中沢新一著『レンマ学』 × 岩田慶治著『コスモスの思想』を並べて読む −コスモスの生成とレンマ▷ロゴスへの写像
文化人類学者 岩田慶治氏による「コスモス」の考え方について、前にこちらのnoteにまとめたものの続きである。
コスモスを生成し成り立たせる「反復」
岩田氏は『コスモスの思想』の終盤に次のように書かれている。
人類の文化は「コスモス」としてある。
いや、「ある」というか「なる」、成り立っている、といった方が良いかもしれない。
コスモスとしての文化は偶然できあがるものでもなく、必然的に決まったかたちをとるものでもない。文化のコスモスは「自由」に、創造される。それは無数のひとの身体の動きや声の発し方、その他あらゆる人間の行動が同じような姿で反復=繰り返されるところから、その反復が残す痕跡のパターンとして、ある持続的なかたちをなす。
私たちの行動のかたちが変われば、その反復の仕方が変われば、その痕跡として描き出されるパターンとしての文化の体系=コスモスもまた変容する。
コスモスは行動の反復を通じて、作られる、支えられる、成り立つものである。
岩田氏は『コスモスの思想』で、このコスモスを成り立たせる行動、その反復が可能になるための、地盤、土壌、足もと、底のようなもののあり方を問う。そして次のように書くのである。
アニミズム的、密教的
コスモスは「アニミズム的」な空間の中に構築される必要があるという。
そして「アニミズム的空間」は「密教的空間」でもあるという。
密教的といえば、岩田氏が書かれているアニミズム的空間・密教的空間というのを、中沢新一氏の『レンマ学』の言葉に置き換えることができるのではないだろうか。『レンマ学』は大乗仏教、その華厳の哲学が解き明かそうとした人類の知性、論理の力を、ロゴスに対する「レンマ」の概念のもとにを浮かび上がらせる試みである。
岩田氏が目指す「コスモス」の生み出し方、作り方とは、ロゴスとレンマという切り口でいえば、ロゴスが構築するコスモスではなく、レンマに根ざしたロゴスが束の間浮かび上がらせるコスモスを自由に成長させる、ということになりそうである。
コスモスが生まれる土壌は、無数の「区別がうごめきゆらぐところ
ロゴスだけに根ざしたコスモスは、互いにはっきりと区別され、互いに混じり合うことのないモノたちの配列、並びである。
これに対して、後者、レンマに根ざしたロゴスが束の間浮かび上がらせるコスモスは、動き変容するモノたち、自が他へ他が自へと変身しながらペアを組んだり分離したりする運動の痕跡である。
レンマ的知性が捉える領域にもモノがある。
AやBといった互いに他とは異なるモノがある。
ただし、このAやらはなんやらは、あくまでも非AではないAでありながら同時に非Aであり、Bはあくまでも非BではないBでありながら同時に非Bであるようなモノなのだ。
二は一であり、同時に一は二である。
区別することは区別しないことであり、区別せずに一つにすることが区別することである。付かず離れず、互いに異なりながら、ひとつにつながって、ふたつで一つとなって浮かび流れていく。
レヴィ=ストロースが『神話論理』で言及している「カヌーに乗った太陽と月の旅」の話もこれである。
アニミズムの世界とは「人間が草木虫魚となり野獣となって生きる世界、また、草木虫魚と野獣がそのまま人間とのあって語りかける世界」であり、それは同時に「もろもろの欲望がむき出しにされた血なまぐさい世界」でもあると岩田氏は書く(『コスモスの思想』p.287)。
互いに異なり対立する「二者」が、じつはつながっている、ひとつである。ということは何も二者が”仲良く”和気あいあいと同居しているということではない。
二者は食べる−食べられる関係にあり、他方を自分のために分解し自分の一部として取り込もうともする。そのように狙われた方はこちらはこちらで必死に抵抗し、逃げ、時にやり返したりもする。そういう争いも含めての「二にして一」なのである。
そこでは創造と破壊が区別されない、ということなのかもしれない。破壊が創造であり、創造が破壊である。破壊と創造を相容れない別々ものとしてしっかり区別しておきたいというのはロゴスの思考である。
破壊や創造という言葉が、あまりにもロゴスの世界の日常性を支える意味のコードに縛られているとすれば、別の言葉で考えてほうが良いだろう。
例えば、岩田氏は次のように書く。
一にして二、二にして一、この自由な転換。
ここで二者の競争・対立・争いは「象徴的二元的」な両極の関係として展開する。
人間対動物、人間対自然、人間対人間。
人がロゴスによって固定した対立項同士の宿命的な争いだと思っている二者の争いは、大方この象徴的二元性の両極の関係として、意味の世界の出来事なのである。
意味としての対立。これはつまりコスモスの世界において、ロゴスによって「対立だ」と認識された対立である。
そしてその底には、レンマからロゴスへと写像される無数の区別のうごめきと、コスモスがコスモスとしてパターンを、かたちを成しつつある流れ、うごめき、ゆらぎ、ざわめきがある。
意味すること、意味の発生としての対立する二極の分離と結合のひとつの現われとしての争いと、別の現われ方としての調和。
この分離と結合は象徴の生成と変容の動的な流れであり、それはコスモスの生成という観点から言えば「宗教的、儀礼的」な「ゲーム」であり、「卜占」である。ここでいう卜占はチャールズ・サンダース・パースのいう「推論」ということになるだろうか。
区別すること、二者を対立するものとして区別しつつペアとしてつなぐこと。
その区別のやり方とペアにするやり方は自由自在にゆるがし、動かすことができる。
ここに人間の自由、あるいは生命の自由がある。
岩田慶治氏は、この「一にして二、二にして一というもっとも基礎的にしてもっとも宇宙的な空間」のうえにこそ、人類の文化は「構築されなければならない」と書いている(p.287)。
近代の文化人類学の歴史のなかで、しばしば「文化」は「自然」に対立するものとして、「自然」を利用し管理し飼いならし活用するための人工的な技術的手段の体系のようなものと考えられてきた、と岩田氏は書いている。この場合、文化は自然を基礎として、その上に構築されているということになるわけであるが、そう考えるだけで良いのだろうか?
これが岩田氏の問題提起である。
文化の基礎は、自然ではなく、「一にして二、二にして一というもっとも基礎的にしてもっとも宇宙的な空間」なのである。
文化対自然という二極を対立させて考えるやり方もまた、この一にして二、二にして一の基礎の上に構築された「二」である。対立するペアは最初から分けられ対立しているのではなくて、分化対立以前のところから生まれてくる。この対立以前、一が二に分かれつつあるまさにその途上で、あるいはまた二が一へと帰っていくその主観に、破れたイメージとゆらぐ言葉の狭間にで無数に生まれては消える「象徴」たちによって「人間」がものを考えようとするのが、アニミズムということになるだろうか。アニミズムは「いのちの全体性を、その未だあらわれざるところ、未生のかたちをとらえようとする」思想であると岩田氏は書くのである(p.312)。