意識は比喩である ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む
ジュリアン ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む。
『神々の沈黙』というタイトルからして「神様」について論じる本かな?と思うのだけれども、中身を読んでみるとこれはわれわれ人類の「意識」をメインテーマとする本である。
英語のタイトルは"The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind"ということで、意識の起源、意識のはじまりである。
なるほど、意識!
といったところで、それでは「意識」とは何だろうか??
意識の「はじまり」というけれども、いつ、どこで、どう始まったのか??はじまるということは、もともと無かったところに、意識が発生し、意識が「ある」ようになった、ということである。
では意識が無かった状態から、意識があるようになった状態への切り替え、移行、転換は、いつどこで生じたのだろうか?? そもそも人類に「意識がない」というのはどういうことだろうか?? 動物たちにも「意識がある」ように見えるのに、人類に意識がないというのはどういう状態のことなのだろうか??
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これらの疑問について『神々の沈黙』はどのように答えるのだろうか?
意識について問う ー私たちの意識が意識について問おうとしている
まず最初の問題。「意識」とは何だろうかと問いつつ読み始めてみよう。
実は「意識とは何か?」という問いに対する「正解」は決まっていない。
正解というのは問いの立て方次第で変わる。意識とは何かという問いに答えようと思うならば、「意識とは何か」と「問い」「答える」ことが、一体何をどうしようということなのかを反省しないといけない。ここでジェインズ氏は次のように書く。
「何世紀にもわたって人々は考察と実験を重ね、時代によって「精神」と「物質」、「主体」と「客体」、「魂」と「体」などと呼ばれた二つの想像上の存在を結びつけようと試み、意識の流れや状態、内容にかかわる果てしない論考を行ない、様々な用語を区別してきた。(『神々の沈黙』p.10)
「精神と物質」のような哲学的な二項対立を、ジェインズ氏は「二つの想像上の存在」と呼ぶ。
精神と物質ようなペアは、人間が人間にとっての世界の存在を成り立たせている基礎の基礎の一番底のことを、言葉でもって考えようとする時に、他のさまざまな概念の二項対立が究極そこに煎じ詰められていく二項の関係である。
そしてこの究極の二項の間の「結びつき」をどう考えようかという場面で、しばしば「意識」という言葉が登場する。
私は、目の前のテーブルの上にりんごが一つ置かれていることを意識する
といった類のことである。
テーブルの上にリンゴがある。これを「物質」としよう。
そして、そのリンゴを眺めつつ「リンゴがある」と言ったり書いたりできる「私」が居る。この「私」が「精神」である。この精神と物質の間の関係を、例えば「精神が物質を意識する」という類の言葉と言葉の関係の中に仮想的に作り出す。
ここでもし実物のリンゴなどないところでリンゴを見ている夢を見ている場合はどうなのか、とか、リンゴだと思ったものが実はプラスチックでできたリンゴの模型だった場合はどうなのかとか、あるいはグローバル化から隔絶された密林で生まれ育ち、リンゴなど一度も見たことがない人が、初めてリンゴの実を見た場合はどうなのか、と言ったケースをどう説明=言語化するのかが問われる。
その問いの答えは、実際のリンゴがどうなっているのかという「物質」に寄せた答えになったり、あるいはリンゴをリンゴだと意識する「精神」の側に寄せた答えを連れてきたり、あるいは感覚器官や脳の神経系の話にして「物質」の中で結論をつけようとしたりする、さまざまな応答を呼び起こす。
言葉を言葉に置き換える
ところで、ここで「問う」という営み、そして「答える」という営みを通じて行われていることは何かといえば、それは問われている何か(についての言葉)を、別の言葉に置き換えることがなされている。
謎の言葉Xは、実は既知の言葉Aなんですよ、とやるのである。
言葉を別の言葉に置き換える場面でも、言葉はいつもペアになっている。
Aは非Aとペアになっており、Xもまた潜在的には非Xとペアになっている。
XをAに置き換えるということは、非Xを非Aに置き換えることでもある。
謎の言葉を別の既知の言葉に置き換えて、謎の言葉の「意味が」「分かった」とするときには、このXと非Xのペアと、Aと非Aのペアが、さらにペアになるという四項関係が発生している。
この意味分節システムを発生させる四項関係ということについては、上の記事にも詳しく書いているのでご参考にどうぞ。
またこの四項関係はジェインズ氏が意識ということを定義する際の核になる原理でもある。詳しくはこちらの記事に書いています。
