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「感情」のある「血の通った」人間
私は人間なので、その時によって感情が動くことも、状況に応じて感覚が鋭くなったり鈍くなったりすることも、気が変わる、気分が変わることも、それに伴い目的ややることが変わることも、趣味・志向が変わることも、どれもとっても当たり前のことだった。
それなのに、すっかり忘れたふりをして、ずっとずっと押し込めていた。
まるで、「感じること」・「反応すること」・「自分で変化すると決めること」を否定するみたいに、それらが存在してはいけないもののように扱っていた。
それは「母の真似」だったし、そうすることで「母を肯定」して、「自分を否定して隠して」きたのだ。
母は、ほとんど感情が出ない人だった。
感情の波が少ない人を「穏やか」と表現することはあるが、それとは程遠くて、むしろ「爬虫類」とか「自分とは違う生命体」のようなイメージが近い。
暗くて、少しカーキや茶色が混じって濁っているような深めの青色、というか、「悲しみ」や「諦め」の感情やイメージに近いような空気をずっと纏っていた。
物凄く大変だったであろう義母(私の祖母)の介護も、一人娘である私の世話も、夫(私の父)や義姉(私の叔母)の相手も、ほぼ毎日、ずっと、その「悲しみ」や「諦め」の表情で、雰囲気で、空気で、一つずつ「まるで業務のように」こなしていた。
父は、そういう母と比較すると、感情がよく表に出る方だった。よく怒っていたし、よく悲しんでいた。父と母の仲は気付いた時から冷え切っていたし、父も母の考えていることが分からず、振り回されていて、楽しんでいることや喜んでいることは少なかったように思うけれど、とにかく母と比べれば分かりやすかった。
そして母は、そんな父の感情に対して、「拒絶している」ように見えたし、訴えも、気持ちも何もかも全く「響かない」ように見えた。相手の感情に対して、「動かない」と決めているようだった。とにかく、その場をやり過ごすことに徹底しているように思えた。
その態度はさらに父を怒らせ、悲しませ、悩ませた。そのおかげで、私にとって地獄のような空間と時間が、家族への希望を断つ方が楽だと思えるような日々が、毎日、毎晩、終わりなんて見えないくらい、延々と続いていた。
私は、そのやりとりを見続けて、「感情に揺り動かされてはいけない」と思ったし、「感情を表に出してはいけない」と思ったし、「どんな理由があれど怒らせたり悲しませてはいけない」と思ったし、怒らせたときには「とりあえず謝らなくてはいけない」と、強く心に刻んだ。
私は母にとって、父とは違うかもしれないと願いを込めて、タバコだ酒だ万引きだと「反抗」してみたこともあったけれど、少しだけ母の「悲しみ」と「怒り」が出て「情けない」と言われただけだった。なので「反抗」は早いうちに諦めた(それでも「母の気持ち」を引き出したことに違いはなかったから、今の今まで小さなものから大きなものまで「反抗」をずっと続けていたと今気づいたが)。
父と同じように、感情を出して「反抗」してみても望んだ「母の興味・関心」は引き出せなかったので、今度は母に同調するようにした。家庭内で怒る目の前の出来事に対して、「拒絶」し「否定」し「反応しない」ようにしたのだ。そうすることで「母を肯定」して、「母の味方」になり、「母が認めてくれる」と思っていた。
出来る限り「感情を動かさず」、仕事や家事を「業務としてこなし」、人との関わりも「深く入り込まないよう」に、「気を許さないよう」にする。それが「正しい」のだから、悲しくても辛くてもムカついても寂しくても空しくても悔しくても、「気付かないフリ」をする。そもそもわたしは悲しくないし辛くないしムカつかないし寂しくないし空しくないし悔しくないんだから、と。
案の定、無理だった。
自分を置いていきぼりにして、無視して、虐めた結果が、今だ。
悲しいも辛いもムカつくも寂しいも空しいも悔しいも見ないようにしたから、嬉しいも楽しいも熱中も大好きも満たされるも興奮も没頭も忘れそうになっていた。
どれもあるのが「自然」だし、あって良かったんだ。わたしだけの大切なものだった。そもそも母に大事な席を譲る必要がなかった。そうまでしないと愛されないわけではなかった。
今から思い出していくから、これまで見ないフリをしてきた分、とてつもなく悲しいことも、とてつもなく苦しいこともあるだろう。だけど、どんなに振り回されたって、自分の感情は、自分だけのものだ。