魅力的になりたければ、自分の個性を知りまくること。
神様はこの世界(ワールド)に出る前に、僕というキャラクターを作成した。世界の基準を知る神様は、時に人生が面白おかしくなれる様に、絶妙にキャラクターを設定する。
そして僕たちは横一列。よーいどんで人生がスタートする。
「さぁ可愛い可愛い、僕が作ったキャラクター達よ、僕がプレイするゲームを魅力的に演出してくれ」
神様は胸を高鳴らせて、モニターの前に座り意気揚々とゲームをプレイするというわけだ。
物心がついた頃に、人は個性を煩わしく感じざるを得ない。個性は出来るだけ取り払わないといけない社会で、個性とは寧ろ邪魔以外何者でもない。
せっかく神様は個性をお作りになったのに、神様は「こりゃあ仕方がない」とここは一先ず我慢をする。
「ここから、ここからうーんと面白くなるんだな」
そう本当の人生というゲームの面白さは、実はここから始まっていく。
僕たち人間は、個性が煩わしいものだと教えられながらも、歳を重ねる事に個性が必要な場面に出くわす。これは就職や友人関係、恋愛面で、いかに他の人達よりも優れた個性を持ち合わせているのか?いかに自分のカラーを強調するべきか?を試される。
神様がお作りになられた、自分だけの個性を今ここで発揮しなければならないと言うことだ。
そして長年煩わしいとして来た、人と違う個性を受け入れなければならない。これは人生において最も難しい作業だと言える。
だけど例えるならば自分の個性を知り、磨くという行為は良くあるRPGで言うところの「覚醒」というものだろう。
自身の個性を知り、それを覚醒させる。そうすると自分を解放し、新たな自分を発見できる。そこから後はずーっと伸び続けていくだけ、上限はない。好きなだけ自分の個性を解放し続ければいい。
そしてもう一つ。その個性を受け入れてくれない社会。受け入れてくれない人々。それらにもし疑問に感じるのならば、それ以上に自分自身がその社会の裏にある個性を認めるべき、知るべきだと僕は思う。
個性を解放し、自分を高めていく行為は、利己的なものではない。個人を強調しながら、他を排除するものでは無くて、受け入れて貰うためにはそれ以上に他を認めなければならない。
その主張は物事を変えるものではなくて、ただの独りよがりに写ってしまうだけ。それを後ろ指さされて揶揄されてしまうキッカケになる。
年齢や性別。LGBT問題なんかもそう。声がデカくなればなるほど、それは独りよがりになっていく。そうではなくて非常に辛いことだけど、それ以上に物事を認めていかなければならない。
自分を認め続けていくと、自ずと社会に対して寛容になれるし、受け入れていくと、他者も許せるようになれる。そこから大きく成長を続けていく。自分と他人は違うものだと知り、違いを認めて、自分を解放できる。
その為に「魅力的になりたければ、自分の個性を知りまくる必要がある」
僕はつくづくそう感じる。そして認められやすい場所やコミュニティーを探しやすくなる。自然とそういう人が集まってくるというわけ!
物事を沢山眺めてみよう。眺める事は自由だ。好き放題やれる。そこから沢山見つけて学ぶ。それがこれからの課題となるのかもしれない…。
それではまた👋👋👋👋👋👋👋👋👋👋👋