カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』に垣間見える"事事無礙"な深層意味論の世界
カルロ・ロヴェッリ氏による『世界は「関係」でできている』を引き続き読む。
前回の記事はこちら↓
(前回を読まずとも、今回だけでも面白いと思います)
『世界は「関係」でできている』の一冊を通じてロヴェッリ氏が読者に伝えようとしていることは、次の一節に凝縮されている。
この世界は、物理学の最も基礎的なレベルにおいて、 相互補完的な情報の網なのだ。[…] 宇宙は相互作用であり、生命は相対情報を組織する。私たちは、関係の網に縫い取られた繊細で複雑な模様であって、現在わかっている限りでは、その網が現実を構成している。(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』p.185)
相互補完的な情報の網とは、どいうことだろうか?
ロヴェッリ氏は、「相互作用」としての「宇宙」もまた相互補完的な情報の網であり、生命もまた情報の網であり、わたしたちが「現実」と呼んだり書いたりすることもまたそういう情報の網である、という。
宇宙、生命、人間の心、あるいは言語。それらがすべて「情報の網」である。
情報の網というのは、この本のキータームである「関係」と不可分一体である。
すなわち、関係するということが、情報の網を編んでいくということに他ならない。どういうことか、精読してみよう。
まず、下記の一節である。鍵になるのは「記述」というコトバである。
「いま仮にこの世界が関係から成り立っているとすると、外からの記述はどこにもないことになる。この世界の記述は、結局のところすべて内側からのもので、あらゆる記述が一人称なのだ。[…] (カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』p.180)
ここにある「記述」ということ、「記述する」ということは、これ即ち関係を関係づけるということである。
上に引用した一文に続けてロヴェッリ氏は「外側」と「内側」の関係について説く。
私たちが事物の全体を思い描く際には、自分は宇宙の外にいて、そこから対象を眺めているところを想像する。ところが事物の総体には「外側」がない。外側からの視点は、存在しない視点なのだ。この世界の記述は全て内側からのもので、外側から観察される世界は存在せず、そこには内側から見たこの世界の姿、互いを映し合う部分的な眺めしかない。この世界とは相互に反射し合う景色のことなのだ。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』pp.180-181)
そしてこの関係づけるということは、もともと別々に孤立して存在していた二つ以上のものを、後からペタリとくっつけましたということではない。そうではなくて、この関係づけるー記述するといった動きが動くことによって、その動きの痕跡や影のようなものとして、互いに関係する二つの項(対立関係にある二項)が二次的に事後的に発生する。
関係を関係づけるとは、二つのものを一つにつけるコトに”見える”のだけれども(もともと別々にある二つのものがつながったという具合に「観察」されるのだけれども)、それは同時に”もともと”分かれていない=未分=無分節の「一」を(というか「不二」を)、二つに切り分ける=分節する=区別するコトでもある。
ここでいう関係とは、分けつつつなぎ=つなぎつつ分けるコトであると言い換えられる。
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ロヴェッリ氏が上に引用したところで書かれている「内側」と「外側」もまた、このような、わけつつつなぎ=つなぎつつ分けることとしての関係にある二つの項である。
ここでいう関係は、枠だか殻だかに囲まれ包まれた「内側」がそれ自体としてまずあって、それが後から二次的におまけ的に、何かの「外」と接触したり離れたりするのでは全くない。
二項対立関係をなす二項は、分かれつつつながりつながりつつ分かれ、二つでありながら一つであり一つでありながら二つである。このような言い方は矛盾していると思われるかもしれないが、これで良いのである。こういう具合でしか言語化できないのである。なぜなら言語は分節システム=分ける技術であって、この分ける技術でもって分けられる前のことを分けようというのであるから、こういう言い方にならざるを得ない。
このことを論じるためにロヴェッリ氏はナーガルジュナ(龍樹)の『中論』を参照し、レンマの論理が開く観察ー記述の可能性に注目する。
「ナーガルジュナに倣っていえば、構造は対象に先立つのではなく、対象に対象に先立たないわけでもない。先立つかつ先立たないわけではなく、最後に、どちらでも無いわけでもない。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』p.154)
そして現代物理学の鍵である「観察」という概念を、まさにこのようなわけつつつなぐ関係を関係づけることとして解いていくのである。そこで「観察」や「主観」や「観察者」といったコトバは、心と物の二項対立の一方としての「心」の内部に属する事柄や出来事ではなくなるし、主観と客観の二項対立の一方でもなくなるし、内部と外部の二項対立の一方に属するものでもなくなる。
わたしたちは関係を基盤とする視点に立つことで、主観/客観、物質/精神の二元論からも、実在/思考や脳/意識の二項対立を克服することはできないと言う主張からも、遠ざかる。(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』p.187)
冒頭に引用した一節に続いてロヴェッリ氏は、わたしたち人間に馴染み深い風景の描写を、「関係」の激流に渦巻く無数の渦のようなものたちが織りなす構造へと変換する。
