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来訪神は「この世」というバーチャルリアリティをつくる古代のメディア技術

来訪神が世界遺産に登録された。

来訪神を英語ではどう言うのだろう、と興味本位でユネスコのサイトをのぞいてみたところ、なんとそのまま「Raiho-shin」である。

来訪神は、一年のうちの決まった時期に邑を訪れては、村人を追いかけ回したり、脅かしたり、泥を塗ってみたりする。そうして、放っておけば何気ない日常の時間がいつもと同じように過ぎていくはずの集落を、束の間「大騒ぎ」に引き込む

来訪神は、異形の面と箕の神である。

来訪神に直面して、その姿をみて、「仮面だ」と、言えてしまうのは現代人の感覚なのかもしれない。仮面は仮面、つまり人工のモノであって、その下にはそれをかぶっている村の誰かの「本当の」顔がある、と

神からすれば、仮面と呼ばれてる異形の面こそが、「本当の」顔であるのかもしれない。その面が、今年たまたま張り付いているあるひとりの若者の顔は「仮の憑き場所」のようなものであり、仮のものではないだろうか。来訪神からすれば、来訪神の方こそ、その訪問先の人界に先行する者である。

 来訪神といえば、折口信夫の「まれびと」論である。まれびとの話が登場する『古代研究』は青空文庫でも読める。国会図書館のデジタルコレクションでも、実物の質感をうかがうことができる。

面と蓑笠(的な草の衣装)の神は、普段は神の国のようなところに居るらしい。そこは「常世」などと呼ばれる。神が居るその国は、私たちのこの世に対する「他界」である。神たちが暮らすもう一つのこの世が、この世と並行して存在する。

世界は均質なひとつのものではなく、並行するいくつかのものである。そうして何かの弾みで一年に一度、その並行する世界の間に通路が開き、そこから神々が訪ねて来る

来訪神は何をしに来るのか? 

それでは、来訪神はわざわざ何をしに来るのだろうか?

日々の単調な繰り返しのなかで、この世は少しづつその意味がぼやけていいく。はっきり区別されたものたちからなる確固たる意味で満たされていたはずの世界は、じわじわと不鮮明になっていく。なにか冬の夕暮れや、雪の夜の中に溶けていってしまいそうな具合でなる。意識は落ち着き払った沈黙の中にまどろんでいく。

この世が眠りについてしまいそうになったそのとき、並行する他界から来訪神がやってくる。そして村の人びとに「叫びかけ」、村の子どもたち、大人たちを叫ばせる。

来訪神は村の祖先でもあるという。村の人びとはその子孫である。来訪神からすれば、すべての老若男女すべての村の人びとが「子ども」である。祖先が、その子孫たちを叫ばせる。

その叫びは、言葉になる手前の叫び声である。。

その叫び声こそが、子孫たちにとっての世界を、昼と夜の中間の不分明なまどろみから救い出すキッカケになる。まどろみに響く声、そこに生きる人びとの声。その声が、人間の世界をその外部から区切りだす。

意味の体系を再生産するメディア技術として

来訪神がやっていること、それはいわば「意味」に息を吹き込み、眠りから目覚めさせることである。

かのクロード・レヴィ=ストロースによれば、意味とは、「意味する」とは「置き換え」ることである。ある言葉の意味は、その言葉を別の言葉に置き換えることで生み出される。置き換えることを同じようなパターンで繰り返すことができるとき、私たちは世界について明晰に安定的に語ることができるようになる

日々何気なく暮らしているなかで、ふいに言葉を失うことがある。息を呑む驚き、全身が緊張し、呼吸を忘れる。そうしたときに一呼吸おいて、隣りにいる誰かに聞かせるともなく「これはあれだ」と、なにかの言葉に言い換える。隣の誰かは、それに対して「そうだね」と発したり、無言でうなずいたりする。それが意味の現場である。

意味の体系をなすひとつひとつの言葉は、単独で孤立して転がっているのではなく、対立関係のネットワークを構成している。私たちが何気ない言い換えの為に選びだしたある言葉は、それと対立する他の言葉を、沈黙のうちに引きずり出してくる。

そういう置き換えを可能にするためには、言葉と言葉が、予め区別されていなければならない。すべてが不分明に溶け合っていては、置き換えは始まらない。

来訪神の姿ならぬ姿と、時に「沈黙」の声、そしてそれに追いかけられ脅かされる子孫たちの声ならぬ声の叫び。その沈黙の声あるいは言葉以前の叫びこそが、他のあらゆる言葉と言葉の区別に先立つ、一番最初の区別を実行する。それは人間にとっての意味の世界と、そうでない世界を区切る

こうして区切りだされた前者、人間にとって意味の世界が、日常性を支える慣れ親しんだ意味の体系を支え、再生産することを可能にする。

と、このあたりは安藤礼二氏の著書『折口信夫』がとても詳しい。

文字を持たない古代。放っておけば記憶は伝承されず、消えていく。繰り返し繰り返し、新しく生まれた子供たちに、祖先の声を憑依させないといけない。

また大人であっても、風光明媚な自然の中で少しづつ沈黙の時間が増え、その一部に溶けていってしまいそうになるところから、一喝、人界の言葉を思い出させることが必要である。

おわりに

いま来訪神が世界遺産となったことで、その言葉の手前の声はどこまで響き渡るようになるのだろうか。響く、といっても、ラウドスピーカー的に一方通行で響いてもダメである。その新しい「子孫」たちを叫ばせ、人界を切り出させる必要がある。

来訪神は、ある村、あるいはある部族ごとに、それぞれ存在する。たくさんの村に、たくさんの来訪神が居る。それはそれぞれひとつひとつの村を最初に自然から切り取った自然と人界の両方をまたぐ両義的な祖先たちの「姿」である。

ここで来訪神の「単位」のようなものが問題になる。

村を超えて、国家規模の人の集まりも、来訪神的な「叫び」によって初めて自己を意識できるようになるのかもしれない。あるいはまた最小の孤独な個人にもまたその意識を覚醒させるような叫びを上げさせる来訪神が必要なのかもしれない。

問題は、その叫びの後に、意味の体系を織りなす言い換えのために使える言葉のレパートリーを、ひとりひとりの個人たちの間でどう共振させるかであろう。来訪神たちは、決まった季節、決まった儀礼的行為やセリフの反復で、それを成してきた。それは古代以来のメディア技術である。

翻って、リアルタイムでパーソナルなWeb状のメディア技術をもつ私たちは、そこでどうやって、日常の意味を再生産させ続け、あるいはその日常の意味が息づきうる余地を切り広げる原初の叫びを響かせるのだろうか。

この話は、下記に公開中の記事につながるのでご参考にどうぞ。


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