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鼠浄土/述語の極北としての分離と結合の分離と結合 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(80_『神話論理3 食卓作法の起源』-31,M460,461天体の諍い)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第80回目です。『神話論理3 食卓作法の起源』の第五部「オオカミのようにがつがつと」を読みます。
これまでの記事は下記からまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
はじめに
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」を、空海が『吽字義』に記しているような二重の四項関係(八項関係)のマンダラ状のものとして、いや、マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たちが共鳴する”コト”と見立てて読んでみる。
レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
ここは神話論理においていわば開経偈にあたる部分であり、神話論理を途中から紐解く場合にも、いつもはじめに3回くらい唱えておきたいところである。
経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜4を分けつつ、過度に分離しすぎない、安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。
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そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
*
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。
私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。
神話M460「マンダン 天体の諍い(一)」をみてみよう。
この神話は『神話論理3 食卓作法の起源』で分析してきたさまざまな神話から、その「体系を構築」するための「ロゼッタ・ストーン」の役割を果たす、とレヴィ=ストロース氏は書いている。
『神話論理3 食卓作法の起源』の冒頭の神話(基準神話)については上記の記事に書いている。みるとこの上の記事はほぼ一年前に書いている。一年かかって『神話論理3』はまだ数百ページ残っている。さらに『神話論理4 裸の人』(日本語版では二冊に分かれる)と『仮面の道』、『やきもち焼きの土器作り』、『大山猫の物語』と続くので、これは書いている私が生きている間に読み終わるのだろうかという気がしてくる。
読み終わるのだろうか、と、それを言うならば、そもそも始まっていないのではないかとも思う。
いや、始まり/終わりの二項対立の二極の間を結ぶ直線を描くようなことと、『神話論理』を「読む」ということは少しちがうのかもしれない。
『神話論理』を「読む」と言うことは、「読んでいるわたし」を日常の自明な分別の体系から浮かび上がらせ、引き剥がし、野生の思考の神話の論理の脈動と完全に共振状態に入るように、共振周波数をチューニングしていくことである。要するに読んでいるわたしの思考あるいは”心”が、マンダラ状のパターンを描くように「野生の思考」が振動しているところへ妨げなく融即しつつ、しかしわたしは私であくまでも今ここで、この身体で感覚の表面と表層の言語による分別を「概念の道具」として神話の論理へと供給しうる、貴重なインターフェースの一つとしてあり続ける。
つまり、どこまで読めたとか、読めなかったとかは、大問題であるが、大した問題ではない。
というわけで、本日も「読み」ましょう。
太陽と月、カエルと人間
ヤマアラシ、反発力のある煮込み
昔、太陽と月が地上におりて来た。
彼らは年老いた母親の体力が衰えてきたので、結婚して嫁を迎えようと思った。
月は妻を「トウモロコシを脱穀する女たち」の中から選ぼうと考えた。
太陽は反対した。人間の女たちには目がひとつしかなく、自分を見るとき、しかめっ面をするが、ヒキガエルはすてきな青い目で自分を見る、と。
月は「よし、それならおまえはヒキガエルと結婚するがいい。
わたしはマンダン族の女と結婚するから」と言った。
月は大きな夏の村落の近くに行き、たきぎを拾っているふたりの娘を見た。彼はヤマアラシに変身し、若い方の娘をポブラのこずえに引き寄せ、それから天まで連れて帰った。
*
天界の太陽と月とその母親が住む家には月用の入り口と太陽用の入り口があった。
