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【読書体験】型を忘れるほどに馴染ませよ――『習得への情熱』基礎編

noteで読書会を試したら」サークルで、つながる読書さんより、Josh Waitzkin『習得への情熱―チェスから武術へ―』をお勧め頂きました。“読まなそうな本をお勧めする”という趣旨でしたが、たしかに自分ではまず手に取りそうもなかったです。

とても内容の濃い本でしたので、まずは三章編成のうち、第一章 (基礎) を学んで消化したことを形にしてみます。

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「複雑性を軽減して明快な原理で局面を学ぶ」

「最初に取り組んだのは、キングとポーンに対してキングのみという、盤上に三つの駒しか置かれていない状況だった。…僕たちは少しずつ薄い層を重ねるようにしながら知識を高め、原理・原則をクリエイティブな認識力を生むための燃料に変える方法を理解していった。」
――Josh Waitzkin『習得への情熱』
筆者がチェスの先生から正式な教育を受けるシーンより

筆者は基礎に基づいた思考の重要性と、暗記教育の弊害を説いている。チェス界では、子どもに序盤からの詰め方のバリエーションを教えてしまいがちなのだという。対戦相手にトラップをしかけるパターンを暗記させるやり方だ。一方、筆者は終盤からの詰め方を学ぶことで、駒の特徴や局面についての原理・原則を身につけ、基礎を磐石にしていった。

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彼はこの後チェス界を制した。そして、チェスの競技を降りて太極拳を学び、そこでも世界の頂点に立つこととなる。


では、舞台をアメリカから日本に戻そう。日本らしい文脈でこの原理・原則を学ぶために、ちょっと寄り道して、落語界の基礎づくり、すなわち「型」の教育について見ていきたい。


“守破離”と型の重要性

「型ができてない者が芝居をすると型なしになる。メチャクチャだ。型がしっかりした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる。…結論を云えば型をつくるには稽古しかないんだ。…語りと仕草が不自然でなく一致するように稽古しろ。」
――立川談春『赤めだか』
若き日の談春が、談志(イエモト)から指導を受けるシーンより

いま落語の型についての教えを聴きながら、自分のことに置き換えて考えてみよう。

わたしは学術の世界に足を踏み入れて、一年ほどたつ。そこで大学院の研究室は、教育機関においては数少ない、徒弟制的な性格をもつ場だと教わった。

今の先生――いや、師匠は、「型」を重視する類の人間である。そして課題の提出・添削を通じて「型」を身体化させるべく、徹底的に叩き込むのだ。

まずは守るべき「型」を身につけること。そのためには、まず見様見真似、つまり形を真似ることから。

かく言うわたしは、生家に武士の血が流れていることを、どこか心の拠り所にしてきた節がある。だから、このような体育会系的なやりとりがしっくりするのかもしれない。


「型を忘れるための型」

わたしはまだ研究についてはヒヨッコであり、意識的に型を守る段階にある。しかし、談志の言うように、「語りと仕草が不自然でなく一致する」、つまり型が身についてきたら、それを忘れていくプロセスも必要だろう。

『習得への情熱』の筆者Josh Waitzkin氏は、これを「型を忘れるための型」と呼んでいる。「身について自然に使えるようになった知識(と感じられるもの)に技術的な情報が統合されるプロセス」をいうそうだ。

太極拳の「型」を身につけた学習体験について、筆者は以下のように述べている。

決められた動きをスローモーションで徹底的に純化させながら何千回も繰り返してきたことで、僕の身体は、もはや直感的にそういう姿勢をとることができるようになっていた。太極拳の場合、どういうわけか、大きな物理的効果を得ようとするとき、その物理的な
に動きを頭で考えてしまうと、かえってうまくいかないものなのだ。この種の学習体験はチェスでもよくあることだ。小さい頃からずっと、チェスのテクニックや原理や定跡が自分の無意識と一体化するまで徹底的に学ぶ習慣がついていた。


どんな領域においても、達人への道は狭くけわしい。しかし、Josh Waitzkin氏は結果を求めながらも、学ぶプロセスを楽しんでいるところに強さがあると思う。

さて、わたしも研究において、山路の景色を楽しみつつ、一歩一歩登っていきたいものである。




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