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さて、ジェインズ氏が書くように、意識についての言葉たちも、「様々な用語を区別」する営みの中に、言葉と言葉の区別と置き換えの営みとともにある。
精神と物質、リンゴと私、自覚と無自覚、感覚とイメージ、意識と無意識…
などなど、ある用語と用語の区別=ペアを、意識とそれと対になる言葉との区別=ペアと重ね合わせたり直交させたりしながら、意識という言葉(とそれに対立する言葉のペア)を、他の何かの言葉と言葉のペアへと連鎖的に置き換えていく。
意識とは何で「ない」か ー意識という言葉を置き換えることができない言葉とは
ジェインズ氏は次のように書いている。
「私たちは意識とは何かを規定することから新たに始める必要がある。[…]あるものの正体を明かす手がかりすら得られない時、それが何でないかを問うことから始めるのは賢明なやり方だ。」(『神々の沈黙』p.13)
「意識とは、みなさんご存知の通りのWのことだったんですよ。」という類の答えはまだない。意識とは何かについて、どこかを探すと出来合いの答え(それ以上先に言い換える必要がない最終的な言い換え先の言葉)が転がって、それに言い換えておけばOK、というものがあるわけではない。
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私たちは、意識とは○○である(意識とは●●でない)、という具合に、意識と意識でない何かのペアを、○○と●●のペアに置き換え、そしてどこかで「もうこれ以上置き換えなくても分かっちゃった(ような気がする)わ」という○○と●●のペアに辿り着いたところで、そこで言葉の置き換えをやめて「分かりました」というのである。
ジェインズ氏は意識とは何かについて、新たな「規定」、新たな意識とは「Zである」と言い換える先の「Z」を作り出そうしている。
ここで意識と意識でない何かを、何と何のペアに置き換えるかで、いくつかのパターンがあり得る。ジェインズ氏はそのパターンを8つに整理する。
1)意識を物質(の属性)に置き換える。
2)意識を原形質(物質から発生した瞬間の精神の芽のようなもの)の属性に置き換える。
3)意識を学習(観察可能な身体行動)に置き換える。
4)意識を「形而上の付与物」ということに置く。
5)意識を「無力な傍観者」ということにする。
6)意識を創発的に進化するシステムに置き換える。
7)意識など存在しないとする(問う必要がないものに置き換える)
8)意識とは「網様体賦活系」である。 →ジェインズ氏はこの立場に興味ありという。
ジェインズ氏は、1)から7)の置き換えではなく、8)の置き換えで、意識という言葉を説明する(=別の言葉に置き換える)つもりであるという。
この辺りの詳細は『神々の沈黙』の序章に書かれていますのでご参考にどうぞ。
この1)から8)を並べていく序章を読んで思い出したのはヤン・プランパー著『感情史の始まり』である。
『感情史の始まり』は「意識」遠からず近からずの「感情」をめぐる研究史・言説の歴史を紐解いていく。そこにはまさに用語と用語のペアの置き換え方を変えていく、科学の歴史が浮かび上がってくる。
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ところで、誤解されることがあるので念の為書いておきますと、哲学はもちろん、科学の概念が用語と用語のペア同士の置き換え方(組み合わせ方)の問題であるというのは、間違っても「そうだからダメだ」ということではありません。
用語と用語のペア、象徴と象徴のペアを、さまざまに作り出し、互いに重ね合わせることができること、これこそが人類の思考の根底にある「喩の力」(それこそ精神)の真骨頂なのです。
人類史においてしばしばマズイことになったのは、特定の語と語のペアを不変不動のものとおき、他の諸々のペアを全てそこに置き換えて回収してしまおうとする置き換え先の「単一化」+「硬直化」です。
ペアになる二項を区別分化分節する動きも、発生したペア同士をペアにする動きも、いずれも静的な動かない「もの」ではなくて、常に動き続ける「こと」であり、それはコードを発生させつつも、同時にコード化されることから逃れようとする、コードを作りつつ壊しつつ、また新たに作りつつ壊す、両義的な動きなのです。
「科学」の営みも、異なる学説同士の間でケンカし続けているように見えるかもしれませんが、これは決して科学の欠点ではないのです。
むしろ、概念と概念のペアの区切り方と、その置き換え方(組み合わせ方)を変えていくことで、新たな「仮説」を生み出し、その仮説を検証しつつ、さらに概念と概念のペアの区切り方とその置き換え方を変えていくことこそが科学の真骨頂なのです。逆に、ある特定の概念と概念のペアに置き換えることで「これが最終的な正解です(これ以上他の置き換えはありえません!これ以上置き換えてはいけません)」とやってしまうのは、信念であって、「科学」とは区別されることなのです。
意識の神経基質 網様体賦活系
最初にあげた問題に戻ろう。
「意識」とは何だろうか?
