人、人間、侍 多様性
今日私は東京に来ています。
とはいっても、お笑いライブでは無く仕事の都合で来ています。
仕事の都合と言っても研修みたいなもんで来ています。
研修と言っても何をするかはまだ知りません。
多分胡散臭い話を聞いて終わりです。
(うちの会社の研修担当の人ごめんなさい怒らないでクビにしないで)
と言うわけで東京の街をブラブラして思ったのですが、何と言うか駅に溢れている雑踏は皆『人間』というより『人』という感じでした。
彼らは会社や学校、家族という社会生活を送る時は『人間』なのでしょうが、街で雑踏としている瞬間は『人』として存在していました。
一点を見つめながら同じテンポで歩く彼らに個性など無く、あの瞬間背中を斬られても気づかないのではないでしょうか?
『電車』や『星』、『ビル』と何ら変わらない『人』という無機質がそこには溢れ返っていました。
人は人と関わって初めて『人間』になる。
きっとそういう事なんでしょうね。
(この記事を胡散臭いと思った人事の方、あなたが明日しようとしている事はこういうことです。 嘘です。クビにしないで下さい。)
雑踏達が人間では無く、人として歩く中、私も『人』として雑踏を形成していました。
しかし、そんな私の目の前にセーラー服をきた中年の男性が歩いて来たではありませんか。
セーラー服というより、イメージはプリキュアの様なアイドルのようなそんな感じの服でしたが、そんな事はどうでも良い。
雑踏の群れの中、彼だけは『人』では無く『人間』として君臨していました。
いや、『侍』でした。
彼もまた、一点を見つめながらスタスタ歩いていましたが、雑踏には組み込まれず、何なら『組み込まれてたまるか』という強い意志を感じました。
私を含め、彼とすれ違う人達はその違和感を明らかに意識し、その瞬間に雑踏達の身は社会性を帯び、彼らは一瞬だけ『人間』に戻りました。
今、世の中のトレンドとして多様性の時代とよく言われます。
しかし、多様性を認めた事で、誰もが『アイドル服おじさん』に興味を持たなくなる世界がすぐそこまで迫っていると思うと、私は少し寂しくなりました。