並の人生、何が悪いw
子供たちがまだ学校に通っていた頃の話である。
海外にある某インター校のママ友がふと愚痴をこぼした。
ママ友「最近、娘がすごくイライラしているのよね。試験前だから仕方がないのだけれど。」
えっ………。
試験前????
試験前なの?
子供たち、何も言ってなかったけど!?
ってか、試験前になると、イライラするもんなの?
それは、めっちゃ試験勉強しているからだよね!
帰宅後。
親が見ることができる学校のポータルサイトにアクセスしてみる。
ちなみに、ここで全ての情報が見られるようになっているのだ。
もちろん、それぞれ自分の子供の個人情報(成績はもちろん、課題を提出しているか否かとか、出欠情報など)も掲載されている。
余談だが、「無断欠席」も親にメールの通知が届く。授業ごと先生が欠席をマークすると、親に自動メールが送信されるシステムらしく、帰宅した子供を捕まえて「(何しとったんか)吐け」と吊し上げることになる。「なんか通知きたけど」と聞くと、前の体育の授業のあと遅れてしまい、◯分以上遅れると欠席にされる云々、という話を聴くことになる。本当かどうかは分からないがw
話を戻す。
スケジュールを確認すると、確かにあと10日ほどで試験期間に突入することがわかった。
まぁ、親の私も私であるが、この会話をした後に、テストのことをすっかり忘れる(汗)。
当然、家で見かけるバクくんは、食べているか、ゲームしているか、寝ているだけである。
そんなある日、バクの部屋に入ったときのことだ。
机の上にある計算機にコードがつながれていて充電中であることを発見!
ちなみに、こういうタイプのものである。
SAT対応の計算機リストは以下の通り。とはいえ、だいたい学校ではTIを推奨しているので、それを購買部で買うことになる。
知らんかった………orz
それ以来、彼がテスト期間であるか否かは、「計算機の充電をする」ことで判明することになる。
ある日。
その後、数学の先生との面談にて。
ちなみに文章題というのは、式をつらつらと書くという意味ではなくて、どういった考えで、その問題を解くのか、どうやってそれを導き出したのか、ということを文章で書くことを求められることがあるのだ。そこで丁寧に解説しないといけないけれど、バクは「これがこうだから、こう。終わり。」みたいな書き方にしていたみたいで。やる気ないやろ。
で、その次の学期でのMathの先生との面談では…….。
帰宅後。
信じられないだろうが、米国式の学校では、単位を落とすと、再履修しないといけない。それで卒業できないフラグが立つ高校生が毎年何人か出る。その場合、補修を受けたりレポートを提出することで単位がもらえるケースが多いのだが、その補修が学校によっては「有償」だったりするのだ。
単位をお金で買うような感覚に陥る(汗)。
それだけではない。必須科目を落とすと留年が決定する。進級できないと、学費が一年分増し増しになる。インター校の学費って目の玉が飛び出るほどの金額である。
日本の20代の平均年収以上かかる(滝汗)。
良い大学ブランドには一切の興味はないが、コストが余計にかかることにはシビアな大阪人の私。
私「確かに、そうか(そこで納得するな!!!)。」
というユルユルの学生時代を送ったバクくんである。
彼に一度聞いてみたことがある。
こういう話もしたことがある。
そんな彼だが、身の丈に合った大学にサクッと入り、成績フツーでスルッと卒業して、フルリモートでエンジニアとして仕事している。仕事のない時は、営業時間内でも平気でゲームに興じ、お昼寝をしたりもしているが、忙しい時は、早朝から深夜までワーカホリックっぽく仕事をしている時もある。まさに一所懸命に仕事をしている時もあるのだ。
ヒマな時も忙しい時も、とにかく会社に張り付く必要があったり、あちこちの客先に表敬訪問に行ったり、忙しい時にはプライベートの時間がほぼなかった私のエンジニア時代とは隔世の感あり、である。
人間の生き方と価値観が、大きく変わってきていると感じる。
なんでこんなnoteを書いたかというと、「受験に失敗して、将来に失望してメンタルをやられる学生さん」がそろそろ出てくる時期だからだ。
受験に失敗しようとも、自分自身が知的に優秀であれば、それを生かすチャンスは残りの人生にたくさんあるのだ。その結果に落胆してメンタルがやられるならば、それは非常にもったいない話である。
バクの様に、学生時代にユルユルであっても、仕事で必要な時に一所懸命になれるなら、それで何の問題もない。「仕事やってます感」を出す必要もなく、日本でも、少なくともIT系の新興起業ならば、根性論ではなく成果を正当に評価される環境が整いつつあるのだなと思うのだ。
逆に、なんでもかんでもベッタリとすべてに一所懸命になっていれば、すべてがペイするかというと、そういうわけでもない。
特にそれが勉強の場合は。
すべての経験に価値があるけれど、机に座って頭に丸暗記したものの価値は、それほど大きなものではない。なぜならばそれが「経験」とは言えないからだ。そしてそれは、ほどなく忘れるものだからだ。
もし学んだ知識をもって、それを応用して自分の生活に生かす、仕事に生かす、研究に生かすということがあれば、それは初めて「経験を伴った生きた知識」にはなるけれど。
試されているのは、「受験時の学力」ではなく、その後の人生の生き方である。
自分に与えられた適性を使って、社会に何らかのポジティブな貢献をすればいいのだ。
すでに「大学名」がブランドとしての価値を失いかけている今、他人がどういおうと、自分を知的に向上させようという意欲を持ち続けていれば大丈夫。そしてその対象は、偏愛に満ち満ちて良い。正しい研究も、間違った対象もない。自分の興味はそれほどまでに尊いのだよ。