科学の対象としての意識である限り、それは意識ということについてどのような仮説を立てるか(どのような概念と概念のペアの置き換え関係を試すか)の問題である。ジェインズ氏は、彼自身の「意識」についての最初の仮説を次のように提示する。
「意識の神経基質の有力候補に上がっているのは[…]小さな介在ニューロンが網状に絡まってできており、脳幹にありながら長く見出されることのなかった「網様体」と呼ばれる部位だ。」(『神々の沈黙』p.28)
すなわちこれがジェインズ私による「意識とはなにか?」という問いに対する最初の仮の置き換えである。
「網様体」が意識の神経基質であるということは、この「網様体」こそが、ジェインズ氏が「意識」という言葉で記述しようとしている人間の行動や発言と、意識という言葉で記述できない行動や発言との違いを引き起こすということである。
では「網様体」は私たちの脳の中でどういう役割を演じているのだろうか?
「網様体は脊髄の上端から脳幹を経由して視床と視床下部へとつながり、そこへ感覚神経と運動神経の側枝が集まってきている。[…]網様体は大脳皮質の主要な部位数カ所や、脳幹のおそらくすべての神経核につながる直接の命令伝達経路を持つ一方、脊髄へと繊維束を伸ばして抹消感覚系や運動系に影響を与える。網様体の機能は、特定の神経系を選んで感作(すなわち「覚醒」)させたり、同時に別の神経回路を脱感作させたりすることだ。[…]網様体は全身麻酔のときにニューロンの活動を止め、体を眠りに入らせる部位だ。ここを切断すると持続した眠りと昏睡状態が始まる。(『神々の沈黙』p.28)
この脳の神経系の様々な部分とつながり、選択的に特定の系をオンオフさせる働きから、ジェインズ氏がいうところの「意識がある」と記述しうる人間の行動や言葉がでてくる。
意識は何でないか
では、網様体の働きの上に生じる「意識」と言い換えうる働きとは、どういう事柄なのだろうか。
ジェインズ氏は「意識は何でないか」を列挙しながら、意識ということを分節化していく。
1)意識は反応(広範な反応)ではない。「意識が心の営みに占める割合は、私たちが意識しているよりはるかに小さ」く、私たちは意識せずにいろいろなことをやってのけている(『神々の沈黙』p.34)。
2)「意識は経験の複写ではない」(『神々の沈黙』p.39)。「意識的な記憶」は経験すなわち「感覚器官が得た心象の蓄積ではない」(『神々の沈黙』p.40)。私たちが意識していると思っていることは「実際の経験そのものの様子ではなく、こうであったはずだと想定した(物語化した)経験の様子が大部分を占めている」という(『神々の沈黙』p.42)。
3)「意識は概念に必要ではない」(『神々の沈黙』p.42)。「概念とは、行動的に見て同価値の事物の分類に他ならない」のであり、「同じだ」「似ている」と分類してまとめることができるのは意識とは別のもっと動物的な記憶と感覚を結びつけて生き延びようとする能力である(『神々の沈黙』p.43)。
4)「意識は学習に必要ではない」(『神々の沈黙』p.44)。学習は「習うより慣れろ」の世界である。タイピングや、自転車に乗ること、スキーで滑ること、鍬で畑を耕すことなど、意識したからといって上手になるわけではない。学習とは変化する環境の中で型を反復しつつ修正していくことである。
