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人と関わっていくこと

私の中で、「食べ物」が「物質」として、そして「母の愛情に代わるもの」として、自分を満たして、甘やかして、誤魔化して、依存させるものだった。

母と「同じ時間と空間を過ごせたこと」や、「同じような感覚を持っていると思えたもの」、「自分に興味関心を持ってくれたもの」も、「料理や食事」だった。

だから私は、そこならば「繋がれる」と思い込んでいて、今までの私にとって「誰かと一緒にする食事」が、「自分と誰かを繋げられる方法」だった。

逆に言えば、一緒にお茶をしたり、食事をしたり、と、そういうこと以外で誰かと「深く繋がる」ことが滅多になかったように思う。

これまでずっとお世話になっている方や、その方を通じて知り合った仲間の方とは「心のこと」で共有してもらったり、理解しあったりすることもある。

しかし、自分で作っていく繋がりは、一緒にいる時に「食事やお茶」をすることが多くて、そうしたいから、というよりは「それ以外の繋がり方が分からない、経験が少ない」ということだったんじゃないか、と思っている。

同じものを食べて、同じものを美味しいと感じたり、相手と自分の好みを知ったり、そういうことで「内臓」で繋がったり理解する感覚、というか、言葉や話の「表面・上辺」じゃなく、「感覚的」なところで知ることができる、というか。

確かに「食事を一緒にする」ことで、分かりやすくなることはあったけれど、「それ以外の繋がりが乏しい、少ない」というのは勿体ないというか、寂しいというか、狭いというか、一部しか知らないというか、なんだか不十分で不格好で偏っているのではないかと思った。

じゃあ、何で、どんな風に繋がれるのかはまだ分からないけれど、しっかりと相手の目を見て、ゆっくりと話を聞き、焦らずに相手を知って、受け止めて感じる、そういうことでいいんじゃないかと思ったりもする。

「会社」や「業務」での関わりじゃないから、頭で考えたり切ったり貼ったりして何ということもないし、ただ、「こうしたら相手も動きやすいかな」とか、「こういうことで力になれるかな」とか、「一緒にいると穏やかだな」とか、そういうことからでも、自分と、相手と、繋がることができるんじゃないかと、なんとなくだが感じだしている。

「食」に、「食事」に、縛られて依存して、頼り切るのは、終わりにして。

言葉があり、表情があり、仕草があり、行動があり、振る舞いがあり、空気感があり。

もっと色んな情報が、自分を、そして関わる人たちを取り巻いているし、自分のコミュニケーションだって、まだまだ、広げられるはずで。

下手くそかもしれないけれど、変えていきたい。変わっていきたい。

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