BPO(放送倫理・番組向上機構)は、いつから存在したのか?
『BPO(放送倫理・番組向上機構)』は、日本放送協会(NHK)や日本民間放送連盟(民放連)とその加盟会員各社によって出資、組織された任意団体である。そもそも日本においてBPOのような組織が何故できたのか?どうして必要とされるようになったのであろうか?。BPOの直接の前身は、1969年に設立された 「放送番組向上協議会」と1997年に設立された 「放送と人権等権利に関する委員会機構」 (BRO)である。いずれもNHKと民放連が設 立した任意団体でこの2つの団体が2003年7 月に合併してBPOとなった。
■『放送番組向上委員会』
1969年設立の放送番組向上協議会は、「放送番組向上委員会」という委員会を運営していたが、その源流はさらに4年前の1965年にできた第1次の放送番組向上委員会にさかのぼる。 この委員会ができた背景は、1960年代当時の低俗なテレビ番組への批判と青少年への悪影響を心配する声が高まったことである。放送番組向上委員会は、63年8月に 池田総理大臣(当時)が閣議で青少年の 非行防止対策として総理府中央青少年問題協議会で総合的なマスコミ対策を検討するよう指示したことから1963年~1965年にかけて青少年の非行問題が社会・政治 問題化し、“テレビの悪影響から青少年を守れ”というキャッチフレーズのもとにテレ ビ番組を批判する声が高まった中で放送事業者自らの手でテレビ番組の改善・向上を推進するための活動の一環として設けら れた。放送番組向上委員会は、今のBPOのように 「勧告」や「意見」を出すというのではなく、放送番組の向上に関わる全般的な議論をして放送局に提言などを行うのが主な役割であったが、放送界はすでに半世紀も前から外部の有識者による放送番組向上のための委員会を持ち続けていることになる。この委員会は、NHKと民放連、それに社団法人「日本放送連合会(放送連合)」の三者によって放送連合の常設委員会として運営されていた。
■1960年代~1970年代
“一億総白痴化”という言葉が登場したのは1957年のことであるが、その後もテレビの暴力場面・性表現・品位を欠いた内容をめぐって低俗番組がたびたび問題化し、しばらくすると沈静化するものの、また再燃するという経緯を繰り返してきた。委員会が再発足した1969年から1970年代初め にかけては東京オリンピック(1964年)や大阪万国博覧会(1970年)を追い風にカラーテレ ビの普及に拍車がかかった時期であるが、“低俗番組”批判が高まった時期でもある。 公開ショー番組である『コント55号の裏番組をブッ飛ばせ!!』(日 本テレビ)は、野球拳に合わせて女性タレントの衣類を脱がせ競りにかける趣向が顰蹙を買った。1969年には神奈川県相模原市がこの番組の公開収録に市民会館を使うのを断り、民放労連は「低俗番組追放に立ち上がる」という声明を出した。視聴率競争はクイズ番組の賞金や賞品の高額化という現象も招き、民放連は公正取引委員会の規制を受け入れてクイズ番組の賞金・賞品の上限を100万円に決めた。同じころ『11PM』(日本テレビ・読売テレ ビ)に始まる民放各局の深夜番組の“お色気路線”の行き過ぎも問題になった。衆議院逓信委員会の放送に関する小委員会に放送番組向上委員会の高田元三郎委員長(当時)らが参考人として意見聴取されるという事態も招いた (1972年5月)。この年の10月に鹿児島市で開かれた第20回民放大会では、そうした危機感の中で「放送の自主規制を堅持し、番組の向上に努め、もってその使命達成と責任完遂を誓う」という大会宣言を採択した。 その後、石油ショックで深夜放送が自粛されたが、自粛措置が解除された1983年春、民放各局は一斉に深夜番組を復活させ、度の過ぎた “アダルト色”がまたも国会で問題になった。
BPOは、1969年に設置された『放送番組向上協議会(放送番組向上委員会)』を前身としてその頃から現在とは違う名称で活動していた団体であり、つまり1960年代からテレビには自主規制とコンプライアンスが存在していたのです。