カントぱいせんをけっ飛ばす話し:本が読めない読書日記
ここに来て、突然。
「物自体にアクセスできる。」と現象学を批判し、カントぱいせんに中指を立てる本を見つけて、驚愕している。(^^)
写真は長らく、カントの世界しか考えてこなかった。
森山大道や中平卓馬が『写真よさようなら』で言及された、絶対に行き着かない先、写真に対する過剰な想念が開放される場所としての“彼岸”が無効になってしまった。
カントは『純粋理性批判』で、人は“物自体”に行き着くことはできない、と言ったらしい。
そして物自体は“英知界”、人間は“現象界”という別々に分かれた世界にいる、という。
(哲学用語図鑑からしか読んだことがないので伝聞として書く。)
だからカメラの機械の眼を・・・とか、だから表面しか・・・とか、窓なのか?鏡なのか?というのが、長らくの写真論の中心だった気がする。
それをまるっとなしね、これはちゃい、としちゃっていて、やばい。(^^)
いやいや人間と物自体はおなじ宇宙にあるでしょう、観察者は系に影響を与えるって量子力学でも言うよね、それって物自体に触れているよねと、してしまったのが今らしい。
これが“現象論批判からの存在論”という流れだ。
一つはガブリエル『アートの力:美的実在論』。
カントせんせー、ガブリエルくんが中指を立ててました。(^^)
新しい哲学“思弁的実在論”の骨子がそこのようだ。
もう一つは、インゴルド『応答、しつづけよ。』。
文化人類学の“存在論的転回”という言葉を知っていたが、ここまでラディカルだとは思っていなかった。(中指は立ててない。)
もう一つ、カルロ・ギンズブルグ『図式,先入観,二重盲検』思想 no.1186 2023/2月号。
イタリアの歴史家のギンズブルグは全くの専門外だ。
検索すると“小さな歴史学(ミクロストリア)”をつくった、と出てくる。
仮説とは“図式”とも言い換えられて、ここでは絵画や歴史を指す。
“先入観”とは現象界と英知界をわけるもの。
“二重盲検”とは、異端審問裁判記録を歴史的に検討する、ギンズブルグの手法のことだ。
この論文も物自体へのアクセスができる、と保坂は読んだ。(もちろん立ててない。)
いやいやいや、やばいっす。
僕はずっと、カント美学にどっぷりで、物自体にアクセスできない=誤読しかできないと、強く強く思い込んでいた。
誤読こそが常態で、わかり合えない事を前提に生きてた。
それをまるっとひっくり返された感じ。
少し泣いてる。
2023/05/26 9:26
9:45追記
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