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自分の最期を想像してみる。

自分の最期。それはいつ何処で訪れるのだろう?それは死という逃れようがない事なのですが。実際亡くなる時は呆気ないものです。なんというか、長い人生生きてきて「そうか、死というのはこんなに呆気ないのか」と思うようなもんだと思うんです。そしてこれはすっごく変な考えですが、死とは何なのだろう?と考える事が多くなりました。かと言って自分で命を絶ちたいとか、早く死を体験したいというわけじゃなくて、死んだらどうなるんだろう?という考えが強いんです。

もし転生というものがあるのなら、どのような形で転生をするのか?その期間はおよそどれくらいなのか?そして次はどの様な場所で、どのような人間として産まれるのだろうか?または、人間として産まれない事もあるのだろうか?と。そういった考えが、死の恐怖よりも強くなっています。

僕達人間は何ひとつとして、この世の物を持ってあの世にはいけません。持てる物と言えば多少の記憶くらいでしょうか?物質的な物は先ず荷物になるだけなんですよ。だから逆に考えれば、今ある物に執着しても転生という時になれば、自ずと手放す選択を強いられるので、あれば嬉しいが、無くても構わないという思考にシフトしています。

だからこそこの地球体験。取り敢えず楽しめる物は楽しんでおく。それに尽きるという結論で落ち着きました。苦しみも、悲しみももしかしたらその体験の一部。自分だけならまだしも、他人の苦しみだけはどうにも慣れなく辛いですが、そういうものだと割り切らなければいけないのでしょうね。

僕は祖母の死を間近で体験しました。午前中まで普通に話していた祖母が、天井を見つめて、声にならない声をあげていました。多くの人はそれを苦しみだと捉えたでしょうが、僕と母はきっと多くの人が迎えに来たのだと、次の転生の為に最後に会いたい人と会えたのだと、これは苦しみではなく、安堵の瞬間なのだと感じていました。そして僕達が今までの感謝を伝えると、少しだけ頷いて見せたのを覚えています。声が届いていないと思っていたのですが、その言葉だけ理解して貰えただけでも「ああ僕たちの役目は終わったのだ」と腑に落ちる事が出来ました。

だから死というのは人生の大きなイベントでは無く、明け渡し。次へのステップ。そして無ではないという事を最近考えます。そして有限のこの世界。僕は後どれだけこの命が残されているのか?それはわからない。わからないからこそ、僕が出来る事とは、誰かの道標になれる事。人は皆必ず同じレールを歩いていない。同じ場所にいる理由ではないからこそ、出来るだけ多くの人が、少しでもいい人生になれればいいなと願いたいんです。

noteも初めは軽い気持ちで始めました。自分の言いたい事をズバッと言える場所かなって思っていましたが、多くの記事を見返すとまるで他人事に見えない、自分の為に書いた記事の様にも思えるんです。自分で書きながら、自分への道標となっている事が多く、自分で読んで納得する事も多々ありました。

そして書いていくと、いかに言葉というのは難しく、とても重要なものだと実感します。わかりやすく出来るだけ理解して貰う方法を考えたりします。そして時にその内容が言いように捉えられない事も学びました。でも、それもある意味文章を書く奥深さだとも感じます。理解されない事もまた、新たな気づきでもあるんだなと。人と自分が違うからこそ、見える景色もあるのだなと実感出来ます。

改めて文章を書く面白さを感じられますし、新たな発見が見つかります。その全ての原動力が取り敢えず楽しんでみる。それが終着点だと思えます。そして感謝されたり、喜んで貰えたりする事何よりの救いなんです。

すべてがバラバラに見える世界が、気づきによって統一される。散らばって全てが集まる。そしてそれが統合された時に改めて全ての気付きとなっていく。その一歩一歩を存分に感じる、楽しむ。それを感じながら生きていく喜びを少しづつ理解出来る事がまた人生というものなのかな?と思えるんです。

だから執着を手放す事に執着しない。全てを受け入れて全てを流す。そして全体を眺めて、理解する。その事を今少しずつ分かって来ている段階です。この感覚は去年にはありませんでした。少しずつ、少しづつ確実に掴めて来ている。

僕はその過程をちゃんと噛みしめられる。それが今、新たな成長となっていると思えるんですね。

苦しみも、恐怖も、全てあるもの。でもその中から何かを掴もうとする、見ようとする、考えようとする。そして付き合い過ぎない。あくまでもそれは一部なのだと。一部に過ぎないという事です。そう考えると何もしてない時だって、多くの思考をし、それを通して学べる事が多い。自分という身体を貰ってそれを体験できる、感じることが出来る事が何よりの喜びなのかな?と思えたりもします。

そして僕は最近このnoteに書き込む記事に簡単な名前を付けてみました。それは「ガラス瓶に詰めた手紙」です。

手紙を書いて瓶に詰める。そしてその瓶を海に流す。そうすると誰の元に届くかわからない、わからないからこそ、きっと誰かにこれを拾って貰える。そしてその手紙をおかしなものだとか、変なものだとか思われてもいい。それを人に見せられて笑われてもいい、それを投げ捨ててしまっていてもいい。そうするとまた他の人がそれを拾うことが出来る。そして必要な人に届いて貰える。それが僕の最大の望みなのです。

そしてもしこの手紙を読んで感動して貰えたら、今度はその人の言葉にして、また他の誰かにを救う手立てになって貰えればいい。僕は最近強くそう思えます。だからこそ、僕は無料記事を書き続けています。稼ぎにはなりませんが、でもその手紙を誰にでも読んで貰える事が一番の財産だと考えるんです。

手紙が一つ海を渡って、誰かが手に取る。そして誰かの口で誰かの耳に入る。そしてそれが網目状にどんどん広がっていく。良いことが伝染していく。僕は世の中がどんどんそういった方向へいければいいなと願うんです。だからこそ500記事以上こうやって毎日のように書き続けています。


最後に言いますがタイトルのせいで勘違いされそうですが、別に僕の死期が迫っているとか、死への願望があるわけではありません。ただふとそういった気づきを急に得たから、記事にしてみたというわけなので。なんだか話しの内容が遺書じみてしまってなんだか申し訳ないw普通に健康で、明るく生きているので僕は今の所大丈夫だと思います!

人の人生に必ず終わるがあるからこそ、その終わりに悲観することなく、僕は僕の出来る事、出来る範囲の事をやれればいいのかな?と思います。

日々の暮らしが一つの気づきとなれる様に、そしてそれを喜びだと感じられる様に、毎日を大切に生きられればいいなと思う今日此の頃です。



9月に入り大分涼しさも感じられますが、まだまだ暑さは残ります。暑さで体調を崩されぬ様どうかご自愛下さい。


それではまた👋👋👋👋👋👋

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