5)「意識は思考に必要ではない」(『神々の沈黙』p.50)。思考するということと、意識するということは、しばしばほとんど同じようなことに思われているが、それは違うというのである。思考すると意識するという言葉は相互に交換可能なもののように使われているが、ジェインズ氏はそうはしないという。
「思考において重要なのは教示だ。この教示がきっかけで、すべてが自動的に進みだしうる。これを教示(インストラクション)と、構築(コンストラクション)の両方の意味をこめて、<ストラクション>と呼ぶことにしよう。[…]私の「考え」なるものは[…]連想によって結びつけられ、未知の大洋から私の意識の浜辺に打ち寄せられた一群の心象に他ならない」(『神々の沈黙』p.53)
考え=思考というのは、”意識している私”にとっては不意に向こうから訪れる、「打ち寄せられ」る何かである。
これはあれなんじゃないか、それはこれなんじゃないか、といった「考え=思考」は連想による。
この連想、何を何とつなぐかは、もちろん意識してつなぐこともできるけれども、意識するしないにかかわらず、不意に、これはあれだなあ、と勝手に繋がっていくものである。「愛は薔薇のようだ」というような詩の言葉に触れたときに、なんとも言われぬ「深さ」というか「アハ体験」を感じるのもこの連想であると言えそうだ。
これについてはさらに次のようにも書かれている。
「発話の場合にも[…]私たちは単語を探し、その単語で句を作り、その句で文を作ると言ったことに実際は意識を働かせていない。[…]自動的に話が生み出されていく。(『神々の沈黙』pp.54-55)
不慣れな外国語の文章を書く場合など、必死に意識を働かせながら、どうしようどうしよう、この言葉の後にどの言葉を置いたらいいのだろう、もし下手な言葉を置いたら試験に落ちる、人に笑われる、困った困った、とやることになるのだけれども、親しい人を相手に母国語をスラスラ喋っている時には必ずしもそいうことはない。
発話も、言葉もまた、意識していなくても勝手にでてくるのである。
そして勝手に言葉がつながっていってしまうからこそ、しばしば、言った後に改めて意識して「しまった!大変なことを言ってしまった!」となる。
そして次もこれと関連する。
6)「意識は理性に必要ではない」(『神々の沈黙』p.55)。「私たちが論理を必要とするのは、推論の大半はまったく意識されていない、まさにそのため」であるとジェインズ氏は書く(『神々の沈黙』p.56)。
私たちは平気で矛盾したこと、非合理的なことを言ったり考えたりできてしまうのである。
矛盾がないように過去の発言を振り返りつつ精密に話していくには通常の意識を超えて、大変な労力をかける必要がある。
7)意識のありかは必ずしも「頭の中」ではない。「体外離脱」の経験にあるように、意識のありかは「恣意的な問題」である(『神々の沈黙』p.61)。
この「体外離脱」と「意識の在り処」というテーマについては次回詳しく取り上げます。
ジェインズ氏の定義する意識とは、「比喩」である
以上、意識が何でないか、わかり始めたところで、いよいよ意識とはどういうことか、という話になる。ジェインズ氏は次のように書く。
「意識が何かするという概念すら比喩だ」(『神々の沈黙』p.70)
比喩?!
