「万物はそれぞれに自分自身を描いた画なのだ」ー岩田慶治『アニミズム時代』を読む
岩田慶治氏の『アニミズム時代』を読んでいる。
岩田慶治氏は文化人類学者であり、この『アニミズム時代』も岩田氏ご自身が調査した東南アジアの稲作農耕民族のアニミズム的な信仰や儀式のお話である。
天と地を媒介する儀式
『アニミズム時代』の最初の方に「魂のトポロジー」という節がある。
そこでは「凧揚げ」「竜船競漕」「産髪」を残すこと、根を切った竹や樹木などを空に向けて立てることなどなど、いずれも、天と地を上下に分離しつつ結びつけ、自分たちの文化の世界とそれとは異なる遠方の世界を分離しつつ結びつける媒介物を用いた儀式の話が登場する。
媒介物は上下に、左右に、こちらからあちら、あちらからこちらに動く。
動くことで媒介物は天と地、野生と文化、生者の世界と死者の世界を区別しつつも結びつける。
そうした媒介物にのって、媒介物を通って、区別される二つの世界の間を行ったり来たりするモノが「魂」である。
天と地、人間の世界と異世界、その二つの世界の区別を立てたところから考えると、魂は、人間の世界に、その「外」から訪れるものだということになる。さらに魂は、人間の世界を離れ、再びその「外」へと帰っていくものでもある。
「人はいつか死ぬ。しかし、魂は死なない」p.57
死ぬ 対 死なない
人 対 魂
という対立関係の重ね合わせが、この信仰、儀式の場をつくりあげている。
「魂は天地のあいだを去来し、天に住むかと思うと人間の体内に宿るという二様のかたちをとる」p.58
天 (←魂→) 地=人間
ここに「魂」を第三項とする二項対立プラス一の、三項関係が出来上がる。この三項関係は動いている。動くことによって、結びつき、関係をなし、三項の各項をそれとして存在させる。
天と地、その間の往来ということを、抽象的には考えない。とても具体的な、生活の風景の中で経験される物事の生起が、そのまま魂が天地のあいだを行ったり来たりすることに重なる。
人が死ぬと、その魂は肉体を離れて山に帰る。魂やしばらく山にとどまった後、山を降りる。そして「山麓の野に赤い花となって咲く。その花を摘んで食べた女性が、花の、したがって祖先の魂を得て妊娠し、出産する。魂があの世とこの世を往復するわけである」(岩田慶治『アニミズム時代』p.58-59)
なんとも「リアル」な、魂の往来である。
「魂」と精霊
ある民族の伝承では、魂が宿るのは人間と、そして「稲」だけである。他にも森羅万象いろいろな生き物や物があるのだが、「魂」が束の間滞在する場所は人間と稲だけである。人間と稲以外の物事に宿るのは魂ではなく「精霊」である。
おもしろいのは、同じ稲でも、陸稲の神は精霊であると観念されることである。人間と同じように魂が宿るのは水田稲作などより手の混んだ文化の中にある稲である。
野生と文化、自然と人間、という両極を立てて考えるなら、水田で育ち、増殖する稲は、山の中の自然の他の植物たちと同列の存在ではなく、より人間の側、人間の文化の側、人間の文化の中の存在ということになる。水田で育てられる水稲は、人間が文化として伝承した知識に基づく技術によって丁寧に繊細に管理されてこそ、大きく増殖することができる。その存在はまるで人間の子ども、人間そのもののようである。
稲は野生動物ではなく、人間の世界の一員、極めて人間的な民俗社会のなかのメンバーなのである。
「人間における生死の輪廻、現世と他界の往来という生命の姿と、稲における生と死、および稲魂の去来とは、たがいに相似形を描いている。その運動、その行為をうながすもの、あるいはそういう動きを含む力の場が−それが人であっても、稲であっても−魂なのである」(岩田慶治『アニミズム時代』p.67)
ちなみに東南アジアのいくつかの民族は「魂」のことを「クワン」「プルン」「スマンガット」と呼ぶという。「魂」という漢字の音読みは「コン」であり、今日の中国語での発音も「hun」(声調は第四声)である。いずれも同系統の音が残っていることが興味深い。日本列島の稲作農耕民も、東南アジアの稲作農耕民も、もともとは中国南部から移住した人々に起源があるというが、関係がありそうである。
「生」と「死」とそれを媒介する「魂」
この三者を結びつけている三つの関係の接続作用のむすび目こそが、あらゆる存在の単位である。
世界の最小単位は小さな丸でもなく小さな点でもなく、三つの線が結び合うところ、三つの力線がバランスを保って結びついている場である。
天と地と両者を区別しつつ結ぶ媒介者。
この三者が区別されつつ結ばれることは、抽象的な事柄ではなく、リアルに体験されることである。天と地と両者を区別しつつ結ぶ媒介者の関係は、いくつかの儀式の中で、現実のものとして実演、実現される。
例えば、ボールのようなものを投げたり蹴り上げたりする儀式。球は地上から空へ上り、空から地上へと落ちてくる。
あるいは綱引きのような両極のバランスを可視化する儀式。右へ左へ、あちらへこちらへ、両方の極がいずれも他方から分離しようとすればするほど、あるいは他方を自分の方へ引き込んで一体化してしまおうと力をかければかけるほど、ますます両者の引き合う力は拮抗し、対立関係が固まっていく。
あるいは、根を切った樹木や竹のようなものを空へと向けて立てたところで、その周りを人が輪になってぐるぐると回ったりする儀式。
天と地、あの世とこの世、生者と死者。
そういった事柄の対立する関係を、区別し、そして同時に分離してしまわないように結び合わせる。二つでありながら一つに、異なりながら同じにする。
