説明モデルから考える、健康業界に必要な医療多元社会へ向けて

 アブストラクト

医療と健康に関する誤解やすれ違いが頻繁に起こる。これらの誤解は「説明モデル」によって考えることができる。

多くの現代日本人の説明モデルは「西洋医学+少しの中医学」のブレンドであるが、弱いモデルである。そのため、病気になった際には医者など他人の説明モデルを一時的に採用する。それに対して強い説明モデルを持つ人は、知識や理論を自分自身で具体化する、一人称の体験を持っている。

「治療」は病気の症状を治す行為であり、「治癒」は患者が心地よく感じる状態を指す。強い説明モデルを持つことで、自分自身を治癒することが可能になる。

医療現場でも日常でも、治療と治癒の両立が求められる。特に治癒は趣味嗜好など個人の感性にも影響するため、より多元的な医療、健康手法と社会の分析をする必要がある。


はじめに

医療、健康の現場では、治療者と患者の間ですれ違いが起こることがしばしばあります。それは治療者と患者のバックボーンからくる思想の違いが原因だったりするわけです。これは治療の合意形成のスムーズさや、治療の満足度に関わったりと影響を及ぼします。そしてここ数年では治療の現場だけではなくSNS上で、個人の疾病観による争いが頻発していました。

こういった個人の疾病感というものは「説明モデル」と言われます。

医療者が、患者に対して説明モデルをするということはよく行われていますが、一般の人が健康についてどう考えているかはなかなか議論されません。
私は個人的にフィールドワークで「健康とは何か」という問いかけをしています。健康についての話を伺っていると、なんとも多種多様な考え方を教えていただきます。活き活きとした生活のTipsから、思想、そして他の思想との相反。多様な健康についての考え方を聞いてきました。その考えはまさに説明モデルによって深く考察できると考えています。

こういった健康の考え方について医療人類学における「説明モデル」と、これに関係する「医療的多元論」を足がかりに、これからの健康業界に何が足りていないのか、どこを目指すべきなのかを考えていきます。

説明モデルと医療的多元論とは

説明モデルとは、医療人類学者のアーサー・クラインマンが定義したものであり、次のように定義されています。

https://navymule9.sakura.ne.jp/100804MA39.htmlより引用

私なりにシンプルに解釈しなおすと「あなたはどのように健康(病気を含む)を捉えているのか」ということです。現代医学が発展した今、病気は自分の体調だったり外部からのウイルスによってもたらされるということを知っていますが、それはまさに私たちの説明モデルは現代医学によって影響されているからと言えるでしょう。

しかしこの説明モデルには医療人類学者である池田光穂氏が次のように問題点を述べています。

説明モデルでは、伝統的施術者が治療の現場で患者とその家族に対して柔軟に対応したり、近代医療との折衷的共存を容認するという、現象面における因果論理解からの逸脱に適切な解釈を与えることができない。

『実践の医療人類学』池田光穂 著

つまりこれは、説明モデルの時間的変化、説明モデルが医者や施術者に会うことによってどのように変化するのかといった、時間的変化がわからないということです。そこで次のような提案をしています。

このような混乱から脱出するためには、「医療的多元論」における人びとの行動と人びとが利用する医療資源を区分して考えるということが、認識論的手続きとして要請される。

同上

この医療的多元論の中には多元的医療行動や多元的医療体系といった言葉が子ノードとしてあるのですが、この中では全て医療的多元論の言葉でまとめて説明します。

この医療的多元論によって

  • 現代医療の治療の限界を感じたあと、まったく違う説明モデルを持つ代替医療を受ける

  • 現代医療が当たり前の日本で、健康保険適用で漢方や鍼灸が受けられる(サブシステムとしての医療)

などが説明できるようになります。

つまり説明モデルは「その人や医療体制がどのように健康を考えているか」という静的な解析に対して、医療的多元論は「説明モデルの変遷やモデル全体のオーバービュー」といったダイナミックかつ説明モデルに対してメタ的視点を持っていると言えます。

説明モデルで日常を見てみる

まずはこの説明モデルについて詳しく見ていきましょう。

先ほども説明したとおり、説明モデルは「どのように健康を捉えているのか」と言えますが、そもそも私たちは健康という概念をどこから得るのか?という問題があります。これに関しては家族や国柄、時代などで初期の規定がされると考えられますね。これによってできた説明モデルのネットワークが下の図です。

