seven the youth (ultraseven for adults) postscript
あとがき
このあとがきは、富士山須走ルート、本八合目の山小屋の個室で書かれている。外はひどい嵐で、ものすごいかみなりが耳元で鳴っている。今回の登山の目的は、富士山の火口に飛び込むためだ。とはいえ、これまでも何度かそのために頂上まで登ってきたが、一度も実現には至っていない。死ぬと騒いでいる者にかぎって、いざというときにその勇気がくじける。教え子の中の数人は前日まで元気だったのに、風邪で欠席するかのように、静かにこの世からいなくなった。
「セブン・ザ・ユース」も、とうとう書き終えてしまった。オマージュとはいえ、円谷プロや往年の作品ファンからすれば、さぞ迷惑で頭にくる作品であろう。数年前に身体的、精神的な理由から、二年ほど休職した。休職中とは、辛い仕事から解放されいっけん楽だと思えるかもしれないが、実際は何もしないでいる時間が無限に続くような、行く末が全くみえない実に残酷な期間である。このままいなくなってしまいたい、と思ってばかり、その時間がこの作品を生みだしだ。
休職期間中「ウルトラセブン」のDVDを何度もくりかえし観ていた。画像は良くないが、12話「遊星から愛をこめて」逆輸入版やドラキュラ版も見直した。ネットや文献を眺めながら、撮影では実現しなかったシナリオもできるだけたたきこみ、頭の中ではすでに本作品の構想がおぼろげながら出来上がっていた。主人公は変身することはなく、超能力は有しているが、生身で等身大の人間体であり、また敵のエイリャンも同じく人間体に近いこと。敵を一瞬で倒すことができる完全無欠なヒーローであること。故郷や、自宅と職場とを結ぶ中央線沿線や、これまで訪れた都市を舞台とし、縁のある人物を登場させること。いくらか大人向けの内容にすること。もちろん、オリジナルへのリスペクトが前提にあることを、理解していただきたい。
本作品に登場する、モロボシ、ハタオリ、アマベは、いずれも自分自身のアバターである。ハタオリは休職中の自分、アマベはこれまでの普段に近い自分、モロボシは年齢もふくめ理想の自分をイメージした。「ザ・ユース」とは作品中でも紹介したが、高校時代に組んでいたバンドの名前であり、リーダーのキリヤを中心にフルダ、ソウマには実際のモデルがいる。数十年が経過した現在でもつきあいがあり、たがいの都合が合うときには「ジョリー・シャポー」の「モロボシダン」や「ばったもん」の「一文字隼人」に会いに行ったりしている。
キリヤとは高校で知り合ったが「特撮」に関する知識が常軌を逸していて、世の中にはこれほど精通するエイリャンがいるのか、と感心した。今でもフィギュアを収集し、時折、撮影した画像が送られてくる。本作品のタイトルバックをデザインしてくれたのも「イエスホウプ!」を考えてくれたのもキリヤだ。フルダとは久我山のアパートで一緒に暮らしたこともあり、今や某遊園地の副社長級である。ソウマは某風俗店の店長をしていた。幼いころに近所の駄菓子屋の店頭につるされており、引くまでは中身がわからない小さな紙の袋に特撮系の写真が入っていて、こずかいをもらってはそれに費やしていたが、高校生になって「スペル星人と百窓」の写真を見せたら、ソウマも同じものを持っていて感動したのをおぼえている。復職できたのもザ・ユースのおかげだ、この場をかりて、ありがとう。
休職中、日本語でガラケーに殴り打った「セブン・ザ・ユース」を「ザ・ユース」のメンバーに送り続ける日々が始まった。はじめは数話で終わると思っていたが、両親の介護を差し引いても時間はありあまるほどあり、結局は最終話までいきついてしまった。生きるにも死ぬにもパワーが必要で、そのパワーを昇華するための何かを求めており、本作品を完成させるだけでなく、調理師免許、アマチュア無線技士、大型二輪免許も取得した。そんなパワーがあったなんて、ふりかえっても嘘のような話でとても信じられない。
