世間の監視の中で、常識という中で、縛られ正しいを見せつけられ、自由を奪われる。
凪良ゆうさんの流浪の月を読んでいる。まだ残りページが残っているけど、この小説に深く共感した内容があるから書きたくなった。
人と人との繋がりや、その人個人の生き方って思っている以上に様々な種類があると思う。人がこれだけ色々な性質や考えや育ちがある中で、何故生き方という常識は1つだけなのだろうと思う。確かに様々な生き方をしてもいい、そういうルールはないだろう。だけどそれが果たして大衆の目にはどう映るのだろう?と思う。
例えば親戚やご近所だってそう。人の噂というのは恐ろしい程に広まる。だけど誰もその深い真実など知らない、もしくは知ろうともしない。ただ話のネタや酒のツマミ程度に聞きたい話題なのだろう。そしてもっと厄介なのは、そのネジ曲がった事情を知り、その関係や生き方を変えてやろうとする事だ。いつも言っているけど人ってどんな形で繋がっているかわからない。本当に多種多様だ。
だからこそ正解も間違いもない。人には到底わからない。その人達の事情なんて。
でも多くの事件が起きたりそれをニュース報道すると。
擁護の声や批判の声が上がる。そして社会全体がざわめいて、関係のない人々まで怒りを露わにしていく。
この流浪の月の主人公の家内更紗は幼少時代、ある大学生の男性の家に数ヶ月居候した。19歳の男と8歳の少女。これは常識的に言えば誘拐事件となるだろう。佐伯文は大人の女性を愛することができない、所謂小児性愛者というわけだ。ただ、この2人の間には何も起こらなかった。ただ只管2ヶ月という期間を同じ屋根の下で過ごしただけだった。
結局彼女と彼は引き離された。世間の監視の元で。
正義感、善意、常識的。時にそれが正しくない時もある。非常に稀だが、時には不安定な人と人との繋がりを引き裂いてしまう。誰も触れる事が出来ない、覗くことが出来ない特殊な繋がり。それを"常識"という漢字2文字でバラバラに壊されてしまうんだ。
人はこうあるべき、こういう将来を歩むべき、〇〇になるまでにこうするべき、男はこうあるべき、女はこうあるべき。今ではその言葉は完全にセクハラになる。
人は人の生き方を否定してはならない。または変えようとしてはならない。何が正しくて、間違っているのかも明確にしきれていないこの世の中で、余りにもマイノリティに対しては風当たりが強い。
更紗と文は15年経った現在でも、過去の事件を引きずり続けないといけない。いつまで経っても更紗は悲劇のヒロインであり、そしてその人生を潰した犯罪者として生きる文。それを世間は常にその監視の中で二人を引き離そうとしている。誰もその真実には向き合わない、知ろうともしない癖にだ。
まるで悲劇のヒロインを悪から救い出そうとする勇者の気持ちなのだろうか?"善意"という印籠を目の前に突きつけて、これが正義という形なのだ!!と世間に見せつけている。悪は殺されるべき、排除されるべき、輪の中から取り去るべきという…。
物事の多様性が浸透して、より良い世界にしたい!と謳いながら、こういった物事にはきっちりと善悪をつけたがる。多くの犯罪者の子供もそうだろう。かえるの子はかえるという言葉が、時に子どもの人生を狂わせていってしまう。これが果たして正義なのだろうか?
多くの人々が混在するこの世の中で、人々の生き方というのは非常に様々なスタイルあるのだと知ると、その入口は非常に狭い様に感じる。"特殊"な人間はふるい落とされる。正しいと言われる常識の入口で。(僕から見れば何が特殊なのか疑問だが)そして選択を余儀なくされる。
そのままふるい落とされるのか?自分を正してこの入口を通って行くのか?
その入口に入って抜ければ幸せがあるのだろうか?
その為だけに自分を偽り、果たしてそれが正しいのか?
だけどそれが常識なのだ。
そして常識はそれらを許してはくれないのだ。
大衆の前に晒されて、見せられて、正される。
それが正義という形だと言われる。
それが一生ついて回る。普通ではない人間だと。
僕は何年経っても普通という常識がわからない。
わからなくて藻掻いた事も多かった。
だけど理解しようとすればするほど、絡まっていく。
そしてその普通が自分を本当の幸せに導いてくれるのか?と何度も疑問に思った。
種は人々の間に平等に撒かれる。
でもその種の種類は誰にも知らされない。
時に赤い花が、時に青い花が咲くだろう。
でもその先には決まった色合いの花しか進めないすればどうだろう?二股に分かれた花は?小さな葉っぱに大きな花をつけたチグハグな花は?変わった形に変形した花は?
その花たちはそこには進めないのだろうか?ふるい落とされ、堕ちていくのだろうか?
何かがあれば世間に晒される。特定される。関係のない人間まで舐める様に自分の世界に土足で入り込む。
それを人々は"エンターテインメント"と呼ぶ。
グロテスクであればあるほど、ファンがつく。それが極上の甘い蜜になる。
僕はその光景が大嫌いだ…。おぞましくて、薄汚くて、吐き気がする。僕らには誰かの生きる理由なんてわからない。人は人であり、その中で生きて、幸せを掴めるならば不安定だろうが、浮世離れだろうが関係ない。
存分に楽しんで、存分に愛を感じて、幸せである事が何故悪いのだろう?何がそんなに面白いのだろう?と疑問でならない。
どんな形であっても美しいじゃないか?しっかりと足をつけて生きているじゃないか?と僕はこの物語を読んで感じたこと…。非常に身につまされる内容だった。
僕がもし更紗と同じ状況なら?文と同じ状況なら?きっと同じことをしただろう。世間に認められなくても、浮世離れしていると指を刺されても、一生被害者、犯罪者というレッテルをつけられても、僕はきっと彼女たちと同じ気持ちで生きていくと思う。
愛なんて形は様々である。それがたった一つの線の上だけの常識ならば、これ以上に無いほどに退屈で面白くないものになってしまう。それが正しいものであっても…。
自由にみせかけて自由ではない。
正しいとみせかけて正しくもない。
掴まれていないけど、常に自分の後ろには大きな手が捕まえようと待っている。
いつ何時この手ががっしりと自分を掴むという恐怖の中。僕たちはこの世界を生き抜いている。常識を変えようと生きれば生きるほど、その手は刻一刻と閉まっていく。
そして最後には掴まれて崩れ落ちるていく。
だから僕たちは有無も言わず、この上を歩かないといけないのだろうか?この監視の元で、息を潜めて生きていかなければいけないのだろうか?
標識という監視の元で。