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桜の木って、なんで花が咲かない時は無関心になるんだろうね

桜が咲くと人は皆桜の木の下に集まる。ピンク色の色彩が美しい花を、皆が歌い笑い一つになっている。

でもそんな時期もほんの一瞬で、気がつけば人は離れていく。僕は少し疑問に思うことがある。「桜の魅力って花だけなのだろうか?」

春の訪れを感じさせる桜の花。でも結局はそれだけな気がする。言ってしまえば、時間通りになる目覚まし時計のようなもの。時間が過ぎれば、ただのうるさいノイズの様。誰一人として桜の木の下に集まらなくなる。


僕は敢えて、家の近所の桜の木に近づいてみた。眠っているのだろうか?それとも自分が輝く一瞬の時の為に、その時をずっと待ち続けているのだろうか。

決して鮮やかには見えない桜の木も、入り組んだ沢山の枝や、屈折した独特な形のおかげで物凄く幻想的に見えた。

改めて生命の力強さを僕は桜の木から感じたのだ。


そして桜の木の足元を自分のスニーカーでドンドンと踏んでみた。この下はどうなっているのだろう?まるでパイプの様に、いやアナコンダの様な太い木の根が張っているんだろう。それはあまりにも生々しくてグロテスクに見えるんだと思う。

だけど桜の木はそれを敢えて見せない。醜い部分を覆い隠して、花が咲く日をひたすら待ち続けている。


この世の多くの生命はとても美しい。だけど美しさを人々に見せるまで、ありとあらゆる過程を踏んでいる。

羽を広げる前の孔雀も、何処となく地味に見えるだろうし、蝶になる前の幼虫や蛹は少し気持ちが悪い。でも生命が輝く一瞬の時は美しく見えるだろう。

だから敢えて今回はその過程にフォーカスを当てた。結果が重視だと言われる事でも、やはり課程って凄く大事なんだと僕は思う。


"完全よりも不完全"


その状態こそ、生命は美しくあろうとするのではないか?僕はそう感じてならない。


花が咲いていない淋しい木の枝ばかりの木も、桜である。綺麗なピンク色の花が咲いている時だけが桜ではない。

僕たちはいつも結果ばかり見つめる。結果を追い求めすぎている。結果を求めるあまり先急ぎすぎている。


地中に潜る太い根も、幾千と伸びる木の枝も、桜の木の表面もその全てを愛してやれなければ、花は綺麗に咲き乱れない。良いも悪いも見てきて、その感情や空気を存分に吸って、嫌でも立ち尽くさなければならない。

目を背ける事も、逃げる事も出来ない。自分は此処で根を張るんだと決めて、何十年も月日が流れる。

だからこそ自分の中に張り巡らされた根を触って、自分の木の表面を撫でてやって、入り組んだ枝を触ってやる。

そして来るべき時の日の為に、敢えてその生にすがりついてみる。人間らしく、泥臭いけど、でも桜の木だって、交尾の後に共食いするカマキリだって、手足が生えた歪なオタマジャクシだって、生に存分にすがりついている。


人間だけが何故泥臭くしがみついてはいけない?そんな決まりはない。この世に生を頂いた生命は、存分に生にしがみつけばいい。それを成長の妨げだと言うのならば、それを逃げだと言うのならば、花が咲かない時期以外は無価値だと言えるのだろうか?


美しさってそういうものだと思う。生の全ての集大成が美しさに結びつく。一時の花が咲くシーズンだけじゃない。

美しさとは人生であり、美しさとは過程でもある。


僕はどっしりと立つ桜の木の表面を撫でた。木の表面の歪な模様と、固い木の表面。彼らは、来るべき時の為に静かに呼吸をしていた。

そして桜の木の波動と自分の波動が一体化した時、僕は自分の人生を投影させた。


「大丈夫。何も問題はない。」


僕は僕である。どんな時も、どんな気持ちでいても、深い根っこが張り巡らされる。そして僕の頭上の木の枝に、いつしか無数の美しい花が咲く。

「ただ生きれば良い、ただ自分を信じて」



木の枝から伝わった言葉は、強く、優しく、美しかった…。そして一瞬だけど、僕の目の前に美しい桜の花が咲き乱れた様に見えた。


季節外れに咲く桜の木というものが存在する事を知った。多くの木々が葉を徐々に枯らしていく中で、一際美しく咲き乱れる華。10月から11月にかけて咲く、フユザクラ、ジュウガツサクラ。

僕はまだ一度も目にした事は無いが、季節外れに、一足遅く輝く華をつける。その美しさはきっと春に咲く桜より、強くたくましく映るだろう。

多くの生命が活動を終える時期。眠りに落ちて、輝くべき時を待つ時期に輝く桜。


その桜もまた、輝く時を待っている。人目につかない時期をずっと静かに耐えて待っている。輝いて咲き乱れる姿を彼らは眺めているだろうか?いつか自分も輝ける時期を待っているのだろうか?


人の人生もまた、人それぞれ輝ける時期があるのだと思う。今自分がどれだけ長い眠りの時期にいたとしても、多くの輝く存在を目にして、惨めな思いをしていたとしても。いつかはフユザクラやジュウガツサクラの様に花咲かせる時期が来るのだということ。


だからこそ今この時。ゆっくりと栄養を蓄えて、地中からエネルギーを吸い出している時期に、僕達は何が出来るのだろうか?


この世は平等だと謳われながら平等ではない。だけどどんな人生であっても華が咲く。僕はそう信じていたい。

そして自分にはどんな華が咲かせるだろうか?この華はいつどこで誰かの目に留まるだろうか?そしてこの華はいつか誰かを感動させる事が出来るのだろうか?


赤でもいい、ピンクでもいい、白でもいい。どんな色であっても、どんな形であっても華は華である。


僕達はその可能性を知るべきだ。個人個人の美しさを知るべきだ。自分自身の華に自信を持つべきだ。


僕達の人生。そして花の人生はとても良く似ている。

今日が駄目ならば、明日。明日が駄目ならば明後日でもいい。


ゆっくりと静かに来るべき時を待ってみるのもいいだろう…。


いつか僕達の華が美しく、大胆に咲き乱れる時を願っている。そしたら僕達はその華を存分に誇れる様に


今、この時を十分に生き抜いて見せようじゃないか?


生きよう。生きてみよう。この大地の生命の様に…。


ゆっくりと優しく力強く…。





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