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分化と結合の科学

前に下記の記事に人類の思考の底で動く「四項モデル」の話を書いた。

四項モデルというのは人間の意識が、無意識が、身体が、生命の機構そのものが、自分自身と外界を区別し、生と死を区別したりする時に現れてくる秩序(区別の体系)の最小単位である。

南方熊楠はその論考『燕石考』において夢や神話にみられる四項関係を、無意識(潜在意識)が混沌から秩序を発生させる動きの痕跡として捉えようとしたという。

熊楠は論文「燕石考」で「燕石」に関する古今東西のいくつもの神話から、次のような四項関係を浮かび上がらせる。

(石燕) - (燕石)
|   × |
(酢貝) - (眼石)

燕石というのは「かぐや姫」のお話にも出てくる「燕の子安貝」のことで、その媒介性、両義性、離れ過ぎたものを結び合わせたり、近づきすぎたものを引き離したりする不思議な力を持つもので、神話的思考のエッセンスと言えるものである。

燕石そのものの話も面白いのだけれども、差し当たり今は「石燕」とか「燕石」とか書かれている項が「何であるか」は差し当たり気にしなくていい。

なぜならこの四校関係の図で一番重要なのは(項)ではなく(項)と(項)の間に引かれた「線」の方なのである。四項関係の図に描かれた「-」と「|」と「×」 を安藤礼二氏は「事の線」と呼ぶ

「事の線」が何を表現しているかというと、これは即ち、互いに異なり対立しながらも付かず離れずの関係にある二つの項を発生させる動きである。

事の線は分割しつつ結合する、分割結合をする。事の線から生じた二つの項は、事の線によって別々に分離されつつひとつに結びつけられる。

4項関係は「事の線」で多重に結びついている

この分けつつつなぐ動きから発生した付かず離れずの二項のペアは、他の同じく「分けつつつなぐ動きから発生した付かず離れずの二項のペア」とペアになる。

ペアがペアになるのである。

そこに現れるのが4項関係である。

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そしてこの四校関係はさらに他の四校関係とペアになり、さらにそれが…という具合に入れ子状に再帰的に付かず離れず異なりながらも結びついてく。

ペアがペアになり、ペアのペアがペアになり、という具合に分けつつつなぐ動きが増殖していくわけである。

強いて図にすれば下記のような具合だろうか。

スクリーンショット 2021-08-06 11.26.45


安藤礼二氏が『熊楠 生命と霊性』で論じておられるところによれば、南方熊楠は、この四校関係の関係としての秩序を発生させる”分けつつつなぐ動き”のようなことを、粘菌と、潜在意識と、曼荼羅に共通する一つの根源的な動きとして捉えていた可能性がある。

この辺りの話はとても面白いので、お時間のある方にはぜひ読んでいただきたいところです。

ここで粘菌と言えば生命科学の対象にもなるシステムであり、無意識(人間の潜在意識)は人間科学の対象となるシステムである。

そして曼荼羅は第一義的にはいにしえの宗教の思考と実践を通じて描かれたものであるが、森羅万象が「ある」ということの始まりを概念と概念の関係からなるシステムとして考える点で哲学の対象となるシステムでもあり部分的には科学的思考の対象となるシステムでもあると言えそうである。

自然科学と人文科学物質と精神という区別を超えて(これら自体が二項対立である)、森羅万象あらゆるものが、互いに他とは異なるものとして区別されつつ結びつく関係の項として発生してくる様を垣間見ようとしたのが熊楠であるということになろうか。

分化と結合の科学

何と呼ぶかはさまざまであるが、森羅万象を発生させる「わけつつ結ぶ」動き。

これは夢の世界の神秘的なお話ということではなく、20世紀の半ば以降、理論物理学生命科学、そして情報科学といった分野の理論の基礎に組み込まれ実際に森羅万象を自在に分けたり結んだりする技術(観測技術・制御技術)のイノベーションを引き起こしている

量子力学から、半導体工学も、波動工学も通信工学も、コンピュータサイエンスも、遺伝子操作もmRNAワクチンも、インターネットも暗号技術もビットコインも、それらの根底には「わけつつ結ぶ」動き、森羅万象を発生させる自然の妙理に寄り添い、その力をうまい具合に調整しながら人間が望むものたちを続々と発生させようとする配慮が行き渡っている。