月用の出入り口の前には赤い実のなるザイフリボクが生えていた。
太陽用の出入り口の前には赤い「ヤナギ」の木が生えていた。
・・
母親はふたりの嫁を家の中 に入れた。
けれども、茂みの下にうずくまって、跳ねるたびに失禁するヒキガエルを見つけるのはたいへんだった。
母親が食事を出すと、マンダン族の娘は薄い臓物を一切れ選び、ヒキガエルは厚い一切れを選んだ。
老母は、二人の嫁が臓物料理をかじるときに、どちらが大きな音をたてて上手に食べるかを知りたいと思った。
インディアンの娘の方はよく噛める歯を持っており、オオカミのようにがつがつ食べた。けれどもヒキガエルは口に炭をくわえたのにカリカリさせることができなかった。
みんなが彼女をあざ笑った。
怒り狂ったヒキガエルは月の胸に飛びついて離れなかった。
月はナイフで彼女を切り離して火の中に放り込んだ。
すると女は今度は月の肩甲骨のあいだに張りついた。
月もそこには手が届かなかった。
これが月の隈の起源である。
神話は、女の逃亡、死の話へとつづき、そのあと、彼女の息子の話となり、息子は養祖母となった「けっして死なない老婆」のもとで暮らす。主人公となった息子も死に、またよみがえって星となり天に昇る。
M460「マンダン 天体の諍い(一)」を要約
冒頭からみてみよう。まず太陽と月が兄弟である。
非同非異
兄弟、つまり「別々に異なりながら、同じ親に連なる点では同一」という、異なるが同じ・同じだが異なる、非同非異の関係にある。
非同非異は、差異と同一性の対立でいえば、この二極のどちらでもあってどちらでもないというあり方である。
つまりこの神話の冒頭、太陽と月が一緒になって動いているくだりでは、差異/同一性というもろもろの分別の中でも最も基本的な分別が(つまり差異と同一性の分別は、分別と無分別の分別に他ならないのであるから)、まだはっきりと分け固まっていないのである。まさに、世界の起源の前夜である。
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*
天/地の短絡=対立二極の過度な結合
この太陽と月が、地上の生き物のあいだに結婚相手を求めて、天から地へと降下してくる。天/地の区別は経験的感覚的にははっきりと分かれている(人間の経験上、自由自在に空に浮かび上がっていくことはできない)が、その両極の間に、自在に降りたり昇ったりできる通路があるらしい。
つまりここでは天/地は分かれているようで、分かれていないのである。
太陽/月:この二項は兄弟という姿で分かれているが分かれていない。
天/地:この二項は昇降自在という点で分かれているが分かれていない。
この分かれているでもなく分かれていないでもない、という関係の中にある項であるということを示すために「β」をつけておく。
β天
β太陽 * β月
β地
分かれているでもなく分かれていないでもない太陽/月のセットが、これまた分かれているでもなく分かれていないでもない天/地の間を行ったり来たり、振れ幅を描いて動く。分節と無分節の分節がはっきりしない。
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* *
ここから、マンダラは水平方向と垂直方向に大きく振幅を描いて、伸び縮みし始める。まず「結婚」である。
結婚による、地上/水界の分離と引き伸ばし
結婚というのは、もともと遠く分離していた二項が、限りなく接近して結合し二つのまま一つになることである。すなわち神話において結婚のモチーフが出てくる時には、分離から結合への転換という述語的な様相を強調したいのである。
神話の場合、この結婚は特に経験的に遠く離れている者の間でなされる。天空の存在である太陽と月と、地上の存在であるカエルと人間が、それぞれ結婚することになる。特に燃える火である太陽が水棲の生き物であるカエルと結婚=結合しようというのは、火/水の対立というおそらく旧石器時代から人類が経験してきた基本的な分別・対立の両極を短絡しようとする過激な結婚である。
ここで改めて注意しておきたいのは、太陽と月が、互いに別々の女性を結婚相手に求めることである。太陽は水棲のカエルが美しいといい、月は人間の娘の方がいい、という。
太陽と月は兄弟で、二人は一緒に行動していたのだが、この結婚という段に至って、真逆に、別々の方向に、相容れない二つの世界の方へ(水界と地上界)分かれていく。太陽と月の間に距離が開くのである。
これにより冒頭の天/地、太陽/月が分かれているのか分かれていないのかよくわからない、一点に集中しつつその中心点のまわりでゆるゆるとマンダラ状のパターンを描いていたような状態が、地上/水界を両極とする軸上で長く引き伸ばされることになる。お餅をひっぱるイメージである。
β天
水界← β太陽 <<<<< * >>>>> β月 →地上
β地