いきなり「比喩」と来ると狐につままれたような感じがするかもしれないが大丈夫である。
比喩というのは難しいことではなく、私たちが普段よくやるように何かを何かに喩えるということである。
一瞬何が起こったのかよくわからない状況を「狐につままれる」と喩えてみることで、「なんだかそれっぽい感じ」で分かったような気持ちになる。
ちなみに狐につままれるという比喩のおもしろさは、ほとんどの人は実際に狐につままれたことはなく、せっかく置き換えて言い換えたのに、結局まだよくわからないままでありつつも、しかしわかるようなわからないような感じになるところにあるように思う。
これがいいのである。
「私たちは意識を理解しようと試みている。しかし、何であろうとそれを理解しようとするとき、私たちは本当は何をしているのだろうか。私たちは何かを理解しようとするとき、わけのわからぬものを説明しようとする子供のように、その「何か」の比喩を探しているのだ。比喩ならなんでも良いというわけではない。自分にとって馴染み深く、注意を向けやすいものでなければならない。何かを理解するというのは、より馴染みのあるものに言い換え、ある比喩に辿り着くことだ。つまり馴染み深さが、理解したという気持ちに通じる。(『神々の沈黙』pp.67-69)
謎の何かを「理解する」ということは、謎を馴染みのあるののに置き換えること、謎を馴染みのある何かで「喩える」ことで、難しいことを言っているけどこれは結局あれだよ、とやることである。
これはとても重要なことである。
ここで喩える、置き換える、ということは、上に書いた対立関係にあるペアとペアを「置き換える」の置き換えると全く同じことである。
謎Xを親しい既知Aに喩えることは、謎Xを、既知Aを包み込むAと対立関係・置き換え可能な関係にある他の言葉たちとのWeb状のネットワークの中に、Xを引っ張り込み結んでしまうということである。
ジェインズ氏は「科学の概念」もまた、「具体的な比喩から生まれた抽象的な概念」であると書く(『神々の沈黙』p.66)。
そして科学の概念の一つである「意識」の概念もまた「比喩」であるというところに戻ってくるわけである。
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そしてこの比喩が具現化する場が、他でもない「言語」なのである。
「言語の最も興味深い属性は、比喩を生み出す能力だ」とジェインズ氏は書く(『神々の沈黙』p.63)。
ここでジェインズ氏の意識への問いが、私が個人的に愛読してやまない深層意味論の話と繋がるのである。
例えば下記の記事にこの辺りに関することを書いていますのでご参考にどうぞ。
比喩、置き換え、言語、憑依。
これらは異なる二つの事柄を、互いに異なりつつも同じこととして置くということである。違うのに同じ。二つなのに一つ。
1+1=1
という具合である。
ジェインズ氏は次のように書いている。
「具体的な比喩は、私たちを取り巻く世界を知覚し、理解する力を著しく増強し、文字通り新たな事物を生み出す。実際、言語は知覚器官であり、単なる伝達手段に止まらない。」(『神々の沈黙』p.65)
複雑で多様に変化する周囲の世界を、私たちはもともと知っている何かの名前やその動き方の名称に「喩える」ことで、「わかる=分ける=分節する=理解する」ことができる。
そうして目の前の変転する多様な蠢きに慄くことなく、ざっくりバッサリと行動できるようになる。
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この喩え方を変えていくこともできるということが、私たちの言語の創造的な力である。
そしてこの比喩こそが、「たんに意識を記述するのではなく生むのだ」とジェインズ氏は書く。
比喩が意識を生む。
意識とは、比喩である。
意識とは、言語を用いて比喩を生み出すことである。
ジェインズ氏は「意識はともかく詩的にできている」とも書いている(『神々の沈黙』p.77)。
長くなってしまったので、この意識は比喩であるという話は次回に続きます。
>続き
最初に提示したままの二つの問題も引き続き解き明かしていきます。
意識の「はじまり」は、いつ、どこで、どう始まったのか??
人類全体に「意識がない」というのはどういうことだろうか?
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ジェインズ氏の『神々の沈黙』はこの後に続く「二分心」の話、即ち紀元前2000年ごろまで人類は右脳が発生させる幻聴に命じられて行動していた(この命じる声が「神々」の声であり、命じられる左脳は「主観的な意識(意識と称される比喩システム)」を持っていなかった)という話のインパクトがあまりに鮮烈であり、そこばかり読みたくなってしまうのですが、実は今回ご紹介した冒頭のくだりが深層意味論的におもしろいのであります。