その配慮は新たな「分化」と「結び」が雨後の筍の如く続々と発生することを、分割線の自在な「逃走」を、兎にも角にも肯定する思想としても現れる。

分化を自在にしつつ、一定の二項対立に吸収する

分けつつむすぶ」動きは、私たちの社会システムを発生させる原理を考える場面にも登場する。

例えばニクラス・ルーマンの社会システム理論などもそうである。

「システム」の自己組織化をめぐる思想はその核に「分けつつむすぶ」動きを含んでいる(この辺りのことについては馬場靖雄氏の『ルーマンの社会理論』がとても参考になります)。

そして今日の社会システムの動きに大きな影響を与えている「経済」のシステムである資本主義からして、恐ろしいほどスマートかつ強力に組織された「分けつつつなぐ」動きを、その価値増殖のエンジンのもっとも基本的な原理として含んでいると言えそうである。

即ち、労働力でもリンネルでも貨幣なんでも構わないが、ある商品を他の商品と「区別する(分ける)」こと、そして分けた上でいずれも全てを「商品」という一に置き換え、全て「同じ」商品として売り買い(交換)できるという基本的なアルゴリズムが動いていると見ることもできる。

この「商品であること」という「一」項が、貨幣の量の大小という軸上の幾つもの点にプリズム分光されるような具合で、さらにわかれつつ、しかしあくまでも同じ商品であり続けるところが資本主義の威力の本質をなす交換価値の増殖が生じることを可能にする

ある一つの商品は、工場出荷の段階では100円であり、卸の段階では120円であり、店頭に並ぶと500円であり、50年ほどどこかで歴史を重ねビンテージになると1,000,000円であり、という具合で「等価として」置き換えられる貨幣の量が増えていくことが許される(マーケットがあれば)。

このように「商品として交換する」ということの背景にも、「異なるが、同じとおく」ことができる「分けつつつなぐ」動きが動いているのである。

商品は「同じ」でありながら「違う」。

「異なるが、同じ」を可能にする分けつつつなぐ動きは、人類の象徴的思考全般を可能にしている原理であり、古代の狩猟採集民の交易においても、そして何より言語の発生においても、そのアルゴリズムの最小構成に含まれているものと考えられる。

それは経済というか、交換や贈与という局面でも隠れたり顕れたりしつつ動いている。

自然科学に、技術のイノベーションに、資本主義にと、産業革命以来の人類の世界は「分けつつなぐ」動きが自在に動き回ることができるフィールドを、広げ続けてきたように見えるインターネット上のWeb空間など、まさにこの分けつつつなぐことを空間的近接性を超えて可能にしているわけである。

意味分節システムの発生

言語もまた、「わけつつ結ぶ」動きから発生するシステムである。

言語は「わけつつ結ぶ」動きを”自在に”沸騰させやすい、極めて柔軟性に富んだシステムである。それと同時に、あるいはそうであるが故に、言語は表向きには、この「わけつつ結ぶ」動きを”自在に”遊ばせることができてしまうという事実を、覆い隠そうとする傾向を示そうともする。

言語のシステムに限らず、生命のシステムも、物質のシステムも、全てが全てと自由自在に繋がったり離れたりするようにはできていない。自分とその外部環境とを区切り分節しようとする「システム」は、いずれもシステム自体を安定的に維持し続けようとする傾向を持つ。

言語の意味分節システムは、そもそも発生の相をその深層に宿している。そこには自在な区別(分けること)が発生し、自在な置き換え(同じとおくこと)が蠢いては意味の種となる4項関係である。これを発生させるのが他でもない「分化」と「結合」の動き(わけるとむすぶ)である。

○ - △
| × |
◎ - ■

言語の意味分節システムはまさに理論物理学と生命科学と情報科学がその対象とする領域と全く同じように、「わけつつ結ぶ」動きが自在に踊り狂うフィールドである。

例えば、『ピダハン』の著者ダニエル・L・エヴェレット氏『言語の起源』に次のような一節がある。

「必要なのは複数の認知的作業にわたる再帰的思考の遺伝子であって、再帰的統辞のための遺伝子などあり得ないということだ。再帰は思考の特性であって、言語そのものの特性ではない。」(ダニエル・L・エヴェレット『言語の起源』p.61)

ここで「再帰」というのは、その字の通り「再び帰ってくる」ことである。何がどこに帰ってくるのかといえば、ある動きが(コンピュータ用語風にいえば処理が)その前のすでに動いている動き(以前に行われた処理)に立ち帰ること、言及すること、つながること、結びつくことである。

それがどうしたと思われるかもしれないが、ここにもまた、二つの互いに区別される事柄(動きが作り出す影のパターンのようなもの)が、互いに異なったまま結ばれるという「付かず離れず」の○-○と○-○のペア、4項関係が動いている。

