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複数の意味分節体系を共-変容させる ー井筒俊彦著「意味分節理論と空海」を読む

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井筒俊彦氏の『意味の深みへ』に「意味分節理論と空海」という論考が収められている。これがとてもおもしろい。

副題に「真言密教の言語哲学的可能性を探る」とある。

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空海というのは弘法大師空海のことである。

空海は言語ということを徹底して考え、その秘密というか、通常の日常の言語の"表向き"の姿の、はるか向こうに隠れている深層を、動態として捉え、その運動展開の法則を記述してしまった偉大な人である。

平安遷都の頃の大昔の人が考えたことが現代に通用するのか? そう思われるかもしれないけれど、空海の言語の理論は現代に通じるどころか、現代がまだそこに到達していない領域にまで達している。

思考の領域では、考えられた時代が古いか新しいかはあまり関係がないのかもしれない。

なぜなら思考が、記号と記号、シンボルとシンボルの組み合わせを生み出す「アルゴリズム」のもっともシンプルな運動パターンを、ホモサピエンスの頭脳がその性能を使って言語のシンボルの組み合わせによる”記述”へと変換することであるとすれば、その論理的思考の潜航深度あるいは上昇高度のみが問題であって、そのサピエンスの頭脳が線形的な暦の上で何年に作動したかは大したことではない。

もちろん、ある人は、その人の行きた時代・地域・文化の中で利用可能な表層の言語のシンボルを使って思考し記述を行うので、その利用可能なシンボルを限定するという点では時代、地域、文化は大きな影響を及ぼす。

しかし何より重要なことは、どういう言葉で考えたか、どういうシンボルを使ったかではなくて、シンボルとシンボルの関係を関係づける動的な構造化プロセスの動き方のパターンをどのようにイメージできたか(曼荼羅とか、太極図とか、世界樹とか)である。

シンボルの関係を構造化する運動の動き方のパターンをどこまで徹底して見極められるかが重要であって、その動的システムの中に実際に放り込まれる個々のシンボルは「なんでも良い」。というと言い過ぎかもしれないが、「なんでも良い」のだと思うことにしておくというのもまた、そういう知性としてありだと思う。

存在はコトバである

ということで、空海という人は、言語をどのように理解したのであろうか。

井筒俊彦氏は空海の言語の捉え方を次のように掴み取る。

「真言密教の言語哲学を、現代的な思惟の次元に移して展開するために、私はそれを意味分節理論的に基礎付けることから始める。[…]先ずコトバに関する真言密教の思想の中核を、「存在はコトバである」という一つの根本命題に還元する。」(『意味の深みへ』p.388) ※以下、引用ページ数は全集から

存在はコトバである、というのがポイントである。

つまり存在するということは、コトバによってそうなっているということである。

存在、私たちが「ある」と思っているもの全ては「コトバ」だというのである。「私」も「あなた」も犬も猫もりんごもみかんも生も死もあれもこれも、全てコトバなのである。

そんなはずはない、と思われるかもしれない。言葉などなくても私は私だし、あの猫はあの猫だし、りんごはりんごだ、と。

こういう「常識」的な感覚のことを井筒俊彦氏は次のように書く。

常識では、存在とコトバとの関係はこんなふうには考えていない。コトバと存在はそれぞれ独立の観念系統をなしているのであって、両者の間にはせいぜい相応関係が成立するに過ぎない。[…]森羅万象、がことどとく、本当はコトバなのであるなどと考えるのは、完全に非常識である。」(p.389)

常識と対立することは非常識である。

このくだりで井筒俊彦氏は常識の立場を代表して空海を批判しているのでは全くない。常識ではそう思われているけれどもしかし…!という話である。井筒俊彦氏はここで自ら書かれている意味での「非常識」の立場から思考する。

「もともと我々の言語意識の表層領域は、いわば社会的に登録ずみの既成のコトバの完全な支配下にある。そして既成のコトバには既成の意味が結びついている。既成の意味によって分節された意識に映る世界が、すなわち我々の「現実」であり[…]」p.401

私たちが「常識」だと思っていることの中核には「現実」と「非現実」の区別・分別がある。常識的な人のことを「分別のある人だ」などということもある。

私たちが日々の暮らしを、本質的には何を考えているかわからない他者たちの間で進行させる上で、常識、現実、言語意識の表層領域に刻みつけられた既成化した分節体系はとても重要な生存のための手段になっている

歩行者用赤信号の下を歩いている人が「私にとって”赤”は前進を意味する!」などと言ってそのまま車道に歩き出てくることはないだろうと信じられるからこそ車など運転できる。