ここで、月が地上に暮らす人間の娘と結ばれるまでのくだりでは、以前に分析したものと同様に、月がヤマアラシに変身すること、樹木を伝って天地の間を昇ろうとすることが語られる。ヤマアラシは、自然のものでありながら、文化のエッセンスともいうべき紋様刺繍を縫うための道具となる針の提供者である。ヤマアラシは自然/文化、という鋭く対立する二極を短絡したようなあり方をしており、神話的な思考の分離と結合の分離と結合の脈動を表すのに相応しいものである。
ヤマアラシのくだりがより緻密に語られたおもしろい神話は上記の記事で紹介しているのでぜひどうぞ。
秘密集会
さて、一方の太陽が、一体どのようにして水棲のカエルを連れてきたのかはよくわからないが、ともかく、天界の太陽と月とその母が暮らす小屋に、一同が集合することになった。
この集会場所となる建物には、太陽用の入り口と、月用の入り口、二つの入り口が別々に用意されているという。そして月用の入り口には赤い小さな実がたくさんなる木があり、太陽用の入り口にはヤナギ(おそらく、小さな白っぽい・月のような色をした実がなる木だと思われる)がある。
太陽は、月のように白っぽい小さな多数の球体の下を潜り抜ける。
月は、太陽のように赤い小さな多数の球体の下を潜り抜ける。
細かい描写に思えるが、これはおそらく、前に下記の記事で紹介した儀式用の小屋と同じく、マンダラ状の円環構造を浮かび上がらせたいのである。
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食卓マナー勝負で結合から分離へ急転換
さて、四者(中央の「母」はこれら四者を結合している存在なので、別格であるが、これは「一」と数えることができる存在者ではない。この母は、いちいちの区別を超えている)がせっかく揃って集まって結合したのであるが、ここから一挙に分離の相へと切り替わる。
β太陽 / β月
|| 母 ||
βカエル / β人間の娘
結合したかと思えば分離し、距離が近づいたかと思えば遠ざかる。
それが神話論理の意味分節、無分節の分節、無分別の分別の動き方である。
まず、カエルの娘と人間の娘が、薄い煮込みと厚い煮込みに対立軸上で真逆に分離する。
厚い煮込み =カエル <<< / >>> 人間の娘= 薄い煮込み
そして人間は天体たちの母にとっては「よい」と思われるマナーで、よい音を立てて食事をするが、カエルはそれができない。
食卓作法が悪い=カエル <<< / >>> 人間の娘=食卓作法が良い
こうして先ほどの四項関係は、下辺が広がった台形のような形になる。
β太陽 / β月
|| 母 ||
βカエル <<< / >>> β人間の娘
ここで、一同がカエルのことを「嘲笑う」のであるが、カエルにしてみれば、そもそもこのような煮込みを人間と同じように噛めるはずもないのであり、極めて不当な勝負である。初めから勝敗がついている。
そうして愚弄されたカエルは怒り狂う。神話的な動物の神々は誇り高いのである。
過度な結合から過度な分離へ、そして別の過度な結合へ
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嘲笑う、怒り狂う。
このあたりの述語に注意しておこう。
嘲笑うというのは笑う者と笑われる者との間に距離を開く、壁を作る、分離することである。
β太陽 / β月
|| 母 ||
βカエル < < < <<<< (嘲笑) / β人間の娘
また怒りは、これが暴力につながる場合は特に、憎悪し分離したまま憎らしい相手を破壊するために接近・結合するという動きである。
β太陽 / β月
|| 母 ||
βカエル (怒り狂う)>> / β人間の娘
こうしてカエルは、自分の夫(もともと直接結合=結婚している)に向かうのでもなく、食卓マナー勝負で敗れた人間の娘(もともと分離している)に向かうのでもなく、そのどちらでもない「月」の方へ向かい、そして飛びついて、離れなくなる。一番遠く分離していたところに、過度に結合するのである。
*
抵抗する月
ところで、この神話の月は悪あがきを見せる。
月はナイフをつかって、自分の胸にへばりついたカエルを削ぎ落とし、火の中に投げ込む。酷い話である。しかしここは神話である。β項たちの分離と結合のあいだの分離と結合の脈動を、経験的で感覚的な「述語」を仮に概念の道具として用いて表現しているのである。
水棲のカエルを火の中へ。月と過度に結合したカエルを一挙に反転して分離し、そして火/水の対立の両極を短絡するように、カエルと激しく対立しているはずの火の中へ、カエルを放り込む。
こちらで過度な結合から過度な分離に転じたものを、あちらで過度な分離から過度な結合へと転じる。
すばらしい振動、脈動、述語的様相である。
*
そして当然のごとく、火と過度に結合した水棲のカエルは、結合から転じて一挙に火から分離し、また月のところへ戻ってきて、またへばりつく=過度に結合する。しかも今度は胸ではなく背中である。
裏 / 表
このどちらかといえば地味だが、しかし人間の経験にとって決定的な対立がここに浮かび上がる。
