
未来の教科書は、ヌルヌルうごく
勉強は好きですか?
大人になって、もうちょっと勉強しておけばよかった、と思うことが増えた。
それは、教科書と授業とノートとテストだけじゃない、現場の知恵や知識みたいなものに、面白さを感じるようになったから。
ところで、インドでは、牛は神聖な生き物である。
これは、教科書で覚えた知識だが、実際に旅をしてみると、道のそこらじゅうにアレが落ちている
うんこである。

動物とともに生きるということはうんこを受け入れることでもあるのだ。
この匂いと飛び交うハエは、教科書では伝わらないことだが、ようやく自分の知識として体にインストールされたような感覚がある。
インドでは、牛は神聖な生き物であり、その排泄物たるうんこを許容しながら人々は生きているのだ。
だから、歩きスマホは、うんこ踏む。

何が言いたいのだろうか。そう、勉強は、おもしろいのだ。
読み書きで覚えたつもりになってた知識が、実際に目で見て、音を聴いて、匂いを嗅ぐことで、五感いっぱいに知識を体感する。
体でわかる。
知っていたこと、考えたこと、理解したことがつながって、スパークする。非常におもしろい。そう感じるようになった。
ところで、冒頭の質問である。
勉強は好きですか?

実のところ、ずっと勉強は嫌いだった。特に、家でやる勉強は、基本的には「読み書き」である。教科書を、問題文を、資料を、「読む」。ノートに、答案用紙に、裏紙に、「書く」。
そこには、鮮烈なビジュアルや、大胆なサウンドは存在しない。もちろんうんこのにおいも登場しない。(近年はドリル化しているが)
小学校、中学校、高校、大学と進学していっても、基本的にこの構造は変わらない。大学には、ゼミや学会など「話す」アウトプットも存在するが、「読み書き」重視は基本路線である。
そして、この「読み書き」ができない人たちは「勉強ができない」人として進学からは遠のいていく。
もちろん、進学がすべてではないが、消去法的な決断だとしたら、何か、もったいないような感覚が残る。
遊びにおいての「人生ゲーム」をプレイする時もまた、進学か、就職か、という二択を迫られ、進学が無理なら就職かな〜なんて選んだりする。
しかし「読み書き」ができることと、「地頭がいい」ことは、別のこととして扱われることが多い。
人生の中の数々の出会いにおいても、卒業校の偏差値と個人の聡明さは、そこまで比例しない印象がある。特に仕事の現場においては。
少し、調べてみた。
読み書きができないけれども、知的でありうることは可能か。
キーワードは「認知特性」である。人の認知にはタイプがある。
つまり「見る」「読む」「聞く」の、どの情報摂取が向いているか、人によって、そのタイプが大きく分かれるのだ。

ここまで、この文章を読み進めてくれたあなたは、その時点で「読み」が得意なのかもしれない。
失読症、という言葉がある。文字を読むのが困難という症状である。
近年では、トム・クルーズやスティーブン・スピルバーグなどのセレブリティがその症状を告白しているが、彼らのプロデュース作や、職業人としての成果を見るに、知性が劣っているとはとても思えない。
より具体的には、失読症は、文章における目の動かし方に困難があると言われている。
通常、文章を読む際の目線の動きはこのようになる。つまり、文章の列を上から下に、あるいは左から右へ、(あるいは右から左へ)読み進めた後に次の列の文頭へ目線を動かし、文章の続きへとスムーズに連結していく。ここに断絶はなく、集中力は継続する。
ただ、こんな経験はないだろうか。どうにも、同じ箇所をなんども読んでしまう。次の列へ、スムーズに目線を動かすことができない。なんなら、目は文章を追っているが、頭では別のことを考えてしまったりする。(筆者はこのようなことがとても多い。)
もっと身近な例で言うと、取り扱い説明書である。ちゃんと読む人はとても少ない。
もっというと、数々の公式文書や申請などについて、こういう風に乗り切ってこなかっただろうか。
やってみて、わかんなかったら、人に聞く。
この国の半数以上の人が、やってみて、わかんなかったら、人に聞いている。筆者はそう思っている。(エビデンスはありません。個人の実感です)
ほとんどの人間にとって、読み書きによる情報摂取は、とてもハードルが高い方法なのだ。文章を読み始めると、まるで、できの悪いWi-Fiのように、
なんども接続が途切れ、そのたびにダウンロードし直すかのような非効率がある。
だから、学校の授業や、家庭での宿題は苦痛でしかないのだ。コンテンツ(中身) の前に、読むというメディアの形そのものに多くの人は不適格なのだから。
古代から近代にかけて、知的であるということは、書物を読み、文章を残せることであった。それは、行政から学問、経済において、優位に立ち、特権を得るに値する能力であった。
しかし、今、テクノロジーの進化とともに膨大な情報が「映像化」している。
映像とは何か。それは「見聞き」するものだ。ここに、パラダイムシフトがある。
「読み書き」から「見聞き」へ。
勉強は、もうとっくに変わり始めている。リクルート系サービスである「スタディサプリ」はすべての授業を動画化している。中田敦彦の「YouTube大学」は数百万人の視聴者を得ている。NewsPicksは日経新聞の現代版であり、映像やビジュアルに力を入れている。TikTokで本が売れる、なんてことまである。暴露系YouTuberが参議院議員になったりする。これは関係ないか。