「りんごが欲しい」という人にりんごを渡したら「これは違う!私はオレンジ色で酸味のある中身がフサに分かれた果物のことを"りんご"と呼んでいるのだ」などと叫び出さないと思うから、他人とモノの取引ができる。

既成の意味によって、私たちは謎めいた個々人の深層心理の闇をとりあえず見ないことにして、円滑な社会生活をこなすことができる。

意味分節体系は複数であり、かつ変容する

それはそれである。

今問題になっているのは、この既成の意味を分節する意味分節体系が、数ある意味分節体系の可能性の中の仮設的なひとつなのだということである。

意味分節体系には、唯一の正解というものは、実はない。

意味分節体系は、いくつもありえるし、現にいくつもあり、しかも静的に固まっているわけではなくて、常に動き、その姿を変容し続けている。ひとりの同じ個人においてさえ人生上の人格の形成過程において、現実を現実として意識することを可能にする意味分節体系は変容し続けている。

特に、他者が発する言葉の連鎖の「向こう」に推定することができる他者の意味分節体系と遭遇・邂逅・衝突することによって「わたし」の意味分節体系は、変化していく

「しかし、いったん言語意識の深みに目がひらけて見ると、存在秩序は一変し、世界はまるで違った様相を示し始める。言語意識の深層領域には、既成の意味というようなものは一つもない。時々刻々に新しい世界がそこに開ける。言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きのとれない既成の意味であったものさえ、ここでは概念性の留金を抜かれて浮動状態となり、まるで一瞬一瞬に形を変えるアミーバーのように伸び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとして現れてくる。」(p.401)

意識の深み。そこに「時々刻々に新しい世界が」「開ける」のである。

物事を互いに区別する、分別する、分節操作のパターンは、意識の深層においては「浮動状態」であり、「アミーバーのように」その物事の境界線を変化させる。この一節は『意味の深みへ』を読み解いていく上で、重要なものの一つだろうと思う。

そしてこの分節する境界線が浮動し動き回りつつ、しかしそれでも「分節する」ということ自体は決してやめないというフィールドが、別のnoteでも紹介している中沢新一氏の『レンマ学』の鍵概念である「アーラヤ織なのである。

アーラヤ織は華厳哲学の用語である。

そしてこの井筒俊彦氏の「意味分節理論と空海」が取り上げる空海の真言密教の言語哲学は、華厳のアーラヤ織を含む、分節化する運動それ自体の自己展開プロセスを扱うものであるという。

空海の言語の思想が問う「言語」とは、人間の日常の言語、表層意識の惰性化した分節体系とは次元を異にする言語である。

空海の密教の言語哲学は「悟りの境地を言語化することを可能にする異次元のコトバの働き」を説くものであるという(p.392)。

「悟りの境地を言語化すると言っても、人間が人為的に言語化するというのではないことだ。むしろ、悟りの世界そのものの自己言語化のプロセスとしてのコトバを考えている。」(p.392)

ここに書かれている「悟りの世界そのものの自己言語化のプロセス」というのが鍵である。

表層の惰性化し固着した分節体系が私たちの心に引き起こす「煩悩」のようなものを超えて、私たちが「悟り」の世界に達することができるためには、惰性化し固着した分節体系を、動かし、ときほぐすことが必要である。そして表層の惰性性を解かれた分節体系は、静的な体系としての姿から、動的な分節「化」作用のうごめく姿を呈する。

この分節化作用がいくつも自在に動き回りつつ、いくつものパターンを発生させるプロセスと一体化することが、「悟り」の境地の一つの局面であ流。

区別する動き、分節する動きが、無数に走りつつ、互いに共鳴し、共振し、大きなうねりとなって動的に平衡状態を保った構造(あるいはパターン)を成すようになる。

この無数の分節する動きの相互作用から構造が浮かび上がるプロセスが「悟りの世界そのものの自己言語化のプロセス」である。

ここで言語と呼ばれるのは、日常の常識的な言語のことではなく、分節化しようとする動きが無数に動き回ることである。区別すること、区別を反復すること、区別を反復することである構造を呈すること、その構造同士が共鳴しあい連動しあい、重なり合う。その姿は日常の言語の姿とは大きく異なるものであるけれども、しかし、日常の言語の意味分節体系もまた実はこの分節作用の共鳴の残響のようなものとして出来上がっているのである。

声ならぬ声

人間のアーラヤ織も、人間の日常の惰性化した表層言語も、どれも無数の分節する動きの相互作用から浮かび上がった構造の一種である。

無数の分節する動きが相互作用するフィールドについて、井筒俊彦氏は次のようにも書かれている。

人間の耳にこそ聞こえないけれど、ある不思議な「声」ー声ならぬ声、音なき声ーが虚空を吹き抜け、宇宙を貫流しているのだ」(p.407)