そしてこの結合は、もう分離に転じることがなかった。
「これが月の隈の起源である」とあるように、このカエルと人間の娘の配偶者である月男との結合が、こんにち、私たちが経験的に知っているあの月(Δ月)の起源をなす。
Δ四項関係の設立(付かず離れずの均衡状態の確定)
さて、ここから神話は、最終的に、下記のような関係を描くように展開するはずである。
Δ3・・天空
↑
β太陽 = β月
地上世界Δ2← || 母 || →Δ月
β人間の娘 = βカエル
↓
Δ4・・星
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β太陽とβ月が結合付かず離れずになるところ、Δ3のポジションに、いわゆる経験的で感覚的なこの天空が区切り出されるはずである。
そしてβ太陽とβ人間の娘が分離しつつもつかず離れずに距離を保っているところΔ2に、経験的なΔ天空に対する経験的なΔ地上世界が区切り出される。神話の最後に、人間の娘が天空から逃亡すると、さりげなく書いてある。天空から逃亡した人間の娘が行き着いた先が、この地上世界である。
最後に、β人間の娘とβカエル即ちβ月との間に付かず離れず・非同非異の関係で存在するのが、人間の娘と月との間の息子である。この息子もおそらく、両義的な存在として経験的に対立する二極のあいだを次から次へと分けたり繋いだりしながら振幅を描くように動き回ったのち、最後は「星」になって、この経験的世界において定まったポジションを取る。
+ +
主語ではなく述語に注目しよう
さて、このように、月、太陽、人間の娘、カエル、などと書いていくと、どうしてもそういう存在者が存在していて、それらが主語となって、二次的に何らかの動きを演ずる、という話に思えてくるが、これらの項はいずれも、存在するようなしないような、存在するでもなくしないでもない、といった者たちである。
神話の論理において重要なことは、これらのの主語の位置に立つ項たちの名や、それが何者であるか、何であるのか、といった別の名への置き換えではなく、これらの主語に託された(主語たちをくっつけたりひきはなしたりする)述語の方である。これまで一連の記事ではΔやβという勝手な表記を便宜的に用いてきたが、これでは何のことだかわからないという向きもあると思う。ここでΔは「主語になりうるもの」、βは「述語的様相」という言い換えてみると、わかりやすいかもしれない(いや、まだわかりにくいかもしれない。というか「わかる」ことの手前の「分けつつある」「分かれているような分かれていないような」を考えたいのであるから、どのような名前で読んだところで、「わかる」からはいつもずれていってしまうのであるが・・)
述語、すなわち、あちらからこちらへ、振れ幅を描いて動く動きであり、分かれていたところを過度に結合する動きであり、結合していたところを激しく分離する動きであり、といった述語。
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レヴィ=ストロース氏は、この神話を紹介する前に、次のように書いている。
太陽と大地のあいだでは、水が媒介項の役割を果たす必要があったのである。「厚い裏地つきの外套」はトウモロコシの第一の祭司であったが、インディアンたちに、多くの雨と豊かな収穫を得るためには、春、カモなどの水鳥が北へ渡るとき、聖なる詞で歌わなければならないと教えた。この時期には蒸し風呂の儀礼もぜひとも必要であった。密閉された小屋で、熱した四つの石に水をかける。この四という数は太陽が「トウモロコシの葉」娘を訪れた回数と同じである。あるインフォーマントは「太陽がそうであったように敵であるこれらの石」と言っている。小屋に石を並べるとき、司式者は、打ち負かそうとする四つの敵を列挙した。蒸し風呂の中に入り込む者は、雁やそのほかの水鳥を真似た。
ここで言及されているのは前回の記事で紹介した儀礼のことであるが、「水が媒介項の役割を果たす」というところに注目しよう。
この「媒介項の役割を果たす」というのがつまり、分離していたところを結合したり、結合していたところを分離したりする述語的な様相のことである。
水の述語的様相
水は、「雨」という姿で、天/地の分離した両極の間を結合する。
また水は「蒸し風呂」で「太陽」に擬せられた「焼石」を冷やしつつ、また蒸気になって空へと昇る。この温度を下げたり、空に昇ったり、という述語的様相に注目しよう。
そしてこの焼石に水をかける儀礼の参加者が、水鳥、つまり水から飛び上がって天空に高く飛び上がる述語的様相を呈する媒介者の姿を真似る、というのがおもしろい。
「水」を、主語的な相だけで考えようとしてしまうと「水とは何か?」「水とはXXである!以上!」といったで、水を一義的に定義する、つまり別の主語に言い換えるという操作を呼び込んでしまい、述語的様相が見えてこない。水がβ脈動する精妙な振動パターンが見えてこない。これに対してレヴィ=ストロース氏は「水の多義的な地位」に注目するよう呼びかけながら、次のように書いている。
