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コトバのデザインのために:祖先からのコトバの伝承に「失敗」している私たち

「私?」の言葉

 私たちは日々、言葉をしゃべったり、文字を書いたりして生きている。
 その時、私たちは自分がしゃべる言葉を「自分の言葉」だと感じる。
 自分が書いている文字もまた、自分の言葉のように感じる。

 ただし、特に書いた言葉については、時間が経ってから読み返すと、何ということを書いているのだろうと恥ずかしくなったり、昔はこんな考えしかできなかったのか、などと怒りを覚えたりすることもある。
 今の自分なら、こんなふうにはかかないな、と。

 昔の自分が書いた文字たちは、なにやら疎遠な他人が書いた文字のようだ。

 言葉は、自分がかつて発したものであっても、「自分のもの」ではなくなることがあるようだ。あるいは言葉は、そもそもはじめから「自分のもの」などではなかったのではないか?

 思い当たる節があるといえば、言葉で言い表そうと思っても、しっくりくるうまい言葉が見つからない、という経験はよくある。強いて言えば「なんとも言えない」としか言えないような、言葉が張り付いてこない経験。日常にはそういうものも溢れている。

 言葉は、生きた体験と一体になって、世界を「私」にとって理解可能なものにする。しかしどうしても生きた経験の方が多少先行していて、もちろん言葉はその経験をがっちり構造化してくるのだが、しかし言葉が経験の表面から滑り落ちていくような感覚もある。

借り物としての言葉

 渡辺哲夫氏の『二〇世紀精神病理学史』は、このあたりのことについて考える手がかりをふんだんに与えてくれる。

 私たちがしゃべったり書いたりする言葉は、自分のものなのだろうか?

 『二〇世紀精神病理学史』で渡辺氏は、私たちの言葉が、他の人間から受け継いだものであることに、繰り返し注意を喚起する。他の人間とはそのほとんどが既にこの世には存在しない、過去の多数の死者たちである。

 私に言葉を貸し与えた他者たちとは、子どもの時代を共に過ごした身近な人々だったかもしれないが、しかしその人々もまた、与えられた言葉をしゃべっていたのである。

 私たちは遠い過去から、無数の人々を経て受け渡された言葉をつかう。その他者の言葉、死者たちの言葉で、私は世界を切り分け、その意味を推し量り、また周囲の人々のアタマの中を巡っているであろう言葉を推察し、自分自身のアタマの中を整理したような気になっている。

<歴史>=言語に閉じ込められる

 渡辺哲夫氏は、徹頭徹尾言葉に媒介されている私たちのことを、「<歴史>=言語という牢獄に閉じ込められ」た存在であるとする。
 私たちは「伝承」された<歴史>=言語によって、自分にとって意味のあるものを見分ける。伝承された<歴史>=言語を介さずに、私たちは自らとその環境と純粋に「自然生命直接的に」交わることはできない

 人間の存在を貫き、支える言葉。渡辺氏は言葉を「伝承」と呼ぶ。
 伝承とは「人間的かつ民族的な生命体の群れに、固有のかたちと動きを与える<歴史>」であり「言辞組織の潜在的持続力」であるという。それは私たちが親から、親がまたその親から、遡ることかつて生き死んでいった死者たちから、受け継ぐものである。

誰にとっても同じ、いつもと同じ、世界のリアリティを支える

 伝承としての言葉が、安定的にいつも同じように聞こえ続け、周囲の他人たちもまた同じ言葉を聴いてはずだと確信できる限り、私たちは伝承された<歴史>=言語が自分自身の心身にピッタリと張り付いているように感じていられる。

 その時人は、今日と同じ明日の到来を信じることができるのかもしれない。死んだ祖先たちも身近であり、祖先たちと共に生き、自らもまたいずれはその祖先たちの中の一人となる。

伝承に失敗した20世紀 

 この他者たち、親しい祖先としての死者たちからの<歴史>=言語の伝承に失敗する時、私たちは、周囲の他の人々と同じような具合で環境に意味を見出すことができなくなる。一定の環境に対して一定の意味を見出し、一定の対応をするという、パターン化された行動をうまく演じることができなくなる。

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