発表することにしたきっかけは、たまたま時間ができたことと、noteの存在を知り合いから聞いたことが大きい。数年間ほったらかしにしておいたガラケーをさがして、充電してメールを確認すると、そこには休職中に過ごしていたはずの、忘れかけていた時間があった。読み返せば荒唐無稽な内容で稚拙な文だが、せっかくこれだけのものを作ったのだから形に残そうと考えた。英語でリライトしたのは、そのヘタクソな部分をごまかすためと、読んでくれる人だけ読んでくれたらいい、という思いからである。リスポンドは少ないけれど、スキやコメントを残してくれたり、翻訳ソフトを介して読んでくれた人もいたり、ささやかな反応がとてもうれしい。まがりなりにも読んでくれたみなさんには、感謝してもしきれない。
なんだ順風ではないか、と思われるかもしれない。でも、そうではない。恥をさらすようだが、理由は家庭不和である。二回目の結婚をしてから、もう十数年になるが、たがいの職場の関係から当初から別居をしている。つきあいはじめはまだよかったのだが、休職してからおかしくなりはじめた。もともと見ている世界がちがうことには気づいていた。子どもが成長しても目の前で手をつなげるような関係でいたい、などという理想を描いていたが、残念ながらそのような未来が来るとは思えない。
何度も修復を試みてきたがどれもうまくいかず、歩みよろうとすればするほど遠ざかっていくように思う。子どもが生まれてからは、触れあうことはおろか、ほとんど話すらしていない。一緒にいても、やりとりはメールか子どもを介して行われる。おそらく、今の妻以外のこれまでつきあった誰と一緒になっても、夫婦としては今より幸せになれるような気がする。でも、子どもはかわいい。ここで思うのは、他の誰と一緒になっても今の子どもには会えなかったということだ。子どもを生んでくれたことには、妻に感謝をしている。
メールでやりとりをしているなかでくりかえされるのは、子どもの世話をして自分の時間がまったくもてない、子どもの世話をほとんどしていないそれでもあなたは父親か。妻は実家の近所に住んでおり、子育てもおばあちゃんなどが助けてくれているが、妻としてはそれも嫌なのだろう。妻の言うことは確かに正論である。ブレーキのあそびがないくらい正論ばかりで息がつまる。少しでいいからからだに触れさせてくれないか、一度だけそうお願いしたが毛嫌いされるように拒否された。先日とうとう、子どもが独立したらおわかれしましょう、というログがきた。子どもが独立するのが先か、心臓病が悪化するのが先か、それとも火口に飛び込むのが先か。
これまでしてきた悪行を考えれば、もう地獄に落ちるしかない。もしかしたら、休職中にひどい言動をしたのかもしれない。正直にいえば、できることなら今の妻ともう一度うまくやりなおせたら、と思う。「これまでごめんね、本当に悪かったな」そんな言葉で、思いを込めて謝罪する準備はいつでもできているのだが、もう手遅れかな。子どもは会っても話もしない両親をどう思っているのだろう。これは勝手な想像だが、子どもの成長に「もう他の人生はないんだからさ、ふたりともうまくやってよ」と言われているように思えてならない。
かみなりは相変わらずなりやまない。あとがきからは大きく外れてしまったが、こんな情けない自分をふるいたたせるためにも、本作品を残すことが大事だと思われた。おそらく妻や子どもがこれを読むことはあるまい。でも、今の自分の気持ちを誰でもいいから知ってほしい。聞いてもらえれば楽になることもある。順風ではない、とにかく重くてつらい、すぐにでもこの苦しみから逃れたい。救いの神が死んでしまっても、生きていけるのだろうか。不安というエイリャンにインベイドされつつあるこの心身を、光のナイフでスパッと切り裂いてしまいたい。