『臨床人類学』アーサー・クラインマン 著

外側から見ていきましょう。

  • 特定の病いに関連づけられる典型的な症状と心理過程
    例 うつ病
    心理過程:自分が価値がないと感じる、未来に対する希望を失う、自分の状況や感情を理解できないのいずれか、もしくはその全て

  • 特定の病いの病因や重大性についての信念
    例 風邪
    信念:冷たい風を浴びると風邪をひく、風邪は休養とともに自然に治る

  • 特定の病いに対応した治療法を選択するヘルス・ケア希求行動
    例 頭痛
    希求行動:頭痛薬を服用する、暗く静かな部屋で休む、マッサージを受ける、病院やクリニックを訪れる

  • 特定の病いに関連づけられる典型的な人間関係の問題
    例 アルツハイマー病
    人間関係の問題:患者が家族や友人を認識できなくなる、患者の振る舞いの変化により家族間のストレスや摩擦が生じる、患者のケアに関する責任や役割の分担に関する問題

どうでしょうか。説明モデルだけだといったい何が重要なのかわからなかったところが、みじかに降りてきた気がしませんか?つまり、健康に関することの行動源泉は説明モデルによって整理することができるのです。

現代人の説明モデル

さて、ここから現代人の問題へと入りましょう。これを現代日本人に当てはめるとどうなるのか?ということです。

「そんなのほぼ西洋医学でしょ」と思うかもしれません。実際そうですが、ここをもっと柔らかく見ていくと面白いことがわかります。

結論から言うと、多くの現代日本人は、確固とした説明モデルを持っていないことがわかります。要するに健康に関してふわっとした概念を持っているだけです。

しかしその背景は基本的には西洋医学と、ちょっとした中医学のブレンドです。薬は抵抗なく飲みますし、科学的に証明されたことは基本的に受け入れます。かといって漢方や「元気が出る」といって鰻を食べたりもするわけです。もっと俯瞰的に見ると、次のような傾向があります。

・食べ物や薬が体に影響するという観念が強い
・科学的な説明モデルと親和性が高い
・特段に文化的治療が発達していない(フィンランドのサウナなど。過去には湯治があったが現代では廃れ気味である)

1,2個目は特に健康法や病院の治療モデルで強く見られます。経口のサプリメントは、日本では広く受け入れられていますね。
3つ目もまた重要な観点です。私が感じる限り、日本では文化的治療があまり優位なことがないのです。この文化的というのは特に重要で、医療機関にかかることなく治療することや予防、ケアをすることができるのです。この観念がないということは、先ほど言った通り「強い説明モデルを持たない」こととつながってきます。

過去、日本では『養生訓』という健康法がありましたが、現代ではほとんど見られません。例に挙げた「冷たい風を浴びると風邪をひく」というのはこの『養生訓』にも見られますが、現代では『養生訓』で説明されません。西洋医学で説明されます。

では希薄化した説明モデルで現代人はどう健康について考えているのか?
それは「ちょいのり」です。他の方の説明モデルをちょっとだけ拝借してくるんです。

まず個人の説明モデルの形成過程ですが、これは「うっすらとした西洋医学」を親や環境から引き継ぎ、病気などに関しては医者の「強い西洋医学(おそらく)」の説明モデルにちょいのりします。しかし詳しい説明モデルに関しては受け継がず、「薬を飲めば治る」といった、やはりこれも「うっすらとした西洋医学」の説明モデルになります。

なぜ医者の「強い西洋医学」の説明モデルを受け継がないのか?理由は大きく分けて二つあります。
1つ目は接触時間が短いことです。風邪などみじかな病気であれば診療は数分で終わり、数個の薬をもらって終わりです。
2つ目は西洋医学の高度化による煩雑化です。風邪ひとつをとってもまず身体がどのような状態だったのか、どのような病原菌なのか、薬はどのように作用するのかとかなり多角的です。そしてこの関係性は煩雑で説明も難しくなります。このような理由を一つ一つ理解する必要は患者側からすればなく「風邪は薬飲んで安静にすれば治る」程度の説明モデルで十分なんですね。

これはSNSやテレビでも見られる健康法も同様にちょいのりしています。根幹的な説明モデルには踏み込まず「科学的(西洋医学的)だな」という雰囲気でちょいのりしていきます。そのため、一定の強い説明モデルを同様に持たず、簡単に別の健康法に移ることができます。

この弱い説明モデルの難点として、健康への理解が外在化されており高い興味と効能を受けないということがあり得ると私は感じています。説明モデルが弱いということは、自分の体調や病気に対して情報を外に求め、その情報が自分にマッチするか否かに左右されてしまいます。フェイクニュースや煩雑化している現代においてはそれはかなり分の悪い賭けと言えるでしょう。

強い説明モデルを持つには?