虚空を吹き抜け、宇宙を貫流するのは、自己言語化あるいは自己分節作用それ自体の自己展開のことである。

この分節することそれ自体の自己分節作用が人間の身体が発する音=声に、その手が描き目がみる文字に重なり合うところから人間の言葉が始まる。その後のプロセスは次のような展開を見せる。

「宇宙的「阿字真言」のレベルでは、ア音の発出を機として自己分節の動きを起こした根源語が[…]次第に自己分節を重ね、それとともに、シニフィエに伴われたシニフィアンが数限りなく出現し、それらがあらゆる方向に拡散しつつ、至る所に「響」を起こし、「名」を呼び、「もの」を生み、天地万物を生み出していく。」(pp.419-420)

ア音の発出」というのは、自己分節の動きの最初の一撃である。

分節があるともないともいえないところから、分節が始まる。

「アビラウンケン」のような「真言」を唱えることは、人間が生身の身体をもってして、虚空を吹き抜け宇宙を貫流する自己言語化あるいは自己分節作用それ自体に触れ、響あうことであるという。このあたりのことについては、空海著「声字実相義」に詳しい。

宮坂宥勝氏は『生命の海<空海>』において真言について次のように書かれている。

ことばどおり文字どおりに了解する場合には、それらのことばや文字は記号的道具的な機能をもつにすぎない。いわば、それは自然科学的な記号の世界だと言ったらよいだろう。しかし、われわれの直接体験というか生命的世界、さらには自然の大生命記号的なことばで把握することはできない記号的なことばで把握することができないところを宗教的生命の世界と名づけるとすれば、そうした宗教的生命の世界は深秘な絶対者の世界である。(『生命の海<空海>』p.65)

真言や陀羅尼は言葉であるが、「記号的道具的」な言葉ではない。記号的なことばでは把握できない「深秘な絶対者の世界」が先程の「悟りの世界」であり、その悟りの世界には悟りの世界ならではの超-記号的道具的なコトバが動いている。

普通、ことばや文字は日常的ロゴス的なものである。ロゴス的なことばというのは、約束のうえに成立している記号としての機能を持ったものと理解しておきたいと思う。それに反して絶対者のことばは、非日常的パトス的なものといったらよいであろう。パトス的なことばというのは、直接体験そのものであり、純粋な宗教的真理をさす。(『生命の海<空海>』p.63)

日常の記号的道具的な言葉ではなく、「非日常的」「パトス的」な言葉。それは即ち「虚空を吹き抜け、宇宙を貫流する」分節化する動きそれ自体のことである。

そこで分節は一度では終わらず、繰り返し繰り返し、際限なく生じ続ける。

「自己分節の過程を経て、「耳に聞える」万物の声隣、人間のコトバとなる以前の、絶対無分節態における宇宙的コトバ、「コトバ以前のコトバ」は、[…]あらゆるコトバの究極的源泉であり、従ってまたあらゆる存在者の存在性の根源でなければならない。こういう意味での存在の絶対的根源としてのコトバを、真言密教は、大日如来あるいは法身という形で表象する」。(『意味の深みへ』p.408)

無数の分節が繰り広げられる中、同じような分節が繰り返されるところで、他の分節に比べて相対的に増幅された分節が強度を増し、その振動(響)に他のさまざまな分節を巻き込み、共振させてくる

これが言葉という相対的に安定化した分節体系の始まりであり、言葉とイメージの差異体系とがハイブリッドになった「現実」という分節体系の最初の素材にもなる。

根源の自在な分節する動きが、人間の心という、それ自体が特有の分節システムと反復システムを備えた「身」を通り抜けることで、特有の傾向を持った、あるいは運動のパターンを持った分節システムとなる。

それが『レンマ学』にも出てくる「アーラヤ織」である。

まとめ

「意味」ということは、根源的な分節化の動きの反復の末に浮かび上がった運動の痕跡のパターンとしての「事」あるいは「コトバ」を「組み合わせ、結合し」たところに始まる動的な現象である。

意味は、意味というものがあるのではなくて、「意味する」という動き、出来事、事件である。

そして「意味する」という動きとは、第一に区別すること、分別すること、分節することであり、同時にその上で、区別しながらもその結果として生じた区別が、元々「ひとつ」であったことを混ぜ返し続けるということである。

こうしたコトバ以前のコトバを「聴く」耳を育てていくことが、異なる意味分節体系を携えながら他者と遭遇し続けながら生きる私たちにとって、一つとても大切な営みなのかもしれない。

関連note

意味分節理論について、他のにもいろいろ記事があります。





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