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何故人が死を恐れるように出来ているのか?を考えてみる。
本格的な寒さが去って、先週までの寒波が何処へ行った?ってくらいに今日は暖かいです。
春の訪れ。全ての生命が目を覚ます時期に、落ちた命が再び根を張って、徐々に芽が出て来ます。
「死が来れば、生が産まれる」
そういった自然のサイクルの中で生きる僕達が。自らの一生を投影した場合、果たして「死が全ての終わりなのか?」という考えに行き着く。
多くの物語にとって、死とは永年のテーマであり、大きなイベントです。散りゆく命、その壮大なテーマこそが、物語を大きく彩る展開なのではないでしょうか?
人が産まれ、そしていつかは死にゆく。
沢山泣きながら産まれた僕達は、人生最後の瞬間には安堵の表情で逝ってしまう。僕は多くはないですが、人の死の瞬間に立ち会いました。
苦しんで苦しんで、最後の亡くなる瞬間は、皆が美しい表情でこの世を去って行きます。
悲しむ遺族の存在とは逆に、思い残すことなく、まるで晴れ晴れとした表情を見せるので、なんだか悲しさが急に引っ込んでしまったのを覚えています。
「いつかは、何処かで生まれ変わって、僕達の元へ現れるのだろうか?」
僕は安らかな顔を見て「いつか何処かで会えたならば、1ミリだけでも良いから、僕たちとの思い出をまた話せたら良いのにな」なんて思っていました。
僕は最近死についてよく考える事があります。これは別に自殺願望があるとか、そういうわけじゃなくて。死後人はどの様な過程を踏んで生まれ変わるのだろうか?今の命は果たして一生という輪廻転生の中で、果たして何番目の自分なのだろうか?
「本当の意味での死はあるのだろうか?」
という意味です。
ある時期から僕は、死への恐怖が薄れていきます。死が怖いという感情から、果たして自分はどの様にして生まれ変わり、またどの様な環境に身を置く人生になるのだろうか?と。
そして地球上で残した、自らのカルマ。この世を生きる上で、手放せない執着を手放し。出来るだけ魂がスムーズに上がっていけるように、僕の環境は身軽になっていっている様に感じます。
そして次のステージへの移行のために、着々と準備を進めるに当たって、より良い転生へと行けるために、やはりスピリチュアル的な思考というのは理にかなっているという事なのでしょうね。
恐らくですが、人が生きているという事は、すなわち経験値を貯めていくという過程なのだと思います。敵を倒してレベルが上がるRPGとは少し違って、日に日に溜め込んだ経験値を、死後それらの経験値が一気に魂に入り込むことによって、レベルがグーンと上がるような。そんな気がしています。
だからこそ人は「まだ死にたくない。まだ死ぬべきではないのだ」と感じるのだと思うんです。
目標のレベルに達するまで、まだまだ経験値が足りていない。だからこそ、まだ死ぬべきではなく、生きて経験値を積まなければならぬ!!と死を恐れるのだと僕は考えます。
だから人間の身体は物理的には消滅をしますが、魂はまた飛び上がり、新たな身体を通して、経験値を積むようにプログラムされているので「本当の意味での死」は無いと思います。
死からまた新たな人生が始まる。まるで枯れた土地から新たな生命の芽が咲くように。以前の自分自身よりも更にパワーアップした自分が誕生する。
だからこそ、死は恐れるべきものでは無いんですよね。
とは言っても、人は死を恐れる生き物ですしそれはしょうがない。またその感情も学びの内であるので、死に立ち向かえ、死を恐れるなとは言っていません。
ある意味ではそれも最終的な学びの一つであり、それを受け入れられる魂の成長の為でもあるんですよね…。
起きる出来事は全て自分の為にある。レベルアップの為の一つのキッカケにしか過ぎないと思えれば、多くの事は乗り切れそうじゃありませんか?
なので大事な事は、目の前の事に集中する事ですね。自分を信じて、自分を愛するだけで本来良いハズなのだということでした!!
それではまた🌞🌞