社会組織を象徴するトウモロコシ/バイソンの対立に対応するのは、これまで考察した神話や儀礼における水鳥と太陽の対立である。これらの四項のうち、いっぽうでは水鳥が、他方ではトウモロコシが水と密接に結びついている。水はしたがって両方の組の性質を分かち持っていることになる。水は両義的な要素として、鳥に関しては天、トウモロコシに関しては地に属する。まえに述べたように、トウモロコシは地下界からやって来たものなのだから。この図式は、水に多義的な地位を付与しており[…]
「水」という、その姿を変容させつつ天地の間を昇ったり降りたり(雨になって畑を潤したり、蒸気になって浮かび上がったり)するものの動き方、述語的な様相のもとに、トウモロコシ/バイソン、水鳥/太陽、といった諸々の経験的な二項対立が集められる。この両極を分けつつつなぎ繋ぎつつ分ける動きが、水の動きによって表現されていく。
言い換えると、トウモロコシ/バイソン、水鳥/太陽、といった神話の登場人物、事物の姿は、この水の動き、媒介する動き、分離しながら結合し結合しながら分離するような動きから、その分離と結合の振幅が区切り出す最大値と最小値のような位置にはじめて浮かび上がってくる影のようなものである。ここでは折口信夫の『水の女』を想起せざるを得ない。
儀式の根拠となる諸神話では、バイソンとトウモロコシとが、あるいは太陽と鳥とが、同時に登場する。したがって、採用した項は変わらないし、また、ほかのいろいろな儀礼や神話を考慮に入れても、新たな組み合わせを探し当てるだけですんでしまうのである。
野生の思考の神話の論理では、媒介者の分離する動き結合する動き(述語的様相)が重要であり、その動きの主語の位置に何を仮に置くのかは、たまたま経験的に見つけやすい二項対立があれば、どのようなものでもかまわないのである。
神話の「構造」は、
主語(Δ)の静的配置だけのことではなく
この様子を、神話の登場人物や登場する事物にフォーカスして見ていくと、次のようなことが明らかになる。
完全な体系を構築することはたいへんな作業である。しかし、いろいろな神話を体系的な方法で分類し、その相互関係を明らかにしない限り、これほどに豊かで複雑な、平原インディアン、なかでも定住村の部族の神話を理解することはけっしてできないであろう。いろいろな神話が対称的であったり、反対称的であったり、背景と 図の色を逆にしておたがいを転写していたり、ポジだったりネガだったり、裏返しになっていたり、縦横が入れかわっていたり、上下逆になっていたりするのである。
神話の論理は、さまざまな経験的な二項対立に託して語られるが、神話によって、この二項対立を重ね合わせる向きがコロコロと変わる。例えば、太陽と月の二項対立があったとして、ある神話では太陽が善人で月が悪人であるのに、別の神話では太陽が悪人で月が善人になったりする。
こうした時に「神話における主語”太陽”は善か?悪か?どちらか」といった形の問いを立ててしまうと、困ったことになる。つまり調べれば調べるほど、その答えは、「神話によって、善だったり悪だったりする」ということになり、これでは「どちらか」はっきり選びたいという二元的思考を満足させることはできない。
しかし、これは、神話の論理的な欠陥などではまったくない。
神話はそもそも、「神話における太陽とは善か?悪か?どちらか」といったような、あらかじめ設定された善/悪のような二元論を持ち出して、他のありとあらゆる項を、その善/悪どちらの側に振り分けるべきか、といった言葉の使い方=思考をしていない。
「あちらかこちらか、どちらを選ぶか」といった思考ができるためには、あちらとこちらが、あらかじめはっきりと分かれていることが前提になる。
そして神話は、このような前提、あらかじめ分けられ済みの二元論がどこかに転がっているべきだ、といった無理な要求はしないのである。
何であれ、対立する二極、対立関係にある二項は、分けるから分かれるのである。もともとどこかで分かれているのではない。分けるから分かれてある。分けるという「こと」が先に動かないと、分けられた「もの」たちは出てこない。
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神話の構造は、述語が主語たちを分離したり結合したりする動きのパターンである
神話では、一見すると、太陽とか月とかカエルとかが主体的に動き回っているように見えるが、重要なのはその動き、振れ幅を描いて振幅の最大値と最小値を区切り出すような動き(述語の相)であり、それを「誰が」やっているのが、その主語が何者であるのかは、さすがになんでもよいというわけではないが、大概なんでもよい、人間が経験的感覚的に区別できることならよいのである。
