敬語表現「させていただきます」をめぐる諸問題
昨年、大学2年生で研究室に所属するようになり、週に2度のゼミに参加するようになった。事前に時間をかけて準備してきたテーマについて、学生1人ずつが発表を行うそのゼミで、発表者が口をそろえて言う台詞がある。
「発表をはじめさせていただきます」
誰が言い始めたのかはわからないが、まず1人が言い始めてそれを次の人が真似て、という形で伝染し、気づけば皆が言うようになっていた。僕自身はこのひと言にとても違和感がある。「させていただきます」をつけてとりあえず謙遜しとけばいいや、って感じもあって好きじゃない。だから自分が発表するときは意識的に「発表をはじめます」と言うようにしている。発表をはじめさせていただく皆々よ、自分が発表するのにそんなにへりくだる必要があるか? 今回はそんな「させていただく」という敬語表現についてちょっと考えてみた。
謙遜の対象は「はじめる」ではなく「発表する」なのでは?
「発表をはじめさせていただきます」という言葉への違和感は確かに僕の中にあったのだが、果たしてその違和感がどこから生じているのかはいまいち分かっていなかった。で、ちょっと考えてみたら割と簡単に答えにたどり着いた。それは、「発表をはじめさせていただきます」だと、「させていただく」という謙譲語の対象が「発表する」ではなく「はじめる」になってしまっているから、ということだった。つまり、発表を「はじめ」させていただくのではなくて、「発表」させていただくのではないか?ということだ。自分が行う行為のどの部分を謙遜するか、という問題である。
そう考えてみると「発表をはじめさせていただきます」は違和感ありだが、「発表させていただきます」だとそんなに違和感なくスッと入ってくる感じがある。自分が発表するのにそんなに謙遜しなくても...と思っていたが、どうやら「発表すること」への謙遜表現はそこまで違和感を生じさせないらしい。ただし「発表する」ことを謙遜しても、少なくとも発表を「始めること」を謙遜する必要はない。へりくだらなくていいから早く始めろ、と言いたくなってしまう。
文化庁「敬語の指針」
これまでで「させていただきます」への違和感はほとんど解消されたのであるが、せっかくなのでもう少し調べてみることにする。「正しい敬語」「正しくない敬語」について、規範となっているのは何だろう...?と思い調べてみると、文化庁が2007年に「敬語の指針」なる文書を公開していた。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/sokai/sokai_6/pdf/keigo_tousin.pdf(PDF注意)
その40頁に、ちょうど「させていただく」の使い方の問題がトピックとして取りあげられていた。それによると「させていただく」を使用する条件は次の通りであるという。
ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い、
イ)そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある場合
そこでは研究発表会などにおける冒頭の表現として、まさに「それでは, 発表させていただきます。」が例に取りあげられていた。解説によれば、この言い方は「ア)、イ)の条件を満たしていると考えられるため、基本的な用法に合致していると判断できる」が、「ア)の条件がない場合にはやや冗長な言い方になるため「発表いたします。」の方が簡潔に感じられるようである。」とあった。
ちなみに、文化庁があげているYoutubeでも「させていただく」が取りあげられている。
ここでは「研究発表をさせていただきます」はア)許可の条件を満たしていないために不適切とされていた。たしかに研究発表はなにか明確な形で許可を得て行うわけではなく、特に学生は授業を履修すれば必然的に発表の場が用意されているので、ア)の条件を満たしていないと言うことができる。しかし、前節でも記したように僕自身「発表をさせていただきます」という言い方にはそこまで違和感がない。この例だけで判断することはできないが、もしかしたら ア)許可の条件よりも、イ)恩恵の条件の方が強い規則として働いているのかもしれない。
最終的にはあなた次第
Youtubeの動画では「適切」「不適切」をはっきりと分けていたが、公式文書である「敬語の指針」では、「~と感じられることが多いようである」などの言い方からも分かるように、他の解釈の余地を残した表現がされていた。実際に、「敬語の指針」において「させていただきます」を取りあげた節の最後には、
なお,ア ,イ)の条件を実際には満たしていなくても,満たしているかのように見立てて使う用法があり,それが「…(さ)せていただく」の使用域を広げている。上記の②~⑤(「敬語の指針」において取りあげられていた例を指す、筆者注)についても,このような用法の具体例としてとらえることもできる。その見立てをどの程度自然なものとして受け入れるかということが,その個人にとっての「…(さ)せていただく」に対する「許容度」を決めているのだと考えられる。(41頁)
とあり、「させていただく」の適否に関する絶対の基準はなく、最終的な判断は個人の許容度によるという旨が示されてる。つまり、ある敬語表現を正しいとするか正しくないとするかは、あなたの感覚次第、ということである。
自分が正しいと思う表現を使いたい
僕の所属する研究室の学生はほとんどが「発表をはじめさせていただきます」と言うのは先に述べた通りであるが、その中に1人だけその表現を口にしない同級生がいた。彼にその理由を尋ねたところ、やはり僕と同じく「はじめさせていただく」という表現に違和感があるので使っていないということだった。同じ感覚をもっている人が見つかってちょっと嬉しかった。
もしかしたら、研究室の学生の中にも僕らと同じように「はじめさせていただきます」に違和感を抱きつつ、でも皆が言っているから使っているという人がいるかもしれない。接客業など、ビジネス的な場面ではある程度「社会的に正しいとされる敬語」(多数の人が正しいと思っている敬語)を用いる必要があると思うし、そうしないと上司に注意されたりもする。だから敬語表現に関する「多数派」に合わせることも勿論重要ではあるが、それが必要でない場においてまで、多数派に合わせる必要はない。前に見たように敬語の正しさは最終的には使用者自身が決めるものである。少なくともそれが許される場においては、「自分の感覚で正しいと思われる敬語表現」を使いたいと思う。
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以上、「はじめさせていただきます」という表現への違和感から、敬語表現の規範について少し見てみた。敬語については文化庁がその拠り所を示していること、また正しさの最終的な判断は使用者に委ねられることなど、あらたな発見がいくつかあった。正しさの最終的な判断は使用者に委ねられるという点においては、私たち自身が「正しい敬語表現」なるものを生み出していると言うこともできる。ただ多数派に合わせるだけでなく、自分がどう感じるか?を大切にして表現を選びたいところである。