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言い換えを試す余地を無力な個人にも ー読書メモ:『声の文化と文字の文化』と『ピダハン』

ウォルター・J・オング氏の『声の文化と文字の文化』という本がある。

私がこの本を最初に読んだのは大学生の頃だった。当時、電子情報工学系の学部に属していながら、人文系の「メディア」の理論に興味を持ち始めたところだった。

電子情報の技術を開発しようとする場合、通信機と通信機の間で信号を送ることが課題になる。送信側の機械が作り出した「電気」のパターンを、受信側の機械でいかに正確に再現するか、そのための技法を探求するのが仕事である。

ところが私はあろうことか、通信機の「端末」の更に向こうに居て「情報」とひとくくりにされるものを受け取るひとりひとりの人の経験というものに興味を持ってしまった

通信を含むメディア技術を「使う」ひとりひとりの人。何らかのメディア技術に媒介された言葉を受け取り、その言葉をどうにかこうにか解釈し、そして今度は自分がその言葉を他の言葉と混ぜ合わせて発する。その経験を対象化する理論には、はたしてどういうものがあるのだろうかと興味を持ち始めた頃である。

言葉にもいろいろある

「言葉」などというコトバを使うと、あたかも「コトバなるもの」が「ひとつだけ」どこかに転がっているような感じがする。少なくとも私はそのように感じていたことがある。

今にして思えば、言葉という単一普遍ものがあるはずだ、という素朴な思い込みである。

ところが「言葉にはいろいろある」ということを懇切丁寧に教え諭してくれたのがこの『声の文化と文字の文化』であった。

言葉には「声」としての言葉と、「文字」としての言葉を分けて考えることができる。さらにどうやら「二次的な声」と呼ばれるような言葉のあり方も生まれ始めている、と

言葉は「声」からはじまる


人類の歴史を遡れば、目下最古のものと考えられているメソポタミアの楔形文字が発明されたのはどうやら紀元前3500年頃であると推定されている。

しかし数万年前から狩猟採集生活を送っていた私たちのご先祖たちが農耕牧畜を開始した「新石器革命」と呼ばれる大転換は、文字の使用開始を遥か数千年前も遡る、今から12,000年のど前の出来事であったと考えられる。

そして我々の直接の祖先がわれわれと同じような「人間」になって、おそらく今日の私たちの言葉とそう大きくは異ならない言葉をしゃべるようになったのは、更にそれを遡る数万年も前のこと、5万年前とも、7万年以上前とも言われている。

仮に言葉をしゃべる人類の歴史が7万年ほどあるとすれば(もっとあるかもしれないが)、そのほとんどは”声だけ”の世界であった。逆に、大半の人間が文字を読み書きできる社会というのは、ほんの100年前でも極めて限られた一握りのものであった。

そして現代の私たち一人ひとりの経験においても、言葉は声から始まる場合が多い。多くの子どもは、文字より先に声がある世界で成長していく(もちろん、声を聞くことができない場合もあることは言うまでもない)

私たち人類は「声」という環境で進化を重ねてきており、文字にはまだまだ不慣れなのかもしれない。

声だけの世界

声だけの世界とはどういうところだろうか。

ほんの子どものころから文字とともに生きてきた、文字が当たり前の私たちからすると、声だけの世界に想像を巡らすことも難しい。

まず声だけで文字がない場合、誰かが言ったことを正確に記憶し、何日も、何年も経ってから正確にそれをリピートすることは難しくなる。 声は発せられた瞬間にどこかへ消えてしまうのであり、その場に居た話し手と聞き手の記憶の中に、それぞれちがった形態でぼんやりととどまるだけである。

声だけの世界で、言葉を「記録」あるいは記憶するにはテクニックが必要である。オングは文字を持たない人々が、言葉を記憶するための技術 を挙げている。「決まり文句」を繰り返して、一度覚えた言葉を忘れないようにすること。 何度も同じことを繰り返し言うこと。​感情移入的・参加的に言葉を使うこと、つまり演じ、歌う、リズムをつけ、韻を踏むなどすること。

例えば、文字を持たない文化では、「同じ」あらすじの神話でも、語る人によってそのストーリーや登場人物の名前が異なる。 また同じひとりの語り手でも、語る都度、語る相手によって、毎回話が微妙に変わる。

