逃れることも断ち切ることもできない。自分自身と世界との物語/『夏物語』川上未映子
根本的で、決して逃れられないものについて、私達は普段、あえて見ないようにしている。
死への恐怖。誰もが逃れることができず、そして、自分の力で変えることができないこと。たとえば女性にとって、自分が「女である」こともそれと同じことだ。
物語の主人公である夏子を始め、登場する女達は皆、自分が女であることの哀しみを知っている。作家である遊佐のように意識的に理由付けをして立ち向かうものもいれば、バイト仲間の紺野さんのように経験を通じて向き合わざるを得ないものもいる。夏子というフィルターを通して、それらはすべて、読者である自分に返ってくる。あふれだす感情は鋭利なガラスのように心に閉じ込めておいたやわらかな部分を突き刺して、彼女たち全員を抱きしめたいような、反対に遠ざけて目を背けたいような奇妙な衝動にかられてしまう。
物語には、性暴力に関する描写も登場する。女性にとって根源的な恐怖を感じる事柄であり、できれば触れたくない、見ないことにしたい領域だ。
しかし作中でも繰り返し語られるように、「女」である以上、幻想を抱かれ、搾取され、いつでも他者に何かを奪われる存在であることは事実だ。
性暴力は極限のかたちであっても、女が生きることのしんどさの根は同じ。裕福な家庭に生まれた編集者の仙川と夏子との対比。ほんとうのことは誰にも分かってもらえないからこそ、冗談にするしかないような、夏子の子ども時代のどん底の貧乏の話。こどもを生まない人生、仕事にかける人生を選択してきた自分をぼろぼろの育児ママたちと比べ、「私はああならなくてよかった」と肯定する仙川が病気によって早すぎる死を迎え、ひとりぼっち、地を這うようなあきらめの中に生きてきた夏子が「精子提供で子どもを生みたい」という無機質で身勝手(と世間的にはされる)な選択の末に、パートナーと我が子を得ることで物語は幕を閉じる。
生まれてくる時代も環境も、家族も、性別も、なにひとつ選ぶことはできないからこそ、私達は、生きる意味がある。どれほど答えが欲しくても、答えなんてどこにもないからこそ、自分が本当はどうありたいかに真摯に耳を傾け、悩み、傷つきつづけることに意味があるのではないか。
他の誰かから与えられた「じぶん」の体を使って、他の誰でもない、「じぶん」を生きること。毎日毎日、終わりがくるまで、新しい朝を迎えること。大切な存在と出会い、愛すること。互いを信頼で結ぶことのできた逢沢と夏子の、恋人としての交流や愛の描写はなぜ描かれなかったのか。
誰かと「愛し合う」ことは、つきつめれば状態でしかない。「結婚していること」「結婚していないこと」「ママ友」「嫁姑問題」「ふつうに結婚した両親から生まれたこども」「AIDで生まれたこども」それらもまた、第三者から見た単なる状態でしかない。
世間から良い“状態”でみられること(うちは夫とうまくいってます・お受験に成功しました・結婚記念日には欠かさずプレゼントをくれます)に心を砕き、安心を得ようとするのは、薄布で目隠しをして日々を生きるのと同じだ。逢沢がある日突然、AIDによって生まれた自分の出自を知らされたように、盤石と思っていた人生の踏み板がある日突然、はずれることは誰にだってあり得る。だから大切なのは、“必要とされたい”“愛されたい”一心で、みせかけの「状態」に縋るよりも、自ら動くこと。自分で決めて、自らを、そして大切な誰かを愛すること。どうすべきかをいつだって、自分自身で選択すること。
主人公・夏子は、幼い日の経験でそのことを既に知っていたからこそ、「状態」を求め生きることのむなしさに気づき、自分の心の底からわきあがる強い衝動――『自分のこどもに会いたい』を叶えることができた。「ひとり」から「ふたり」になった彼女がこれからどうやって、”じぶん”を生きていくのか。何度も悩み傷つきながら、望みを本当の意味で叶えることができた彼女ならば、きっと大丈夫。
そう思わせてくれる、彼女の強さ、頑固さ、しなやかさ、それは女性そのものだ。
「なんでこんなものがついてるんやろう」望まない性器から、求めてやまなかった、新たな命が生まれてくる。自分だけのこどもが生まれてくる。
女性であることから逃れられないことはしんどいし、それに向き合うことはもっとしんどい。それでも目を逸らさないで、逃げないで、自分を愛して、抱きしめてあげて――
言葉では語られない、作者のメッセージが読み進めるほどにぐるぐると回り出す。そう感じることができるのは、私自身が女性だから。
「じゃあ男にはわからないっていうのか」そんな批判が、あってもいい。それはそのとおり。けれども女性が、この物語に女性だからこその共感を得られるからこそ、その感動とメッセージの大切さは、男性にも届くのではないか。理屈ではないものが、ときに理屈以上に力を持つのではないか。
にわとりと卵のように、陰と陽のように、この世の全てには理想の光とともに嘘にまみれた闇があり、逃れることも断ち切ることもできない。それでもこの物語は、世界の闇をまるごと愛せそうなほどの限りのない強さとあたたかさを持った、「生きる」ことへの賛歌にあふれている。