淡い夕焼けと隠れた名曲
年末年始の帰省で東京に向かう電車の中、夕方の車窓に映る空は淡いオレンジ色だった。誰もが振り向いて写真を撮るような、劇的な夕焼けではないけれど、なんだか落ち着く淡い色。なんで、と聞かれても上手く答えられないけど、「好きだ」と思った。僕は淡い夕焼けが好きだ。noteを読んでいたスマホを窓際において、僕はしばらく車窓を眺めていた。
年末は音楽番組が多い季節だ。民放の各局が主催する歌番組から、レコード大賞、紅白まで。どの番組でも軒並み「今年流行した話題曲」が披露されるが、その流れから少し外れたところで「隠れた名曲」として曲が紹介されているのを目にすることがある。地上波で披露されることで「隠れた」名曲ではなくなってしまうのではないか、といつも思うが、それはここでは置いておいて、この「隠れた名曲」と呼ばれるような曲に出会った時は、ちょっと嬉しい気持ちになるのである。
「隠れた名曲」は「売れたドラマの主題歌だった」というような話題性だけで喧伝されたりしない、本当の名曲だ。その曲たちは、話題性の援護がなくても「名曲」と呼ばれるほどの曲であるにも関わらず、ほかの曲の影に隠れて誰かが見つけてくれるのを待っている。そういう曲に出会ったときは、本当に評価されるべきものの存在にきちんと気づくことができた感じがして、とても嬉しい気持ちになる。僕はあたなをちゃんと見つけられたよ。こんなに良い曲なのに、あなたは本当に控えめなのね、と。
一方で「隠れた名曲」の隠れ家が「隠れていない名曲」たちによって作られているのも事実だ。有名で、みんなが知っている、そういう曲たちがないと、「隠れた名曲」は隠れる場所を得られない。「隠れていない名曲」があっての「隠れた名曲」だということを忘れてはいけない。世の中、何ごともバランスだ。隠れていない名曲だけあっても、反対に隠れた名曲だけあっても面白くない。「隠れた名曲」と「隠れていない名曲」が共にあって、それでも「隠れていない名曲」ばかりがもてはやされてしまう。「隠れた名曲」に出会えたときの嬉しさは、その不平等を解消できた嬉しさなのかもしれない。
淡い夕焼けを見た時に感じるものも、隠れた名曲に出会ったときのそれに似ているんじゃないかと思う。淡い夕焼けは、劇的な夕焼けと比較されることによって、控えめで、落ち着いて見える。反対に劇的な夕焼けも、淡い夕焼けと比較されることで、その鮮やかさがより際立つ。どちらかが欠けたら、たりないもの。だから、どちらも等しく評価されていいはずなのに、淡い夕焼けは見逃されがちで、インスタグラムにアップされる夕焼けの写真も派手なものばかり。でも、僕は知っているよ。あなたが綺麗なこと。主張は強くないけれど、それがかえって美しいこと。人々が見過ごしがちな美しさを見つけることができた嬉しさのようなものが、淡い夕焼けをみるとこみ上げてくるのだ。
帰省のため東京に向かう新幹線の車内より。
好きに理由なんてないってよく言うし、実際そう思って考えるのをやめてしまうこともあるけれど、その「好きなもの」のことを少しでも言葉にできたら、もっと好きになれる気がするよ。そんなことを考えた年末でした。