エヴェレット氏が挙げる次の例を見てみよう。

「 私がジャングルを歩いていて枝や根が目に入った時、よく見ていなかったら蛇じゃないかと思って飛び退くことがある。 この異なるもの同士の誤った関連付けが、後に、その誤った印象を生んだものを、誤って関連付けられた対象を表しているとして意図的に使うことにつながる。 つまり、木の根を描いて蛇の意味したり、「根」と言う単語を使って「蛇」を意味したりすることができる。この類似に基づく表象の使い方は、さらに進化して類似が消えるほどになり、意図的な使い方から、意図された恣意的なシンボルへと進むこともありうる。そうなると、描かれたものは類像から象徴に変化する。(ダニエル・L・エヴェレット『言語の起源p.156)」

ここでいう枝や根や蛇というのは意味分節システムの中の一項としての語としてではなく(意味分節システムの中の一項としての語なのだけれども、その話は置いておいて)、実際に目に見えたり手に触れたりすることができる「あれ」のことだと素直に読んでみたい。人間でなくても、犬や猫や鳥たちにとっての環境にも転がっている枝や根や蛇である。

ここで枝と根と蛇が「別々のもの」であることは、落ち着いてよく見れば分かる(まさに文字通り分かる=分けられる=識別できる=分別できる)ことである。枝はニョロニョロと這い出さないし、噛み付いたりもしない。

しかしこの別々であるものが「よく見ていない」状態の意識にとっては、「同じようなもの」に見える。この同じように見えてしまうことは、自然界に転がっているモノの側から見れば(つまり蛇自身や枝自身に即してみれば)勘違い、間違い、エラー、誤り、である。

しかし、まじまじと眺めたり、手にとって引っ張り回したりしなくても、そういうことをする前に視界のすみにぼんやりと捉えられた時点で細長くうねった不分明な何かを「蛇!(かもしれない、違うかもしれないが、違わないかもしれない。間違っているかもしれないが、とりあえず「蛇だということに仮にしておいて」逃げましょう)」と蛇と非-蛇の中間的な何かとして保持できることが、咄嗟に歩みを止めたり、身を翻したりする動作につながる。

このように「どちらでもありうる=異なるかもしれないがとりあえず同じとする」こと、即ち分けながらもつなぐことが、Aを非Aで象徴するということを可能にし、そこからいわゆる言語の意味分節システムが発生していく、というのである。

「パースの著述にある「無限の記号過程」という語句は、人間が言語用に使えるシンボルの数に限界はないということを意味し、それは記号が多重機能的であるという見方に基づいている。それぞれの記号は解釈項を定めるが、解釈項もやはり記号で、すべての記号が第二の記号を表している。これは一種の概念的再帰、概念の中の概念であり、人間のコミュニケーションに向かう大きな一歩となる。それはつまり、記号の列は必ず別の記号の列を含むということだ。(ダニエル・L・エヴェレット『言語の起源』p.160)

上に引用した一節でパースを引いて言及されていることは、象徴の発生の根底に動いている分けながらもつなぐ動きのことであると言うことができそうだ。


日常の言語は、意味が固定した記号からなる信号体系という顔をしているが、この信号体系が信号体系として発生し構造化されてく「システムの自己組織化」のプロセスにおいては、実は「分けながらもつなぐ」動きがその原動力になっているのである。

表層の固まった言葉を丁寧に剥がしつつ、その中で蠢いている「分けながらもつなぐ」動きを言語で持って思考することを可能にするには、そのための特別な手術道具のような言葉を開発しなければならないのだろう。

その言葉は中沢新一氏が「ロゴス的論理とレンマ的論理のハイブリッド」とよぶような、コノテーションとしての性格を前面に押し出した言葉になる。

そして、そういう日常のリアリティの安定性を支えるデノテーションの言葉ではなく、コノテーションの言葉にも生息することを許すコミュニケーションの場が必要だ。

大昔であれば、昼間の日常の道具的な言葉遣いの世界から分離された、特別な夜にだけ許された神話を語る時間のようなもの。

言葉は、コミュニケーションを可能にする場に宿る。

声なのか、神話の語りなのか、手書き文字とそれを写本し声に出して読み上げる組織なのか、印刷技術に基づく同一の活字の大量生産と一方通行的大量輸送のメディア・コミュニケーション技術なのか、はたまたインターネットにスマホにSNSなのか

思考のための言葉の姿を構想するためには、言葉が発生し生息し、退化即進化し、そして消滅し、また発生する、そういうコミュニケーションの場を作らなければならず、そこには人類による意図的なコミュニケーション技術の設計も小さくないインパクトを与えるのである

続く

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