とはいえ日本人にも強い説明モデルを持つ人はいます。東西問わず医療の世界に身を投じている人や、ヨガのインストラクターさん、その生徒さん、また上述の健康法の強い説明モデルにハマった方などが挙げられます。
学習環境などで決まる先生やインストラクターさんは一旦置いて、ここでは生徒さんや健康法の強い説明モデルにハマった方に注目してみましょう。

私はリサーチの一環として「健康とは何ですか?」という質問をしていますが、その結果というのはとても興味深いものです。というのも自らの説明モデルを活き活きと語ってくれることなんて日常生活ではまずないことなので、とても新鮮なんですよね。

私がリサーチしたところによると「強い説明モデルを持っている」人は間違いなく体験を持っています。特に一人称の体験です。例えば

・ガンになってから食事に気を付け、玄米を食べるようにした
・ビーガンになったらアレルギーが治り、出産もスムーズに終わった
・筋トレを始めてからライフサイクルが安定した

リサーチをするとさまざまな体験が聞こえてきますが、これは本当に豊かで活き活きとしています。ここに「西洋医学的におかしい」というよくある説明モデルの押し付けがおこがましいことはなかなか理解されません。
ちなみにちょいのりから始まった出来事ももちろん一人称の体験になりえます。上述した生徒さんや健康法を試した人が強い説明モデルを持つのは、この一人称の体験というのが大きそうです。

この一人称の体験というものは、とても大きな意味を持ちます。というのも基本的な日本人の説明モデルは西洋医学であり、このモデルは客観的、つまり三人称で一人称の体験とは離れているんですね。ここにも弱い説明モデルの理由があります。

話はちょっと変わりますが、私は「embodyする」という表現が好きです。辞書で調べてみると「(霊魂などを)化身にする、肉体化する (抽象的なものを)具体化する」という意味があります。
これを私は知識として理解している事象を一人称として扱えるようにするときに「embodyする」と表現しています。
健康法ではつまり科学的に正しいと誰かが言ったから正しいのではなく、自らの体で体現することによってその理論、説明モデルがembodyされるということです。つまり理論を理解しながら健康法や医療行為を実践するのと、理論がembodyされた状態で実践するとでは大きな医療多元論的に大きな違いがあるのではないか?ということです。

癒しの体験を

特定の強い説明モデルを持たないことに関して、大きなデメリットはないように思えます。事実それは多くが顕在化しないことであり、それがなくても病は治療できます。しかし強い説明モデルを持っていると、何点かメリットがあります。

  1. 人生における健康観において、他の説明モデルに悩まされることがない

  2. 病や健康に関する事象が起きたとき、自身の説明モデルに当てはめ、病を理解できる

  3. 自らの説明モデルに沿って病に対応し、治療ないし治癒できる

まず1から見ていきましょう。これは特に先進国で見られる、生存としての健康が終わったあとに見られるルッキズムや資本主義などが複雑に絡んだ健康市場です。詳しい説明は省きますが、これは弱い説明モデルを持っている人は説明モデルにちょいのりし、それなりに高い運賃と時間を浪費することがしばしばあります。この領域から離れることができるのは大きなメリットの一つです。

2もまた重要です。どうして病気になったか、どういう病気なのかを解釈することはとても大事になります。
私がリサーチした方に、ガンになられた方がいました。無事手術は終了し、問題はなかったのですが病院側からの説明が少ない状態でした。これについて分析しましょう。
病院は西洋医学の説明モデルを持っており、また患者さんも同様のモデルを持っていました。その違いは深さです。病院はもちろん詳しく病気について知っていますが、患者さんにその知識を十分に共有されることはありませんでした。
これが説明モデルのちょいのりの弊害のひとつです。ちょいのりした説明モデルの満足度は相手に依存します。ここで自らの説明モデルを持っている人はこの相手の説明モデルの影響を回避することができるということです。

