「考えるマシーン」としてのマウリツィオ・ポリーニ
マウリツィオ・ポリーニ逝去。享年82。やはり一つの時代の終わりを感じさせる。
彼の登場以降、世間がピアニストに期待する技巧のレベルは、格段に上がった。「ミスタッチを含め、味わいで聴かせる」という在り方が前時代的なものになった。
個人的には、初期の名盤であるショパンの練習曲集の頃から追っかけてこられたわけでない。リアルタイムでは、同じショパンのピアノ・ソナタ第2・3番の音盤で初めてポリーニに接したと思う。
当時は、批評能力なんてゼロの子どもだったから、お小遣いをはたいて買ったレコード(正確にはカセットテープだったが)を大切に何度も、それこそ擦り切れるほど聴いたのだった。この2曲は、ポリーニの演奏が耳にこびりついてしまい、いまだに彼以外の演奏はしっくりきません。アルゲリッチでさえね。これはもう演奏の優劣ではないけれど。
現在に至るまで、つまみ食いの体ではあるが、過去の音源に遡ったりして、ポリーニは聴いてきた。
これも名盤ですね。
ブーレーズの第2ソナタが白眉だろう。構築(コンポジション)の極北として、この峻厳な演奏があったからこそ、後年のユンパネンによるブーレーズ集も素晴らしいものとなった。
ただ、ウェーベルンはグールドの演奏の方が好きだな。新ウィーン楽派はポリーニの十八番だが、モーツァルトの延長として弾いてしまうグールドには、まあ誰も敵わないので仕方がない。
モーツァルトの協奏曲なんて、ポリーニなら、テクニック的には昼寝しながら弾けるぐらいだろうが、この盤での彼は、モーツァルトの前に跪く敬虔な信仰者であり、ひたすらモーツァルトの音符に奉仕しているのが、静かに感動的だ。
私見では、シューベルトの後期三大ソナタのレコード(1990年)あたりから、音の彫琢や運動力学の追究といったベクトルが徐々に薄れていく。
実は、シューベルトのこれらの曲の魅力が、ポリーニではいまいちつかめずじまいで、のちに内田光子の演奏で「こんなにいい曲だったんだ」と再発見したぐらいだ。ただ、これもまた若かりし時の個人的な経験ではある。
加齢に伴い、フィジカル面で物理的な限界が生じるのは、演奏家としてはある意味どうしようもない。ポリーニが安易に精神面に向かった(=逃げた)と言いたいわけでもない。ただ、ポリーニたるゆえんをどう担保するのか、本人自身が長い間つかみ切れていなかったのではないか、という気もする。
一般的にも、後年は衰えを指摘する声が少なくなかった印象がある。60代後半で満を持して録音したバッハも、ベートーヴェンの後期ソナタの再録音も、僕は愛聴できなかった。まあ、しっかり音源や情報をフォローしていれば、また違ったのかもしれないが。
ただ、2016年の来日公演(川崎)で実演に触れられたのは、本当によかったと思っている。ドビュッシーの前奏曲集では、テクニックが絶妙に背景化していたというのか、音のソノリティにフォーカスした実に美しい演奏で、ポリーニの新しい境地を見た思いだった。
そしてなにより驚嘆したのは、実はアンコールのショパンのバラード第1番だった。プログラム前半で披露した英雄ポロネーズにも通じるギリシャ・ローマ的な堂々たる美を現出させつつ、そこに現代的なロマンティシズムを惜しみなく注ぎ込み、まさに自家薬籠中のものというしかない圧巻の演奏だったことを、今でも覚えている。
しかし、それでさえもう8年前なのか…。
彼は、「考える葦」ならぬ「考えるマシーン」だったと思う。マシーンとしての性能維持は容易ではなかっただろう。ともあれ、「正確無比と無味乾燥はイコールではない」という難しいテーゼの証明に成功した数少ないピアニストがポリーニだった。
あらためてここに哀悼の意を表します。