訳のわからないことを言うと思われるだろうと思うが、例えば、かの鈴木大拙は『浄土系思想論』で詳細に「即非の論理」について論じているが、ぜひこれも参照されたい。
鼠浄土でみる夢
さて、改めて主語の位置を占める項の姿は、薄目をあけてかすかに浮かぶ程度にして、述語的様相に注目しながら次の神話をみてみよう。
『神話論理3 食卓作法の起源』に掲載された神話M461「マンダン 天体の諍い(二)」である。
この神話で注目してほしいのは、人間の娘が、受動的に誘い出されて月と結婚するのではなく、能動的に太陽を結婚相手として求めて天に登っていくところである。
太陽 / 月
能動 / 受動
この対立二極の間で、先ほどの神話とは真逆になっている。
「人間の娘」とは「受動的であるのか、能動的であるのか」
「XはAであるか非Aであるか、どちらに決めるべきか!」
このような二元的な思考からすると、こうもくるくると逆にひっくり返られては、答えが一方に決まらず、もう神話なんてみたくないとたまらなくなるところであろうが、世界があるでもないでもないところから思考の一歩を歩み始めようという壮大な旅のはじまりにおいては、このくるくると回る感じこそが大切なのである。
「この物語の登場人物は三人で、
高いところの老婆とそのふたりの息子の太陽と月です」
と語り手は始める。
昔、トウモロコシの絹毛(ここでは「絹毛」という単語をそのまま使うが、これは英語では穂をおおっている細い繊維を指す)と呼ばれる娘がいた。
彼女は太陽と結婚しようと考えて、ある聖なる女にどうすれば太陽のところまで行けるかとたずねた。
その女はいくつかの行程にわけて旅をするように、そして毎晩ネズミのところで宿をとるようにと忠告した。
*
最初の晩、娘は小屋のネズミたちに泊めてくれるように頼んだ。
ネズミたちは収穫したばかりのヤブマメを食事として出してくれた。
お礼に娘はこのヤブマメ探りというつらい労働によってがさがさになった手に塗るようにと、バイソンの脂身と、青い石の首飾りをネズミたちにやった。
二日目の夜は、胸の白いネズミたちのところで。
三日目の夜は鼻の長いネズミたちのところで、同じ光景が繰り返された。
そして四日目の晩、袋のネズミのところで、それまでと同じマメとバイソンの脂身のほかに、やはり持っていたトウモロコシの揚げ団子をやった。
**
つぎの晩、トウモロコシの絹毛は天の人々の小屋に着いた。
彼女の美しさに心を打たれた老婆は彼女を招き入 れた。
兄弟はそれぞれ、小屋のあい対する側にすわっていた。
兄弟の母親は娘を月の側にすわらせた。
するとそこに、ひとりのシャイアン族の女が現われ(この娘はトウモロコシの絹毛とは別人である、念の為。)、母親はその女を太陽がいつも寝ている場所に行かせた。
太陽は、母親が月のために自分の利益を侵害していることを知り、文句を言った。母親は、月にはめったに結婚話が持ち上がらないからと答えた。
***
食事の時間になると老婆は、人喰いである太陽には人間の手と耳と皮を茹でたものを出した。シャイアンの女と太陽はそれをむしゃむしゃ食べた。
**
ふたりの女はそれぞれ男の子を産んだ。
太陽が甥を人喰いにしようとしたので、月はトウモロコシの絹毛が息子とともに逃げ出せるようにと夜を引き延ばした。
*
月の子供は母方の村で成長した。
シャイアンの女の十人の兄弟がその村に戦争を仕掛けてきた。
カミナリ鳥に変身した月は妻の同族たちとともに戦い、十人の兄弟を殺した。
月の息子は太陽の息子である「いとこ」を殺し、首を刎ねた。
その死骸を火葬台で焼き、首は水の精霊に捧げた。
彼はマンダンの戦争の長となった。
M461「マンダン 天体の諍い(二)」を要約
冒頭、四即一にして一即四の関係が出てくる。
・高いところの老婆
・老婆の息子1:太陽
・老婆の息子2:月
・「トウモロコシの絹毛」という名の娘。太陽との結婚を望む。
この四者は、親/子、兄/弟、夫/婦といった二極を結ぶ軸上で、別々に異なりながらも一つであるように、分離しながらも結合し結合しながらも完全に溶け合って一つになってしまうことなく分離を保とつようにある。
*
神話の冒頭、「トウモロコシの綿毛」はまだ太陽と結婚していない。
彼女は太陽と結婚することを強く望んでいる状態である。ここでは四即一の関係が、天/地の両極を結ぶ軸を長く伸ばしている。
β
β*β
|
|
|
|
|
β
この結婚の方法、天/地の分離、天地の裂け目を越える方法がおもしろい。トウモロコシの綿毛娘は、家族・部族の元からまず分離して、いきなり天に登ろうとするのではなく、「ネズミのお宿」に滞在する。
このネズミのお宿が四種類に分かれているところが、お手本のような神話である。つまりマンダラが浮かび上がる気配を感じさせる。
一日目の夜、ネズミたちはトウモロコシの綿毛に調理された食事を贈与する。トウモロコシの綿毛はお返しに、植物採集の労働を楽にする手段(バイソンの脂身)と、「首飾り」を贈った。
二日目の夜は「胸の白いネズミたち」と、同じ交換が繰り返えされた。