そうしたところで、あちらからこちらへ、あちらでありながらこちらである、という具合に移動する力が「魂」なのである。
その力によってこそ、人間の世界は、その外の世界から区別される限りでの人間の世界として生誕する。
と同時に、人間の世界はあくまでもその外の世界から完全に分離することなく、その外の世界とつながり、むすびつき、人界の「外」からパワーというか生命力というか「魂」と呼ばれるものを供給され続けることで、かろうじて無数の死を超えて再生され、存在しうる。
世界をそのように「描く」のは誰か
以上のような、魂が結ぶこの世とあの世、というイメージ。
こうしたイメージについては「それは客観的な現実に対する、ひとつの主観的な”見方”、主観的な"解釈"だ」といった解説がつけられることもある。
人類学もまた科学の一ジャンルとして客観的な世界の存在を大前提としてきた。誰にとっても同じ単一の客観的で自然科学的な現実に存在する世界と、複数の主観的に思い描かれた非現実的な想像の世界とが対立、対峙する。そうして後者の方を人間に特有な「文化」であると考える。
ところが、近年の人類学の「存在論的転回」や「多自然主義」の観点では、上述の考え方がぐるりとひっくりかえる。
奥野克巳氏、石倉敏明氏の編集による『Lexicon 現代人類学』20ページに収められた大村敬一氏の説明によれば、存在論的に転回した人類学は自然と人間の二項対立や、存在論と認識論の二項対立を前提としない。
その上で、多様な人々、多様なアクターそれぞれにとって存在する「多様な世界が生成される物質=記号的な実践の過程」に着目する。そしてこの物質的=記号的実践の過程を「認識論的にではなく」「存在論的に」分析するのである。これについて詳しくはこちらのnoteにまとめているのでよろしければご参考に。
現実に存在する世界は、あくまでも多様な人間や動物や植物やあるいは微生物などにとって確かに現実の世界として存在するものである。
それは単一の自然に対立して「見方」が複数あるという対立図式では無く、端的にある生命、ある生物、ある人々にとって、世界はそのようなものとして存在する、ということである。
存在するという「こと」は、自然科学的な「もの」をはるかに超えている。
客観と主観の対立、人間と自然の対立として描かれる世界もまた、そのようなものとしてあることになった存在、ということである。こうなると主観に対立する自然科学的な客観性の世界を「存在」の正体だとするわけにはいかなくなる。
魂が結ぶこの世とあの世の存在は、ある民族、ある部族、ある個人の解釈でも、ものの見方でもなく、ひとつの現実の存在である。
岩田氏の『アニミズム時代』は1993年の出版である。そこでは近年の存在論的転回、多自然主義の盛り上がりにはるかに先んじて、存在のこうした様が描き出されれている。
世界が、魂が結ぶこの世とあの世から成り立って存在しているものだとして、岩田氏は「最後に、一つだけ」残る問題として「誰がそういう絵を描いたのか」と問う。
そうして次のように応答する。
「いわば創造的に描くのでなければ、人といい、稲といい、魂といっても、それらは所詮、言葉にしか過ぎない。言葉が、パターンが、絵が、あるべきキャンバスの上に載っていない。風が吹けば、パターンがはがれ落ちてしまう。」」(岩田慶治『アニミズム時代』P.79)
人の存在、稲の存在、魂の存在。容易に「はがれ落ちてしまう」単なる言葉であることを超えて、それらが存在するとはどういうことなのだろうか?
岩田氏は続ける。
「もし、ほんとうにその場に参与して描けば、あるいは画中の人、画中の画家になれば、描かれた絵は生動する。絵が、絵ではなく真実の風景になる。」(岩田慶治『アニミズム時代』P.79)
絵が、絵ではなく真実の風景になる。存在するということはそのようにして、描く者によって描かれる事柄であり、そうであるがゆえに「真実」になる。
そして次の一言である。
「万物はそれぞれに自分自身を描いた画なのだ」(岩田慶治『アニミズム時代』P.80)
万物が存在「する」ということは、森羅万象万物それぞれが「自分自身を描く」ということである。
「私はドゥスン族の描いた宇宙はホンモノで、われわれは一挙にそこにたどりついて、そこから考えはじめなければならないといった。かれらの描いた宇宙という一枚の絵のリアリティーから出発する。そしてそこから出発してーしかし、信じたり迷ったりしながらー最後に自分から見るんじゃなくて、描く。そして署名する。魂を入れる。
そうすると[…]絵が完成する。
[…]魂が森羅万象のなかの数多くの画家たち、つまり森羅万象と、自由に交流することになる。そして、魂というコトバから解放されることになる。(岩田慶治『アニミズム時代』P.80)
そして、最後に「見る」のではなく、自分で「描く」。
ー魂”とはなにか”?
ー魂という”コトバの意味”は?
そういった言葉による「問い」は、ここまできて吹き飛んでしまう。
コトバを他のコトバの置き換えてみたり、その置き換えの連鎖をコトバの「外」に「ある」というようにコトバによって表明されたこと、つまりこれまた更に別のコトバではないと称するコトバへと置き換えたりするという、最小単位同士の区別と置き換え操作の連鎖から、存在を解き放つ。
言葉によって、このような言葉の大海が砂浜に染み込んで消える場所を「描く」。この岩田慶治氏の文章に魅せられてやまない。
関連note