カントの倫理学の整理と健康について
私は工学部の人間であり、文系の分野、特に哲学などには無関心だった。興味のあった分野といえばまだ工学に近しい経済学をかじっていた。2020年にようやく経済学と哲学を渡り歩くようになり、ようやくカント哲学、特に倫理学にたどり着いた。しかしながら元々工学部の人間が、カントに手を出してみると手に取る本すべて難しい。全集はもちろん読めないので薄めの本を手に取ると、それは「カント哲学の解説」ではなく、「カント哲学の考察」の本が多く、すでに理解している人向けの本が多い。
今回手に取った本は『晩年のカント』であり、これも「カント哲学の考察」の類ではあったがカント全集の引用も多く、かつ説明も丁寧であった。この本と、amazonで買った100分de名著のバックナンバーの『純粋理性批判』を参考にカント哲学と健康を考えていきたいと思う。
工学の人間として哲学を読む
工学部がカント哲学を読めるのか?哲学の授業のさい、眠くてしょうがなかった。理由は簡単、「リアルじゃない」からだった。気に触る人も多いかもしれないが、神の存在であったり、イデア論だったりは証明ができない。またあまりにも理論が宙に浮いているような気がしてならない、というのが工学部の一人の人間の解答である。いわゆる感覚的なものが得意ではなく、その有無によって大きな変化を及ぼさないと考えているのだろう。それに対してカントはどこか現実的であり、素人にも納得のできることは多かった。
もちろん、私は哲学者ではない。この本を求めたのは、どういった倫理が正しいのか、自分はどう生きるべきなのかの答えを探るためである。そしてこれは、「道具を扱う者全員」に当てはまる。道具を使う人間の哲学により、道具は哲学的か変わってくる。
普遍性と一般性
まずは、カントの普遍性と一般性の使い分けから見ていく。
「普遍性」とは、__現代日本人にはなかなかわかりにくいであろうが__理性それ自身が命ずる「べし」であり、理性的存在者一般に打倒する「べし」である。まさに「真実性の原理が幸福の原理を条件づける」場合であって、例えば「いかなる場合も嘘をつくべきではない」という命令であり、これは、例えこれまでの人類のうち誰一人として守れなかったとしても普遍的に妥当する。
これに対して、「一般性」とは、すべての人あるいは多くの人が事実守っている「べし」であり、逆に「幸福の原理が真実性の原理を条件づける」場合(まさに根本悪の場合)であって、例えば「自分が不幸になる場合、自分に損害が及ぶ場合は、真実を語るべきではない」というような経験的規則である。
つまり、普遍性は「誰にでも当てはまるもの」であり、一般性は「大勢が当てはまるもの」であると私は考えている。
現代で特に問題なのはこの区別ができていないことではないだろうか。社会の「一般性」をまるで「普遍性」の如く押し付けている、というのが今の社会ではないかと思う。
さらにここから道徳法則や定言命法が導かれる。正直素人の私にはそれらの区別ができていないので、引用する。
汝の意志の自由な行使が普遍的法則に従って何人の自由とも両立しうるような仕方で外的に行為せよ。『世界の名著32 カント』p355
これを説明するならば、どんな人も自分なりのルール、区別はあるがそれが自分勝手にないかを吟味して行動しろ、ということになる。
なぜこれを読むのかというと、世の中には欺瞞が多いからである。それは、等の本人ですら気づいていないものである。ある一方の方面だけを見て、勝手に満足し、人を殺すことのなんて多いことか。それはトロッコ問題だとかそういうレベルではない。
山口周著『ビジネスの未来』において、「衝動」について語られている。これは、かなり「道徳法則」に近しい考えであると思う。
まずは「衝動」について話をする。特にビジネスの世界では金儲けだけの仕事が横行していた。そのために人間らしさが削がれていった。本当に必要な仕事とは何か。それは「〜しなきゃ」という考え抜きの「衝動」である。
それに対して「道徳法則」というのは理由抜きで、なんの利益も関係なく「そうであるべき」ということ、つまり「普遍性」に従う、ということである。
さて、なぜこの二つを並べたか。それは「衝動」は「道徳法則」に必ずしも通じないものがあるからだ。つまり、「衝動」での行動は必ずしも「普遍性」に従わない。
その理由は、単純ではないからだ。目の前にいる人間への行動と、世界全体への人間への行動の違いだと私は解釈する。ノームの問題かもしれないが、「衝動」という言葉はあまりにも簡単で明確であった。それゆえに、簡単に意訳もできてしまうのだ。
例えば広告だ。「本当にいい製品を流通させたい」との衝動で広告を行った結果、それが「人々の虚栄心を増大させる」原因であったなら、それは本当に「普遍性」に従っているとは言えない。
「安価な服を流通させたい」という衝動があるから、ラナ・プラザのような事故を起こしていいわけがない。それはただの欺瞞どころか、浅はかな考えにしかすぎない。
つまり、山口周氏の唱えた「衝動」というものは完璧ではない。だが『ビジネスの未来』という一冊の本で収めるにはそうするしかないし、「倫理学」の本ではない。だからこそ、むしろ倫理が、道徳が「普遍的」であるべきだろう。
では真の意味で「普遍性」であるものとは何か。それは難しい。追い求めていけばなにも活動できず一生哲学者として生を終える可能性だってある。だからといって多数派の原理を採用するわけにもいかない。普遍性の模索もせずに行動すべきではない。
普遍的な健康について
私は健康は普遍的なものである、そうでなければならないと思う。その理由は単純である。
思うに、人生というものはどんな形であれ「物事を為すため、また楽しむために生きる」ものになったのである。それが目標を達成するだとか幸せに生きるだとか様々な表現があると思うがそれは省略する。まず、「物事を為すため、楽しむために生きる」というのが普遍的である、と信じている。
続いて、その過程では「生きる」ことが不可欠である。生きるためには「健康」とは切っても切れない関係になってくる。よって万人、つまり普遍的に健康があるべきである。
ここでよく勘違いされるのは、「健康体でなければ人生を楽しめないわけではない」ということである。これに対して反論していく。
・まず、私が考えている健康は今から未来にかけてである。つまり、それまで不健康であっても、今から健康になる(もしくは維持する)ことでより人生を楽しめる、少なくともマイナスにはならない。例えば、大きな怪我で足を失うことを考えよう。そもそも大きな怪我はしたくない。そこで予防医学的な健康、そうならない状況にするというのも健康であるし、すでに失った後であっても、健康的な体を維持すべきで悪化させるべきではないしパラスポーツをはじめとした楽しみ方はある。
・また、不健康な行為による快楽(タバコや麻薬)も区別すべきだろう。直接脳内に快楽物質を届けるようなことは一時的な「happiness」であっても、人生を楽しむ「well-being」ではない。
このような理由から健康の普遍性を確信しているが、それと同時に健康法については一般性である。それどころか、社会で認識されている「健康」を語ったものはほとんどが「一般性」であり、「普遍的な健康」については議論されていない。私は、その健康の普遍性を追求していきたい。
まとめ
カントの著は『純粋理性批判』『判断力批判』『実践理性批判』の三批判書が有名であるが、そのどれも素人にとっても難しい。そのため、その全てを網羅などできない。しかしこの道徳法則を学びたくて、カントの著に手を出した。おかげで自分の求める健康を再認識できたとともに、今世間に何が足りていないか、というものをあらためて認識することができた。