三日目の夜は「鼻の長いネズミたち」と、同じ交換が繰り返えされた。
四日目の夜は「袋のネズミ」たちと、同じ交換が繰り返えされつつ、それに加えてトウモロコシの綿毛娘は「トウモロコシの揚げ団子」もネズミたちに贈った。
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そして五日目の夜、トウモロコシの綿毛娘は「天の人々の小屋」に到着する。ここがすなわち、「高いところの老婆」と太陽と月が三人で暮らす小屋である。
主人公は、ネズミたちの世界、それが地下なのか、あるいは樹上なのかはよくわからないが、いずれにせよ地上界・地表世界に対する異界である鼠浄土において四極を切り出すような軌跡を描くように動きまわり、鼠との間でお互いに贈与を行い、つまり鼠とトウモロコシの綿毛娘とが二即一一即二にもつれ込む状態を作り出した。
つまり、下記のような具合の四極をぐるりと巡って円環を描いた。
Δ=/=Δ
Δ=/=Δ * Δ=/=Δ
Δ=/=Δ
↓
β
β * β
β
ここでΔは「鼠」とか「人間の娘」といったような、私たち人類が日常的な感覚、経験のなかで分別しているあれこれの他ではない何か、項たちである。そしてβは、こうした経験的で感覚的に分別された両極を同時に一つに重ねたような、どちらでもあってどちらでもない、中間的・両義的な項である。
そしてこの、
β
β * β
β
両義的媒介項βの四項関係(四つの両義的媒介項が、どれがどれということもなくぐるぐると高速で回転しながら最小で四つの異なる姿を示現させているような状態)へと参入したところで、トウモロコシの綿毛娘は、天/地の境界をどういうわけだか知らぬ間に越えることができるようになる。
なぜそんなことができるのかといえば、天/地もまた経験的、感覚的な区別である。Δ/Δである。こういうΔ二項対立の両極、Δ天とΔ地をくるくると入れ替えることができる状態に、いま、鼠浄土で四泊五日の贈与的交換を繰り返したトウモロコシの綿毛娘は励起されているのである。そうであるからして、天/地のどちらでもあってどらでもないところから、自在に天にも地にも入り込むことができるようになる。
ここでレヴィ=ストロース氏は次のように書いている。「中間項」というところに注目して読んでみよう。
アメリカヤブマメは植物性生産物ではあるが動物に由来する。そして、ネズミは飢饉になる直前に食べる最後の獲物である。さて、この神話は女と男、農耕と喰人――狩猟のみが中間項を演じることのできる系列の両極 ーーを近づけるある旅にさいし、この中間的活動に言及する。
ヤブマメは地中にも実をつけるものだろうか。この「アメリカヤブマメ」と「鼠」を結びつけることで、経験的世界において中間的であることをふたつ重ねることになる。このようにして、両義的媒介項たちが分離しつつ結合しつつ分離する脈動状態を、経験的感覚的表層世界の直下に浮かび上がらせてくるのである。これが野生の思考の神話論理のおもしろいところである。
* *
交差させる述語
そしてここから、おもしろい「交差」が引き起こされる。
「高いところの老婆」はトウモロコシの綿毛娘を歓迎し、家の中に招き入れたが、トウモロコシの綿毛娘が結婚したいと望んでいた「太陽」の隣にではなく、「月」の隣に、彼女を座らせた。このとき、太陽と月が相対する位置に、つまり同一円周上で最大の距離をとった位置に分離されていることに注目しよう。
高いところの老婆
太陽 * 月
|| ||
シャイアン族の娘 / トウモロコシの綿毛
そして、どういうわけだか突然現れた「シャイアン族の女」を、太陽の隣に座らせる。
太陽にしてみれば、自分との結婚を望んでやってきた「トウモロコシの娘」を兄弟に取られてしまうことに納得がいかず抗議するのであるが、この抗議は聞き届けられることはなかった。抗議すること、抗議を聞き届けられないこと。どちらも感覚的にわかりやすい結合と分離を両極となす振幅である。
そうして太陽とシャイアン族の娘(人間の娘)、月とトウモロコシの娘とは、それぞれ結婚した。双方の夫婦それぞれに、男の子が生まれる。
* * *
このくだりはちょうど、太陽と結婚したカエルが、月の体にへばりついて取れなくなる、というパターンとおなじことである。結婚するはずのところが結婚せずに、結婚しないはずのところが結婚する。分離が結合に転じ、結合が分離に転じる。それによって、分離と結合の分離と結合が切り結ばれる。
+
さて、ここまでは、四つの両義的媒介β項が四つに分かれながらも一箇所に集まって、あちらでくっつたりこちらで離れたり、分離したかと思えば結合し結合したかと思えば分離するように振動していたのであるが、ここから神話は、現世の、この私たちの日常の世界のかっちりとした分節システムを確定する方向に向かう。
β
β * β
β
ここから、βとβの重なり合うところに、Δ(経験的感覚的に対立する二項関係のうちの片方)を発生させていく。
Δ β Δ
β * β
Δ β Δ
