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小さくても変化を重ねる

自分の中の、これまでの「食」に込めていた意味を知ることができ、
そこから今の自分にとって不要なことは手放し、改めて、これからの自分のための「食」へ切り替えが起こってから約5日。

実際に食べる量を減らし、食べる内容を見直した。

そうすると、どれだけ自分が今まで、食べることに「甘ったれ」、食べることで「誤魔化し」、食べることで「感じないように隠し」てきたことがあるか、まだまだ少しずつではあるけれど見えてきた。

わたしは、「食」に依存して、囚われていて。つまりは「母」に依存して、囚われてきて。

これまでの私は、食べる「量」でも、食べる「内容」でも、「食べ方」でも、さらには食にまつわるもの、生活にまつわるもの、具体的には食材や、調理道具や、食器や、キッチンという空間に至るまでの色々なものも、大切にせず、向き合わず、何も見ずにいた。それら全てに「母の影」を追っていて、「どこにも自分がいなかった」のだと実感した。

食べる量が減り、食べない時間が増えたことで、イライラもしたし、ソワソワして落ち着かなかったし、ふらつくようにも思ったし、頭も働きにくいし、手足が冷えているように感じたし。そういう今まで自分が避けたかった感覚や感情が、少しずつ出てくるようになった。そういう避けたかった感覚や感情を、また「誤魔化すために食べる」ことはとても悔しいし、後戻りしたくない、と思い、絶対に食べなかった。

イライラとか、ソワソワとか、そういう再度「食べることを正当化する言い訳」が沢山出てきたけれど、やっぱり「言い訳」であって実際はなんてことはないことだった。イライラはきちんと向き合えば理由はわかったし、ふらつきだって治るし、考えよう、頭を働かせようと思えば普段通りに動くし、というかむしろクリアに考えられたりするし、散歩したり体を動かせば冷えは消えて温まるし。目の前のことに集中して、丁寧に向き合って動けば、「言い訳」はどんどん消え失せて、忘れてしまえた。

そして、代わりに「自分の感覚や感情」が少しずつ戻ってきているように思う。

自分にとって「要る・要らない」も前より分かるし、「興味がある、ない」も前より分かる。「気になること」も前より分かるし、「身体を動かす」が、頭ではなく、心に近くより深い感じで心地よくなった。「動いてしまう方が早い」ことも腑に落ちてきた。

ずっと、母に、食に守ってもらいたかったんだな、と改めて思う。
そして、もう守ってもらわなくても、自分で立てるし動けるのだな、とも思う。

母は毎日、仕事から帰って、疲れている中、うるさい家族に囲まれる中でも私にご飯を作ってくれた。お弁当の日は、私の好きなものを沢山詰めてくれた。誕生日やお祝いの時は、私の好きなものをいつも買って準備してくれた。

母と違う生き物である私は、母が与えられないものばかりを欲しがっていた。もらえないもの、もらうことが難しいものばかりを求めて、もらえないことばかり見て、感じて、フォーカスして、母に愛されていないと、自分は見てもらえないと結論付けて、悲しんでいた。

母は、母なりに私を大切にしようとしていたのだと思う。それを私は、どこか心の奥で知っていたのだと思う。だからこそ、その「母の愛情」に依存して、利用して、甘ったれるために「摂食障害」を選んだんじゃないか、と、今考えている。

まだまだ、もっと、私が忘れている気持ち、隠している気持ちがあるだろうと思う。もっと手放して、感じ直して、深く潜りたい。自分を知って、同時に、色んなことをゆるしていきたい。

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