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参加賞でも喜べる心を持つと楽になれる

小学校の頃、地区の運動会というものがあった。
地区ごとに学校を借りて貴重な休みの日に運動会が開催される。僕たちが面倒だけど冷やかし程度に覗きに行っていた。

別に勝てようが、負けようがどうでもよかったから友達と話したりする場の様な感じ。それはそれで楽しかったんだけど。

競争に参加をすると順位ごとに景品が貰えるシステムになっていて、子どもたちはそれを餌に走らされる理由だ。しかし家の地区は貧乏だったのか?商品が余りにもショボかったのを覚えている。1等は確かノートだった気がする。

勿論そんな景品欲しさに勝とうとする生徒などいるわけもなく、ただ走って楽しめるという雰囲気で運動会は運営されていた。で、一生懸命走れた子供には参加賞として袋のお菓子を一つ貰えたんだけど、どう考えても1等よりも参加賞の方が魅力的という、ある意味一応参加だけさせようとする、大人の必死さが感じ取れた。

それでも勝ち負け問わず、景品問わず運動会があればなんとなく集まる子供たちは、ただ楽しめればいいという気持ちだったんだと思う。景品にぶつくさ言う理由でもなく、かといって勝敗に一喜一憂するわけでもない。

ただ楽しめればいい。という考えは常に一致していたんだと思う。


心を軽く生きていくために、今とりあえずあるものを見つめるのが大事なんだと思っている。お金が無いから、能力がないから、才能がないから。そう言うことばかり言う人って、基本的に自分を見つめていない。自分が目の前に立っていたとしても、その自分を押しのけてその先を見つめている。

もし自分が〇〇だったら、今よりはもっと幸せになれるのに。もし自分が〇〇だったら、今よりも豊かに暮らせるのに。

僕はその考え自体は間違いではないと思う、だけどはっきり言うけど正しくもない。そしてそういう人はいくら思っていたものを手に入れたとしても、でも今よりも良くなる筈だから。まだ自分の理想に達していないから。自分よりも凄い人なんて山程いるから。と言うだろう。

そして尊敬する人や自分の推しの有名人等に対して、過剰に自分の理想像を押し付けてしまう。「あの人は完璧だから、日常生活でもパーフェクトなんだろう」「あの子は清楚だから家でもおしとやかなんだろう」とか。
でも人間て見えない所で何をしているのかわからないじゃないですか?自分の思い通りに動いている人なんていませんよね?外で完璧かもしれないけど、家ではぐーたらしているかもしれない。外では清楚でも家では傍若無人かもしれない。それはわからないじゃないですか?

何かに長けている人は凄く見えます。だって有名であれば尚更、多くの功績を残したでしょう。だからといって全てが完璧だとは限らない。野球のイチロー選手だって、あれだけ野球上手いから、さぞ他のスポーツも出来るんだろう?と思っていたら、びっくりするぐらいバスケットボールが下手くそでずっこけそうになりましたw

その時僕は「自分が持っている勝手な理想像なんて、なんの意味もないんだな」と思ったんです。僕だってこんな記事を上げてますが、外では素晴らしい人間ではないと思いますし、過去にやらかしてしまった事や、クソみたいな事を人にしてしまった事もあります。決して褒められる様な人間でもないんですよ。どの面下げてこんなこと言ってんだよって話ですよね。

でもだからといって自分を否定していると言われば違います。出来ないこともあるし、劣っている部分があるからこそ、自分に出来る事もあるだろうと考えます。だからこそ、僕はこういう記事を上げるんです。自分の出来る範囲でやれる事を楽しんでやりたい。それは上を見ずに下も見ず。自分が出来る事、伝えたいことを、欲しい人に届けたい。全ては平行線上で物事を考えるからこそ出来る事なんですよ。

上を目指せば限りない。自分よりも若くて、頭が良くて、能力が長けている人なんて山のようにいる。
入口は広くても徐々に上がるたびに幅が狭くなります。

もし貴方が見ている人の背中。その人がとてつもなく羨ましく思えたとしても、その背中もまたその先の背中を追っています。そして上に上がるたびに下が増えて来ます。我が先にと上がって行くという事は、誰かを踏んで上がっていく。それが永遠と続いて行くだけなんですよ。悲しいことに。

物事の原動力というのは、勝ち負けだったり、承認欲求だったり人それぞれです。結果が残れば残る程、物事の達成感が強くなります。折角徒競走に出ても勝てなきゃ意味がない。1等を取れなければ意味がないとなれば、2等も3等も大差がなくなる。そうすると物事に対する喜びの幅がすっごく狭くなるんですよね。だって1等以外は意味がないんだから。

鬱病や精神を病んでしまう人って実はこういう考えの人が圧倒的に多いんです。妥協が出来ない。
自分良さを認める事が出来ないで、何か自分を取り繕うものが無ければいけない。勲章と言うか、自分の身体にベタッと輝くダイヤモンドが無ければ意味がない。そう考えてしまうんです。でもそれは自分自身のせいだけではないです。今まで生きて来た環境を振り返ると、親が周りが常に自分を否定してきた。ちょっとの事でも許して貰えなかった。認めて貰えなかった。そういう人が心を病んでしまうんです。

でもそういう状況から抜け出せる方法ってのは、たった一つしかなんですよ。心療内科に通い続ける事が鬱病の解決には繋がるとは限らないんです。結局他人では鬱病を完全に治してやることは出来ない。何故ならば考え方自体が少し噛み合っていないから。じゃあどうすれば受け出せるか?

「どんな自分でも認めてやる」

それだけです。徒競走に参加できた自分を認めてやる。普段よりも違うことが出来た自分を褒めてやれる。ちょっと得意なことをやって自分で自分を褒めてやれる。人よりも凄い人になるんじゃなくて、人よりも自分を認めて褒めてやるんです。

自分で作品を作ってめちゃくちゃそれを眺める。
ずーっと飽きるくらい眺めていると、すっごく好きになってくる。コンテストには応募できなくても、自分自身で1等をあげてあげる。もし応募して全然駄目な結果に終わっても、自分はこの作品が大好きだって認めてあげる。

そうすると形だけの競争なんて、あまり意味がない様に思えてくる。負けちゃっても参加賞しか貰えなくても、楽しかった、出られて良かったって思える。それで僕は良いと思うんですよね。その方がずーっと気軽に生きられるんですよ。人生がもっと楽になると思うんですよね。

だから自分が大嫌い。自分は能力がないって思う人ほど自分には何があるだろうと考えて欲しい。そしてふと思いついたものをすぐ掴んでやってみてほしい。身体が動かなきゃ、何かに書き出して欲しい。覚えていて欲しい。
そしてそれを誰にも見せないで、それに没頭して欲しい。人の評価なんて二の次三の次。それは完全にシカト。
取り敢えず作る。そして穴が空くほど見つめる。ムカついてぶっ壊してもいい。気に入らなきゃ辞めてもいい。そしたら次に湧いてきたものを掴むだけ。それを繰り返してくと何かにぶつかる。そしたらそれに没頭する。
やらされているからやるではなくて、楽しからやる。やりたいからやる。それだけ。それが必要だと僕は思う。


駄目でもいい。参加賞が貰えればそれでいい。
何かに挑戦出来た事があればいい。それを繰り返すと自信がどんどんついていく。

周りが運んで来るのではなく、自分がキッカケを作って自分がつけていくもの。周りや結果はそのもっとあと。
先ずは自分。自分で自分を愛せるか。認められるか。信じられるか。


それは悪いけど人にはできない。

全ては自分次第。以上。


それではまた🫰🫰🫰🫰

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