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関係が項に優先するー読書メモ ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』(4)

 最近の人類学がおもしろい。その中でも特に興味深いのがヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』である。前回のnoteに引き続き詳しく読んでみたい。


構造の運動としての言語、音楽、宗教、科学、神話

 人類学といえばレヴィ=ストロース、レヴィ=ストロースといえば構造主義、構造主義といえば『神話論理』である。

 ところで「神話」というと、科学技術が未発達だった時代の迷信取るに足らない間違い、科学によって克服され消えるべきもの…、という意味合いで捉えるひとも居るようだ。科学的な根拠が明らかでないことを「盲信」しようとすることを「神話」と呼んで揶揄する場合もある。

 こういう言葉の使い方から神話の正体を早合点をしてはいけない。神話は、無知の証拠というよりも、むしろ人類が到達した知性の極みのひとつである。

 神話は、言語、音楽、宗教、科学と同じ、ひとつの”構造の運動”のようなものから生じた現代の科学の理論もまた、人類が行う「神話的思考」の産物のひとつの姿であるとも考えられる。と、レヴィ=ストロースはこのように考えていたようだ。

 構造の動的パターンは、生体としての脳のシステムと、記号のシステムとがカップリングしたところで動き出すらしい。それこそが、人類が進化を通じて獲得した、記号を論理的に組み合わせて抽象的な事柄について個体間で共有するという、他の動物にはない高度な「精神」「文化」の複合システムである。神話はその最初期の成果物といえるのかもしれない。

 このあたりのことは中沢新一氏の著書に詳しい。例えば『熊楠の星の時間』などおすすめである。

「人間であること」についての野生の概念

 レヴィ=ストロースは神話を「人間と動物たちがいまだ別の存在ではなかった時代の物語」であるという。

 神話の語りはしばしば、幾人もの人間たちと動物たちが、同じように村に住み、狩猟をし、料理をし、家族の関係を結んでいるところからスタートする。

 これは神話の語り手が、動物と人間の違いを忘れ、混同している証拠ではない。そうではくてこれこそが、「人間」についての野生の概念を作り出す手続きなのである。
 その手続きとはどういうものなのか。ヴィヴェイロス・デ・カストロは『食人の形而上学』で、次のように論じる。 

神話的言説とは、事物の現在の状態を現実化させる運動カオスモスの領域にある。この前宇宙は無限の差異によって貫かれている。[…]無限の差異は、現実的世界を構成する種や質を構成する有限で外在的な差異とはまったくほかなるものである。それゆえ神話に特有の質的多様性の領域が生じてくる。(ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』)

 「カオスモスの領域」から、「事物の現在の状態」が「現実化」する。「人間」とはどういう存在であるのか、人間についての概念もまた、カオスモスの領域、つまりカオス=混沌とコスモス=秩序の境界領域において「現実化」されることでその姿を現す。

人間とは『「人間ではないもの」ではないもの』

 人間が人間として「現実化」される手続きとは、人間を、人間とは異なるものから区別する操作である。神話はこの区別が、まさに生じようとする瞬間、完全に分離もせず、かといって完全に一体でもない、どっちつかずの状態を言語の論理で語ろうとする。

 レヴィ=ストロースが分析した南米の神話には、人間がジャガーの村に迷い込み、そこで人間の姿をしているジャガーたちと出会う、という話がある。ここでうごめく者たちは「人間」か「ジャガー」か、そのどちらであるかを決定できる段階に無い。

神話におけるジャガーが、ジャガーのかたちをとった人間の情動の塊であるのか、人間のかたちをとったネコ科の情動の塊であるのかという問いは、厳密には決定不可能である。[…]神話的なメタモルフォーズはひとつの出来事であり、現場での変化である。それは等質的状態の外延的位置移動というよりは、むしろ異質的な状態の内包的なかさなりあいである。それは生成の形象なのである。(ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』)

 神話的なメタモルフォーズ、つまりジャガーが人間に変身するようなことは、「現場での変化」「生成の形象」である。予め人間というもの、ジャガーというものが居り、その間に関わりが生じるということではなく(等質的状態の外延的位置移動)、人間とジャガーがそれぞれそれとして他から区別され生成する瞬間に、人間でありながら人間ではない、という「異質な状態の内包的なかさなりあい」がうごめく。

関係が項に優先する

 神話はこの人間とジャガーのような、ある項と項の区別が区別として成立するに至るまでのプロセスの作動を説明しようとする。

 こうした神話の思考は、世界を予め他と決定的に区別され分離された登場人物たちがまず居り、それらの間にあとから生じた関係である…と考える日常の思考のやり方とは大きく異なる。

 日常の思考は漫然と、様々なものがはじめからそれとして存在しているかのような気分の上に展開されるが、それらの存在がどうしてそれに「なった」のか、その生成にまでさかのぼり、しかもそれを言語で論理的に語ろうというのが神話の思考である。

結局神話は、流動的で内包的な差異によって命じられた存在論的領野を提示する。[…]そうした領野では、変容は形式に先立ち、関係は項に優先し、あいだは存在に内在する。それぞれの神話的主体は純粋な潜在性であって、現実的に規定されたものではない。(ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』p.64)

 関係が項に優先する。このことを理解し、思考の前提に据えることができるかどうかで、知性のあり方は大きく異なったものになる。

 神話はまさに関係が項に先行することを知りつつ、眼の前で実際に動き回る多数の項たちの関わり合いの癖を説明しようとした、人類の知性のひとつの発露の仕方である。それは、区別がまだ判然としないカオスでありながら、しかしまったくのカオスではなく、そこにいくつもの他と区別されるパターンが生じ、そのパターン間の関係からなる「コスモス」が生じ始めようとする「カオスモスの領域」をコトバにしようとする。

おわりに

 項はあくまでも関係の後に、関係が動いた後に残される痕跡のようなものである。「わたし」も「あなた」も「あのひと」も、そういう「項」である。

 それにもかかわらず、日常暮らしているとどうしても、「項」の見栄えの方にばかりヤキモキさせられて、関係の動きに思いを馳せることができなくなる。

 関係の産物だったことを忘れられてしまった項は、最初から最後まで永遠に単一であり続けるはずの得体の知れないモノになる。項を作り出す本当のメカニズムである「関係」のことをすっかり忘れたまま、項そのものを装飾したり磨いたりできるような気さえしてくる。

 そういう具合に、関係を忘れた項を、再び関係の動きのもとへと強制的に連れ戻すのが、神話の語りなのである。神話を語る時空を残した社会というのは、実にうまいこと仕組まれている。項が他から区別され生成される瞬間を露わにする神話は、項を、他の存在と完全に溶け合ってしまうカオスの領域に接触させると同時に、救い出し、再生させる。

 そういう構造の動きを語る言葉が響く余地は、いま、どこに開いているのだろうか。

おわり



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