そのために、四つのβ、両義的媒介項を、自在にくるくると入れ替わるような状態から引き離して、正方形を描くように対立させてその対立を固めるのである。
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まず、「人喰い」であった「太陽」とシャイアン族の娘(人間の娘)の夫婦が、「月」と「トウモロコシの綿毛」との間の息子(太陽からみれば甥)をも、無理やり自分たちと同じ「人喰い」にしようとした。つまり月の息子を、太陽が奪おうとしているのである。
これはたまらんと、月は息子を母親の生まれ故郷へと脱出させる。月は「夜」を引き延ばし、つまり太陽が出てこない時間をながくつくって、その闇に紛れて妻であるトウモロコシの綿毛と息子を逃した。β月とβトウモロコシの綿毛、β太陽夫婦との間の距離が分離したのである。
細かく言えば、β太陽夫婦は二つのβが結合状態のままにあるが、β月夫婦は分離の相に入り、そしてβ月夫婦の子供はβ太陽夫婦から遠く分離された状態になる。
*
子供を奪おうとする→子供を逃す→夫婦が分かれる→襲撃をかける→返り討ちにする→・・・
さて、逃げたβトウモロコシの綿毛とその息子が暮らす村を、太陽と結婚したシャイアン族の娘の兄弟たちが襲撃をしかけてくる。
戦争である。
分離したところを再度結合に転じようというのである。
レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
始祖であろうと、つましい村の器量よしであろうと、トウモロコシの絹毛と呼ばれる女は結婚に対して両義的な態度を取る。ひとつの機能においては、彼女は自分と結婚することによって人間たちと姻族関係を持とうとする太陽を退け、その結果、太陽の敵意を引きおこす。もういっぽうの機能においては、彼女は地元のすべての求婚者を退け、母親や兄弟がそれを非難すると、彼女は扉をばたんと閉めて出てゆき、鬼と結婚するために世界の果てまで行く。その企てに成功するか否かにかかわらず、結果は同じように惨澹たるものである。彼女は村に戦争、インセスト、不和、夫婦間の嫉妬をもたらすか、あるいは、冬の 厳しい寒さや飢饉を具現する、かわいい女の子の姿をした殺人鬼を連れ帰ることになるのである(M、Bowers 1, p.319-323)。非常に単純化して言えば、太陽が夫として入り込もうとするとき、女主人公は彼を鬼として追い払う。しかし、彼女が妻として外に出ようとするとき、彼女は現実のあるいは隠喩としての鬼を連れ込んでしまうのである。
戦争とは、つまり武器を用いて相手の身体に接近接触しながらこれを破壊するという、過剰な結合にして過剰な分離である。
「トウモロコシの絹毛」は、分離しているところを結合し、結合しているところを分離する、分離と結合を反転させるような動き・述語的様相を呈する。
そして、この戦いは「トウモロコシの綿毛」方の勝利に終わる。過度に結合しようとしてくる太陽の姻族軍団を、月は鳥に変身し、返り討ちにして遠ざける・分離する。
トウモロコシの綿毛と月との間の息子も戦士として戦い、いとこにあたる太陽とシャイアイン族の娘から生まれた男子を打ち取り、首を刎ねる。彼こそがこの神話を語ったマンダン族の「戦争の長」の始まりである。
+
刎ねられた太陽の息子の胴体は火で焼かれ、頭は水の中に入れられた。つまりもともと一つに結合していた「一人」の身体を、上/下に分離し、それぞれを火/水というこれまた対立する両極の方へと振り分ける。
首 ←/→ 胴体
|| ||
天から地上へ・・水 ←/→ 火・・地上から天へ
太陽と雨のあいだに付かず離れずの距離を保つ秩序を制定したということになろう。
こうしてこの神話の最後には、この神話を語った人々(マンダン族)とそれ以外の部族の人々との区別、天/地の区別が確定するのである。
Δ 天
Δマンダン族 / Δマンダン族以外
Δ 地
レヴィ=ストロース氏の言葉を引いておこう。
「したがって、マンダンのヴァージョンが提起しているのは、天体の妻たちに関するほかの神話の場合とおなじ ように、近くあることと遠くあることの調停の問題なのである。」
近くにあることと遠くにあることの調停。つまり、近すぎず(過度に結合せず)、遠すぎず(過度に分離せず)、別々に分離しながらもその間に微かな通路、往来が確保されているような状態(例えば、地上の水が天から降ってくるとか、地上の水が火に触れると天に昇るとか)が保たれていることが、この世界の分節の秩序、人間の分別知の安定性を再生産し続けるのである。
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以上で『神話論理3 食卓作法の起源』の第五部「オオカミのようにがつがつと」を読み終わる。
次から第六部「均衡」に入る。
つづく
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