち明けます。もう、最後にしようかな……
「あき へ あきは どんな こ? そうぞうするのが たのしい いつか あいたいなんて あえないのに おかしいね でも そのほうが いいのかも もし わたしに あっても きっと がっかりするから はるより」
いつか、会いたい、もしかしかたら、そんなときが。浮き立つ気持ちで、自分で勇気をこめて踏み出した「一歩」を、相手が受け止めてくれたことが、嬉しくて。でも決して叶わない夢であることを、心を重ねるほどに気づき、これ以上、傷つく前に――いわば「身を引こう」とした「はる」の言葉は、あまりにもいじらしく胸に響きます。しかし、「あき」から届いた返事は――
「はる へ いつも おてがみ ありがとう わたしが みられないものをたくさん みせてくれて うれしい はると おてがみ することで じぶんにも いいところが あるって きづけたよ ずっと あえなくても こ ころの なかには いつも すてきな はるが います」
例えばいつも一緒にいるから、互いを分かった気になったり、愛しているとさえ錯覚すること。すこしの不在が、大きな不信となること。ボタンの掛け違えのように私たちの日常は些細なことから大きなものまで、欺瞞や偽善にあふれているのかもしれない。そんなことに心を憂いさせれば、「子どもじゃあるまいし」と、一喝されて終わりです。でも、本当に、そうでしょうか。
まっすぐに、伝えたい想いを伝えること。気弱になった言葉を、しっかりと抱きとめ受け止めてくれる相手がいたこと。「はる」の小さな勇気と、「あき」のあたたかい心が、互いに一緒にいることを超えて、”おなじきもち””大事な友達”であることを知る。ネットを通してどんな人とでもたちまちに繋がる世界で、広がる分希薄になっていく関係の中で、そんなふうに「信じられる」相手と出会えることは、どんなにか僥倖でしょう。偶然でもなんでもありません。その最初の「一歩」は、いつだって、自分自身で踏み出すことができるのです。
はじまりの季節である「はる」から始まった、季節を超えた友情のストーリー。会いたくても会えない人、いつの間にか忘れてしまった人、子どもの頃、たくさんの時を共に過ごしたあの子の顔。読むたび、ぐるぐると回り、溢れる涙を止めることができません。そうした出会いの中で、私も誰かから何かを受け取り、そしてまた別の誰かに、何かを手渡せる人でいたい。少しずつでも、時に後ずさっても、勇気を持って、温かさを手渡せる勇気を持った人間でいたい。それを教えてくれるのは、3つの作品すべてに登場した、「季節」「節目」というもの。自然と、時の流れと、別ちがたく結びつく私たちの生が、ささやかな日常の中で、愛する人と一緒だからこそ煌めき、そんな瞬間を積み重ねていくことを、理屈でなく教えてくれる珠玉の絵本達です。
(了)