声から声へと受け継がれていく神話には「原典」はない。

神話の語りは、台本を丸暗記して読み上げることではなく、聞き手の応答に呼応しながら毎回新しく話を「つくる」ことである。同じ話題でも「状況依存的に」時と場合に応じて、相手に応じて異なる言い方を試すことが、声の文化の言葉づかいである。

声の文化の状況依存的思考

こうした「語り口」は、声の文化「のみ」で生きる人々の思考法、モノの考え方を左右するという。

例えば「決まり文句」で考える傾向、 「固定し、型に従った思考パターン」をする傾向、声に魔術的な力があると信じること 、などである。

魔術的な力というのはいわゆる「言霊」などであり、「言ったことはそのまま現実になる」 と考え、言ってはいけないこと、いうべきことを慎重に制御する営みにつながる。

これらには文字を前提とする社会に生きる人からすると理解に苦慮するものもあったりする。

特に文字の書き手読み手との違いが際立つのは「具体的な状況や話し手から遊離した言葉を信用しない」というスタンスである。

言葉で言えることを直接経験できる時空の中に限定するのである。誰がいつどこで喋ったのかわからないような言葉、つまり文字に書かれたり印刷されたりしたような言葉は「信用しない」のである。

この「声」だけの文化がどういう世界であるのかを垣間見る上で、ダニエル・L・エヴェレット氏の『ピダハン』が詳しくおもしろい。

エヴェレット氏によれば、声に生きるピダハン族の文化とは「経験の直接性を重んじる」文化であり、それは「本に書いてある」ことよりも、「自分が実際に見たり聞いたりしたこと」を信じる文化である。それは「目に見えるものそのもの」よりも、「他人がそれを、どう意味づけているか」をなによりも気にかける文化であるという。

ピダハンに儀式が見受けられないのは、経験の直接性を重んじる原則で説明できるのではないだろうか。この原則では、実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為(つまり儀式)は退けられる。つまり登場人物が自分の演じる出来事を見たと主張できない儀式は禁じられるのだ。[…]直接経験の原則のもとには、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して生の形で伝えようとするピダハンの思考が見られる。

ダニエル・L・エヴェレット著 『ピダハン』p.121

書かれた言葉

書き言葉は、こうした「声」の世界とは異質な、独特な空間を作り出した。声であれば発声とともに消えてしまう言葉。 文字は言葉を時空間に留め、時の流れを超え、距離を超えさせる。

そうして過去から現代まで残る「文字に書かれた記録」が生まれた。考えてみれば、ほんの一世紀ほど前に録音技術が生まれるまでは、ひとりひとり生きて死んだ多数の人々の「声」は一切残されていないのである

文字は時空を超えるが、「声」に付帯するものすべてをまるごと保存できるわけではない。文字が記録できないことは多い。​発声の場で言葉を包んでいた状況や感情、語り手の息遣いなどは消え去り、正確に反復できる視覚情報だけが残り、独り歩きする

同じ文字なら、誰が書いても「同じ」意味であるべき ?

文字の普及が私たちの社会、あるいは私たち一人ひとりに与える決定的な影響。それは同じ文字なら誰が書いても同じ意味であるべきである、という考え方が広まることである。

エヴェレット氏によれば、印刷文字(正確に反復できる視覚情報)になることで、言葉は「記号」になる。 記号とはつまり 「赤信号」イコール「止まれ」 という具合に、ひとつひとつの記号に一つに決まった意味が対応するということである。

「月が綺麗ですね」

この文字は、 いつでも、どこでも、誰にとっても同じ意味なのだろうか?

もちろん私たちはこれをひとつの「比喩として読む」こと「も」できる。一方でこれが何らかの客観的な事実を記述していると「読む」こともできるのであり、あるいは客観的な事実を記述するという側面があればこそ、それが比喩的に用いられたとき、既知の頭の中の言葉の体系を揺さぶられるような快楽を得るのである。

辞書にあわせるように

文字になることで言葉は、個々の語り手、語りの状況から独立する。言葉が語り手から独立し、客観的なものになると、更に客観的な言葉が指示する世界も客観的なものであるかのような姿になる

