[読書会参加レポート:燃ゆ会@zoom] 「舞台―観客」コミュニケーションの力学
当記事は、小説『推し、燃ゆ』のネタバレを含みます。
「燃ゆ会」とは
大阪工業大学 知的財産学部 水野五郎先生主催の読書会に参加した。課題図書は、芥川賞で話題沸騰の『推し、燃ゆ』。
推しのいる方限定の“推し会”、誰でも参加可の“燃ゆ会”の2部制で、わたしは“燃ゆ会”に行った。構成は9人で、内訳はファシリテーター2人(先生・ゼミの学生さん)、一般参加者7人だった。
『推し、燃ゆ』を振り返る
『推し、燃ゆ』は、炎上した推しのアイドルと、ファンとして熱を上げる主人公の関係性が印象的な作品だ。
わたしにも、かつてアイドル的な推しがいた。内容は、もう耳が痛くなるような描写のオンパレード。色々と考えさせられる作品だったので、感想を既にアップしている。
議論されたことから
参加した方から、興味深い意見が聞かれたので、文字に起こしてみる。
“「横から『いいね』が飛んでくる」という表現が印象的。SNSに親しんでいない層には、読みにくいんじゃないか”
“SNSの登場で、アイドルに話しかけることが出来るようになった”
“「推す」という言葉は、AKB登場くらいから使われるようになったと思う”
“推すという行為は、楽。コミュニケーションした気になれる”
―燃ゆ会での議論から
しっかりと文脈を覚えていないのが痛手だが、それでも文章に語らせると、いくつかキーワードが浮かび上がってきた。今回はそのうち、「SNS」登場以来の「コミュニケーション」の力学に光を当てて、考察してみたい。
“観客”だった主人公
“あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった”
作中で目を引くのは、主人公が“眺める側”に徹しているスタンスである。推しから見られることはほぼ無いし、本人もそれを望んでいないようだ。
“携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う”
“現場も行くけどどちらかと言えば有象無象のファンでありたい。拍手の一部となり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい”
SNSという舞台装置
SNS、スマートフォン、会いに行けるアイドル。調べると、これらはほぼ同時代の登場であり、互いに流行の鍵を握り合っている。
当初は身内中心のクローズドなコミュニケーション中心であったSNSは、今や素顔を知らぬ者同士、私生活を切り取る情報に溢れている。時間が空けばスマートフォンを弄るのが当たり前になり、画面越しの景色を眺める時間が増えた。
そしてSNSは、コミュニケーションの距離感を変えた。他者のアカウントに、コメントを書き込むことが出来るようになったからだ。アイドルにしても、たとえ現実の舞台に行かなくても、擬似的に会いに行き、話しかけることが出来るようになった。
つまり私達は、ともすれば観客として生きやすい時間が、長くなったと解釈できるのではなかろうか。例え特定のアイドルを持たずとも、きらびやかに見える光景には、事欠かないからだ。
主人公を生きるということ
小説では、舞台を降りた推しの景色を焼き付けて、幕が下ろされた。主人公が、観客役から主人公として生きる決定打となった出来事だ。
彼女は、どう生き直すのだろう。それは永遠に分からない謎だけど、物語の筋書きどおりにはいかない人生を歩むのだろう。それでも、語りを聴いてみたいと思ってしまう。今度は、主人公を生きる語りを。