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幼いままは弊害だらけ

おそらくわたしは、皮膚の感覚とか、骨や関節に伝わる感覚が過敏なようだ。
他人の感覚と比べようもないから、実際のところ過敏かどうかはわからないけれど、思い返してみると自分が判断の頼りにしているところがある。

その人と仲良くなりたいかどうか、興味を持てるかどうかも、外見や肩書がどうとかより、「肌が合いそう」かどうか、纏っている雰囲気が「柔らかい、温かい、キレイ、清潔感がある」とか、「声の響きが身体に心地いいかどうか」などの肌感覚、体感覚を重視していた。
その判断がいつからかは全く覚えていないが、目や、耳や、知識として頭に入ってくる情報より、いつの間にか「体」で感じる情報で判断するようになっていたし、その判断を肯定していた。

例えば、満員電車で誰かと密着したとき。
それは誰であっても、どうあっても不快だけれども、その中でも「生理的に無理」または「どうやっても無理」でいてもたってもいられないかどうかは、相手を見なくても、背中にその人の一部が触れただけで感じて判断する。
他人が近いから気持ちわるいとか、そういうことではない。
無理なものは無理なのだ。触れていられない。
生理的に無理なのか、トラウマで無理なのかは、改めて考えるとごちゃごちゃになっていて、わからない、わかっていないが、「触れてはいけない」という司令にも似たとっても嫌な感覚が、背骨を通って頭のてっぺんまで上がってくる。

数年前まで、こういう感覚を皆が持っているのだろうと、感覚で判断しているのだろうと、思い込んでいた。
何気なく人に話して、全く共感が得られなかったときは戸惑ったのをよく覚えている。

改めて思う。
感覚は、きっと、過敏なのだと思う。

だけどそこに、自分のトラウマから、快や不快の感情を間違って絡めてしまっている。
感覚でしかないものに、嫌な思い出と感情を絡めていたり、感覚でしかないものに、いい思い出と感情を絡めていたり。
親がまともじゃないわけで、親が立派じゃないわけで、親が気持ちのわかる人間じゃないわけで、親が寄り添ってくれたこともないわけで。
そんな人間の思い出にも感情にも、「まとも」なことはほとんどあるわけがなかったのに。

そして、人と自分の感覚の違いも、人と自分の社会的背景や、立場や、役割や、個人個人の価値観の違いも、幼稚なまま、アダルトチルドレンを引きずったままで、それらを十分に理解せずに進んできてしまった。

「自分の感覚」と「それに絡めた感情」をぐしゃぐしゃに絡め、紐解かず、アップデートしないままに。
そして、「他人と自分との差異を理解すること」と「他人を知って思い遣ること」が足りずに、たくさんのコミュニケーションエラーや迷惑をかけてきたのだと思う。

幼稚な自分のまま、感覚も感情も知識も経験も重ねてアップデートしてこなかったから。
今までの判断が、本当に「生理的に無理」なのか、トラウマから、自分の勝手な都合で「避けただけ」なのかわからない。
いや、きっと、自分のあまりの「無知さ」や、自分自身から逃げてきたことを考えると、「後者が多かった」のだと思う。
苦手に向き合い、ネガティブな気持ちと感覚に向き合い、たくさんの「変わるチャンス」を、「トラウマを克服するチャンス」を、逃してしまったのだと思う。

そして、自分と他者の違いを知ること、理解することも、全く足りなかった。

ポジティブとされるものも、ネガティブとされるものも、自分の感情に向き合ってこなかった。
どうしてこんな気持ちになるのかも、そのときに感じる感覚も、鈍らせたり、ほうっておいたり、誰かに、何かに誤魔化してもらおうとしてきた。

自分のことがわかっていないのだから、そして、他人のことなんて知ろうとも思わず、自分に合わせてほしいと自分勝手に利用しようとしてきたのだから、人の背景も、価値観も、感情も、わかるはずがない。

そんな相手に近付こうと思わないし、そんな相手と仲良くしようとなんて、思わない。

自分で、人との関わりを遠ざけて、人と関われる人を羨んで、妬んで。

また、「かわいそうな自分」「できない自分」を続けていこうとするところだった。

そんなことをしても、誰も、自分さえも、得なことはひとつもなくて。
ただ他人に迷惑をかけ、他人と繋がれず、他人が離れていくだけなのに。

悠長なことをしている時間は全く無くて、どんどん確かめて、書き換えて、正していかないと、本当の自分の「活かし方」を探していかないと、空っぽどころか、間違ったままで終わってしまう。

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