オング氏は、文字の読み書きは意識の構造を変える、と指摘する。 「書くことを内面化した人は、書くときだけでなく話すときも、文字を書くように話す。」という。

文字に生きる人は、言葉を使う時、意識をどこかにあるはずの「辞書」に一致させるように迫られているような感覚を覚える。文字は誰が書いても同じ意味であり、 その意味は辞書に書いてあるはずだと、少なからぬ人が信じている。辞書をちゃんと覚えれば、すべての言葉の意味を正確に言える。 と。

声の意味と、文字の意味

しかし、もともと人間の精神の中に「辞書」はない 。オング氏が書いているように、辞書というものが言語の世界に加わったのは、ごく最近、本を大量生産できるようになってからである。

声の文化には辞書はない。個々の語の意味は、その語がいまここで用いられている実生活の状況によって決まる。 状況とは、辞書のように他の語からできているのではなく、身振り、声の抑揚、顔の表情、人が生きる場所である。

オング氏の議論を煎じ詰めると、声の文化の“意味”とは、次のような姿をしている。

  • 語の意味は用いられている実生活の状況によって決まる。

  • 意味は状況依存的であり、抽象的ではない。

  • 同意を求めて、とりとめなくしゃべり続ける 必要がある。

それに対して、文字の文化の”意味”とは、次のような姿をしている。

  • 言葉は状況と関係なく、独立した意味で固まっている。  

  • 言葉を視覚的に知覚できる記号として考える。  

  • どこかに書かれた「正解」を盾に、それを逸脱する言い換えの試みを沈黙させる。

ちなみにここでいう「意味」ということは、どう理解したらよいのだろうか。

例えば情報量を定義したことで有名なクロード・シャノンの情報理論、通信の数学的理論は、あえて「意味」を扱わないと宣言する。 同じ記号でも人によって解釈が異なる現象(すなわち意味)を、通信の理論は扱わない。 それは機械と機械の間で信号のパターンを一致させるという課題を超えている。

これに限らず、どうも「意味」というものは科学的に客観的に現象を記述しようとする立場からすると、一種の「はみ出しモノ」として扱われ、あまり快く思われてこなかったようである。

とはいえ、私たちひとりひとりは、意味と呼ばれるような状況を経験することができる。意味ということは謎ではない。ある言葉、声であっても文字であっても、それに対して比較的多くの人が同意するような主要な意味と、曲解と言われるようなマイナーな意味を、区別することができる。

意味とは言葉の言い換えである

意味とはなにか、という、言葉がそれこそ私たちから遊離して、私たちを遠隔操作で惑わそうとしているかのような問いに対して、レヴィ=ストロースはとてもシンプルに答えを与えている。「意味とは言葉の言い換えである」と。

そう考えると、声の文化の意味とは、言葉の言い換え方があらかじめ決まっていない、相手によって変わるものと感覚されているということであり、文字の文化の意味とは、言葉の正しい言い換え方が「一応」決まっているものと感覚されているということになる。

二次的な声の文化

さて、オング氏の興味深い議論を最後にもうひとつ。

オングはコンピュータ&ネットワークが普及した現代は 【二次的な声の文化】の時代 になるという。

「エレクトロニクスは、文字の文化の深化であると同時に、 二次的な声の文化へと意識を移行させている。」

 二次的な声の文化は、 次のような言葉づかいの傾向と状況をもつという。

  1. 人びとが参加して一体化するという神秘性

  2. 共有的な感覚を育む

  3. 現在の瞬間を重んじる

  4. 決まり文句を用いさえする

一体感、共有的な感覚、現在の瞬間を重んじる、決まり文句 。

一昔前の掲示板から最近のSNS、TwitterやLINEでのトークに至るまで、ネット上の言葉遣いの特長を見事に予言しているといえないだろうか?

言葉が言葉を呼び、次から次へと連鎖していく。

本や新聞を読むのとは異なり、 リアルタイムで誰かと喋っているような感覚故の、親密感と恐怖感。

そして何より、決まり文句を組み合わせつつ絶妙な言い換えを試し、模索し、おもしろがる傾向。

会話の状況に応じて、つど意味が変わる「声」のような言葉のあり方がそこに蠢いて、いや、躍動しているのかもしれない

それは、無力で小さな個人にも「言い換え」を試す余地を残すという点で、画一性を旨とする「近代、とその後である現在」を乗り越える起点になりえるのかもしれない。

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