「 遠くから森を眺めると、深緑のビロードが目に入る。近づいていくと、そのビロードがばらけて、未来や枝や葉になる。未来の表皮、苔、虫などなど複雑そのものだ。 テントウムシの一つ一つの目には非常に精巧な細胞の構造があって、それらがニューロンにつながり、テントウムシを導いて生き延びさせる。 一つ一つの細胞は都市であり、すべてのタンパク質は原子が集まる城である。そしてそれぞれの原子核の中では量子力学の地獄絵が展開し、量子場が励起して、クォークやグルオンが渦巻いている。私たちが見ているのは小さな惑星の上のちっぽけな森で、その惑星は小さな恒星の周りを回り、その恒星は1000億もの恒星からなる銀河に属していて、銀河が何兆個もある宇宙には、途方もない数の出来事が散りばめられている。宇宙のあらゆる片隅に、目も眩むような膨大な現実の階層構造が見出される。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』p.185)
見出される階層構造。例えば惑星のようなものが、恒星系に属し、恒星系は銀河に属する、といったことを私たちは見出す。ここで「見出す」という言葉が重要である。階層構造は、端的にそれ自体として「ある」訳ではなく、見出すという動き=関係を関係づける動きを通じて識別判別分節される。
「わたしたちはこれらの階層に規則性を見出すことができ、自分たちにとって意味のある情報を集めて、それなりに矛盾のない各階層の像を描いてきた。一つ一つの像は似姿であって、現実が層に分かれているわけではない。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』pp.185-186)
矛盾のない像として構築された各階層の「規則性」は、実はなんと「意味」である。意味、即ち意味分節である。ロヴェッリ氏はこの規則性を見出すこと、情報を集めること、像を描くことを、「関わり方」「相互作用」と言い換える。その関わりとは特に「わたしたちが意識と呼んでいる脳内の物理的な出来事の動的配位の中での関わり方」と言い換えられる。
この「関わり」はまさに分節すること、付かず離れずの関係を関係づけることであり、そういう「すること」と別にあらかじめ「分かれている」何かが分けることに先行して実在しているワケでは無い。
この階層を分ける記述、観察、関係づけの話は、西垣通氏の「階層的自立コミュニケーション・システム」の概念と合わせて読むと、おもしろいかもしれない。
西垣氏の『新 基礎情報学』ではオートポイエシス・システム論の先行研究としてヴァレラとマトゥラーナも登場する。ここでシステムの「内部」と「外部」の二項対立、システムが「閉じている」と「開いている」の二項対立、この内外開閉、対立する二項のどちら側に立って論を立てるか(あるいはどちらにも立たないで議論を立てるか)が大問題であることが指摘されている。
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以上のようなロヴェッリ氏の議論は、深層意味論に重なっている。ロヴェッリ氏は『世界は「関係」でできている』の166ページに「「意味」とは何を意味しているのか」という節を立てて、意味について論じてくれている。
”客観的で物質的な物理の話に、なぜ主観的で精神的な領域に属する「意味」などという言葉が登場するのか?”
などと驚かれるかもしれないが、驚く必要はない。ここまでで読んできたように、客観と主観の区別、物質と精神の区別は、分けつつつなぐ関係を関係づける動きとしての「観察」の産物なのであった。そしてそして「意味」はまさにこの「観察」という関係を関係づける働きに関わるのである。
「意味とは、妥当な相対情報なのだ。[…]つまりそれは(内側の)何かと(一般には外側の)別の何かとのつながりなのだ。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』p.173)
内側と外側、という記述は読み飛ばすことにして、何かと別の何かのつながりが意味である、というところに注目しよう。この「つながり」について、ロヴェッリ氏はさらに次のように書く。
「意味は、何かと別の何かを結びつける。それは、生物学的な役割を果たす物理的なつながりであって、だからこそ、自然の要素は別の何かの妥当な記号になり得る。[…]量子力学によって、物理世界そのものが相関、つまり相対情報の網であることが明らかになった。[…]意味や志向性は、至る所に存在する相関の特別な例でしかない。わたしたちの心的生活における意味の世界と物理世界は繋がっている。ともに、関係なのだ。」(カルロ・ロヴェッリ『世界は「関係」でできている』p.175)
何かと何かを分けつつ繋げること、何かをそれとは異なる別の何かに置き換えること。この二つの事柄を、異なりながらも同じものとして置き換えることこそが「意味する」ということである。これは深層意味論の秘伝のエッセンスである。
(この辺りの話については、下記の記事に詳しく書いているので、お時間のある時にご参考になさってください。)
しかもこの”置き換えること”としての”意味するということ”は、相互に関係し合う量子の世界から、生を死から区別し続けようとするプロセスである生命へ、そして生命にとっての「記号」(即ち、意味するという関係によって別の何かのシンボル(象徴)へと置き換えられ得ることになった、ある何か)のシステムへ、さらには人間の言語的意味分節システムへと「関係」としての「世界」の全てに通底する名付け難い出来事を呼ぶ、一つの仮名になる。
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小括
すべては関係している。
この関係は、区別のない均質な「一」ではない。関係は、分けつつつなげ、つなげつつ分ける。つまりそこには無数の区別と差異がある。ただしその互いに他と区別される関係の項=網の結び目を、それ自体として孤独に孤立して自存する本質を持った「実体」とは考えないという話なのである。実体的な本質はないけれども存在する。
こうしたことを記述する言葉の可能性を探る上で、やはり井筒俊彦氏の深層意味論をさらに深く読み解いてみたいと思うのである。
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例えば、下記に書いた「事事無礙・理理無礙」の話などはロヴェッリ氏の思考を引き継いでいくための強力な手がかりになるだろう。
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