デスクリムゾンこそ96年の時代の空気を捉えている

デスクリムゾンはクソゲーと呼ばれているが、96年当時にナイツだの一年後にFF7だのというのがオーバークオリティで、世間一般からは"浮いて"いたのである。だから当時の人たちの目に輝いて映り、ヒット作となった。これらのヒット作は96年当時のリアルではなく、96年当時の人が見た夢と言ったほうが正しい。むしろデスクリムゾンの、野山を駆けまわってop撮影する手作り感、ファンタジーとトタン屋根や給湯器が同居する日常のチープさ、ネットが普及していないため一人一人が独特の癖のある日本語を手探りで操る日常会話…。そういったナマの96年をレコードとして保存している価値は、デスクリムゾンに軍配が上がるのである。これと似た現象を思い出した。昔のエロビデオもまた、当時の世相や風景を脚色せずにそのまま映しているため、往時を振り返る資料としての価値は非常に高いと言っている人がいた。

デスクリムゾンやアンシャントロマンといった名作クソゲーの多くに共通することに、それが異業種参入組の処女作であるということだ。人が手探りで、命を懸けて、恥も外聞もなく完成に向けて突き進んだ時、デスクリムゾンやアンシャントロマンは必ず生まれるのかもしれない。今日もまたどこかで、初めてゲームを完成させようと悪戦苦闘した人の手の中で、無数のデスクリムゾンやアンシャントロマンが産声をあげているのではないだろうか。それらはほぼすべて、「こんなものを世間の皆様にお見せするわけにはいかない」ということで闇に葬られる。だが日本の90年代ゲームバブルという奇跡のようなめぐりあわせによって、デスクリムゾンやアンシャントロマンは世に出ることができた。物を作るとはどういうことか。できた物の何が人の心を打つのか。そのテーマを深く考えるにつれて、これらクソゲーと呼ばれる作品への敬意は高まってゆく。少なくとも、Artという観点から見れば、クソゲーはヒット作よりも魅力がある。Artが商業の世界に一矢報いた、そんな快哉も多分に含まれている気がする。

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