何かを理解する、という営みは、文章だけの牙城ではなくなり、映像へと姿を変えている。
昔からTVやビデオはあった。しかし、枠や時間が限られる時代から、インターネット空間に無限にアーカイブできる時代になり、映像の資料的価値が数万倍に膨れ上がったのだ。
これからは、文章ではなく、絵と動きによって、理解を深められる教材が必要である。
なぜなら、「読み書きタイプ」の人材だけに高度教育していくのは、「もったいない」から。
近年、ダイバーシティーの理解が盛り上がっている。女性やLGBTQの多様性を認めよう、というのは、人としての倫理観もあるが、そもそも、その人たちの特性を活かした社会参加が、公共にとっての利益になるから、という視点もある。
これからは「見聞き」タイプが、新たな才能を発揮できる社会へと
進化していく、のかもしれない。

前置きが長くなった。本題は、
教育に、モーショングラフィックスってよくない?
という話である。
読み書きだけの教育から、+見聞きの教育へとシフトする時代。
図書館にあった書物という知の集積に、映像のアーカイブが加わる時代。
図形や写真、絵を動かし、音での解説とともに理解を助けられる効果的な表現手法。
そう、それこそがモーショングラフィックスなのである。
未来の教科書は、
三角形や、
台形や、
円や、
点Pや、
先に自転車で湖を一周しはじめるお兄ちゃんや、
りんごを4個買ったたかしくんや、
墾田永年私財法で喜ぶ農民や、
じゃがいもの青むらさき色への変化や、
元寇で吹いた神風や、
プレパラートの構築方法や、
This is a Penや、
参議院議員の定数や、
アヘン戦争の三国の関係性や、
摩擦係数や、
エンジンの仕組みや、
電流の流れる方向や、
つみたてNISAの利益率や、
作者の心情や、
正しい漢字の書き順や、
前置詞や、
フレンチトーストの作り方や、
組体操の動きや、
リボ払いの危険性や、
僕らの自由や、
くだらないアイデアや、
軽く笑えるユーモアが、
それらのすべてが、
ヌルヌルと、動くはずなのだ。
だって、そのほうが、多くの人が、理解しやすいはずだから。
「読み書きタイプ」以外の人にも、興味を持ってもらえるはずだから。
教育、というのは、未知のことを知り、興味を持ち、理解する。そして、実践へと活かしていく。という営みであるが、
モーショングラフィックスによる新しい理解のあり方は、教育以外にも、適用可能である。

取り扱い説明書、区役所の申請書、やってみて、わかんなかったら、人に聞く、でやってきたいろいろな説明書類。
これらすべての理解に、モーショングラフィックスが役に立つ。
すべてのトリセツもまた、モーショングラフィックス化する。
今まで文章だけでつくってきた説明書を映像化する時はぜひ、
Weに相談してほしい。
しかし、しかしながら、この文章をここまで読んでくれたあなたもまた、限られた「読み書きタイプ」の人であるから、モーショングラフィックスが貢献できる「見聞きタイプ」の人ではないのかもしれない。
それでも、このnoteは続けていきたい。
モーショングラフィックスを社会に実装し、新たな未来をつくっていく。
その使命を果たす時が来るまで・・・!
みなさんの頭の中で、何かがスパークするその日まで・・・!

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