3つ目の説明には、治療と治癒の違いを明記する必要があります。治療とは病の症状を治すことであり、治癒とは病の症状に関係なく、患者が癒される状態と定義しましょう。
自らの説明モデルはその病気を治療するかどうか、というのはとても難しい問題です。西洋医学だからといって正しいとは限らないし、現代では受け入れられていない健康法でも次の日に治るかもしれません。そのため説明モデルによって治療ができるかどうかといえば口を紡ぐしかありません。ただし確実に高いプラシーボ効果を与えることは明記しておきます。
それに対して治癒はどうか。これに関しては強い説明モデルを持っているならばほぼ確実に起きます。なぜ起きるかというと、自らの説明モデルに沿って治療行為を行うということは、「今この瞬間において病が取り除かれる行為が行われている」という安心感があるからです。つまりこれはその場で病が治るかどうかという治療とは全く区別されます。

つまり、現代医療や弱い説明モデルを採用している人にとってこの治癒、すなわち癒しの体験というものはまず得ることができません。健康らしいことをしていても、それはembodyされていない行為であるかぎり「おそらく体にいいことが起こるはずだ」、「この治療が完了すれば完治すると先生は言っていた」と将来の自分への期待に留まります。これは治癒ではなく治療にあたります。

癒しから始まる説明モデル

以上のことから、強い説明モデルを持つことは自らを癒す方法を知っているのと同義と言えると私は考えます。もしかしたら医療的多元論的な社会において特定の一個の強い説明モデルはデメリットにもなるかもしれませんが、現代日本人はあまりにそれが弱いと感じます。個人がリラックスするということにおいて癒しというものはあるに越したことはありません。

どうすれば現代日本人は強い説明モデルを持つことができるのでしょうか。

そのヒントはここ数年ブームになった、サウナにあります。サウナによる「ととのう」という状態はまさに一人称の体験であり、embodyされた説明モデルとなりました。その工程を踏めば多くの人がととのうという癒しになります。
ちなみにサウナによる健康効果は「デトックス効果がある」とか「代謝を上げる」などメディアに取り上げられていますが、それは弱い西洋医学的説明モデルを持った日本人を惹きつけるのには十分でした。それと同時にサウナに「治療効果がある」という強い説明モデルは特に受け入れられた訳ではなく、あくまで癒しにフォーカスが当たっていることが重要です。

ともかくこのサウナはある一定の人たちの治癒に大きく寄与したのです。

治療と治癒の両立に向けて

サウナは癒しを与えました!ハッピーエンド!
とはなかなかならないと私は思っています。というのもサウナを説明モデルにした時に治療を求めることはなかなか難しいからです。
先程挙げた通りサウナに健康効果はありますが万物を治療するわけでもないし、決して効果的とは限りません。ダイエット目的でサウナに通う方も散見されます。彼らに治癒は与え、とても高い満足感を与えますが治療への効果とは比例しません。このことを頭ごなしに否定する人もいます(過去の私も恥ずかしながらそういう人間でした)。

つまり治癒と治療の両立が必要になるわけです。ここに関しては健康業界の最終目標といえるでしょう。
ここで治癒に寄与しているサウナに治療を求めるのかという批判があるでしょう。それは意味が違います。サウナに治療効果を求めて、ミスマッチするという現象が良くないのです。
健康を求める人全員に治癒と治療を区別しろというのは、説明モデルとして、医療的多元論として誤りです。
それならば治療を求めた人に治療と治癒を、治癒を求めた人にも治療と治癒を与える健康法モデルが望ましいのではないでしょうか。
決して簡単なことでは無いですが、難しくもありません。例えば医療現場における患者さんへの丁寧な説明や扱いというのは治療には寄与しませんが安心感という治癒になります。既存のシステムにほんの少しの足し算をするだけで治療と治癒の両立が出来ます。

治療と治癒のための説明モデルへ

最終的に治療と治癒の話になってしまいましたが、ここには確実に説明モデルと医療的多元論による分析が大事になります。
患者が、治療者がどのような治療を求めており、その中に治癒があるか、という分析は臨床の現場はもちろん、システムにも組み込むことができると思っています。

そして多種多様な治療は、治癒のマッチングを容易にします。治癒は趣味嗜好の領域にも関わってくるからです。好きな治療を選べるということは、治癒効果と両立しやすい治療を選択できることにもなります。

今まではこちらの治療と治癒のマッチポンプを待ったり、相互合意を目指してきました。しかしそのモデルは限界であると、この数年は痛感しています。説明モデルとは何か、説明モデルを持つとはどういうことか、そして異なる説明モデルを持つ人が共存する社会、すなわち医療多元社会とはどのような社会か。それを考え直す時期だと考えています。



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