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『宮崎新聞』にみる千人針風景

 当時の新聞には、千人針風景が見事に描写されており、戦争への市民の高揚感が伝わってくる。ここでは、とりあえず昭和十二年七月から十月までの時期に、千人針の記述の見られる『宮崎新聞』の記事を眺めることで、当時の時代の雰囲気を理解したいと思う。

新聞①『宮崎新聞(夕刊)』昭和十二年七月二十日付
「 “千人針”の作成に 都高女生が街道進出 道行く人に呼びかく」「尽忠奉公を誓って北支に活躍しつつある吾が皇軍へ贈る銃後大和撫子の真心は澎湃(ほうはい)として燃え涙ぐましい迄に皇軍後援の誠を致しつつあるが、都城高等女学校生徒七百八十名は炎天下の街頭に立ち道行く人々に呼びかけて千人針を作成しつつあるが、この非常時風景に何れも感激している。」
都城高等女学校の当時の生徒だった方からの聞き取りでも、校内でなく、街頭に立って、千人針作りを行っていた、流れ作業で作るのはよくないという話が聞かれた。この時期には、街頭に立って、集めるものと考えられていたのであろう。別の地域では、校内で大量に作られた事例もあり、時期や地域によって違いが見られる。

新聞②『宮崎新聞』昭和十二年七月二十一日付
「銃後の街話 千里を走れ 愛婦支部と宮崎市役所 社中一記者」
「寅歳生れの懐妊婦人が千人針縫えば一騎当千の弾衣となるというので二十四歳、三十六歳の婦人は全国津々浦々でお針を持たされている。日向路でも宮崎都城両高女生をはじめ女学生。各団体婦人が総動員で千人針や慰問袋つくりに心づくしの愛国風景をえがき出しているが、二十日午前十時半炎天下にハイヤーを飛ばして宮崎市役所を訪れた二婦人は揃って寅歳生れの三十六歳で玄関右脇に移転した学務課室から課員らは『縁起がよい』と、北支事変最悪の事態へ我々独自の昂々の号外入りながら微笑した(後略)」
寅年生まれの懐妊婦人という条件は、珍しい事例であるが、地方にはこうした様々な条件が付加され、広がったものと思われる。

新聞③『宮崎新聞(夕刊)』昭和十二年七月二十一日付
「千人縫を求めて 高女生街頭へ進出 児童等は神宮祈願」「宮崎第一小学校一年生から六年生まで約一千二百名は二十日午前八時全先生に引率され宮崎神宮へ参拝、在支皇軍兵士の武運長久を祈った。また宮崎高等小学校生徒千名も同日午前八時半から宮崎神宮へ参拝皇軍兵士の祈願を行った。更に宮崎高等女学校一年生から四年生専攻科生は二十日街頭の焼きつくような陽をうけながら道行く人に千人縫を求め、宮崎市民一同を感激させた。」
「千人縫」という呼称は「千人針」に次ぐ全国的なものである。女学校一年生から四年生までが千人縫のために街頭に立っている。

新聞④『宮崎新聞』昭和十二年七月二十二日付
「延女校生も 千人針 作製に街頭へ」「北支事変は○○化してこれら敵前に活躍する我が将兵の激励慰問は各方面より慰問袋献金が委託されつつあって延岡市兵事係では愛国民の行為に感激をなしているが、二十一日は延岡高女生が市内各所に立って道行く人々に呼びかけ、愛国真心の千人針縫を行ったが、北支に活躍の兵士に送ることとなった」
街頭で作成した千人針は北支の兵士に別途送ったことから、具体的な兵士への千人針ではなく、不特定多数の兵士に送るために女学校で大量に作成したと考えられよう。

新聞⑤『宮崎新聞』昭和十二年七月二十三日付
「銃後の声援高潮 献金二千二十九円六十九銭 都連寄託(廿二日正午まで) 随所に湧く愛国美談」「(前略)(その六)都城高等女学校では北支の広野に活躍する戦士に送るため真心をこめて千人針を作成中であったが一部が出来上がったので二十二日司令部に第回一分(ママ)を寄託したが戦士達もその熱誠さにいたく感激していた」
ここでも作成した千人針は司令部経由で戦地へ送っている。

新聞⑥『宮崎新聞(夕刊)』昭和十二年七月二十三日付
「あたいも一針と 可愛いい小学児童 各所に描く愛国風景」「宮崎高等女学校生徒約三百五十名は数班に分れ一班はやきつくような橘通り専線舗道に立って道ゆく人に千人針の一針を依頼し、一班は小学校校門前に帰校の女生徒を捕えて幼い子供達からも赤誠の一針を受けているが、一班は製糸工場等の休憩時間を利用し女工さん達に一針づつを依頼するなど実に愛国の美しさを描き出している」
橘通や小学校校門前、工場などで千人針を受けていた。

新聞⑦『宮崎新聞(夕刊)』昭和十二年七月二十三日付
「車掌さん 千人針」「宮崎バス会社の車掌さん九十六名は目下仕事の余暇に千人針を行っている、また高鍋高等女学校一年生から四年生まで二十二日同地で街頭で千人針を道行く人に求め、うるわしい愛国風景を描いている」
会社単位でも千人針作成を行っていた。

新聞⑧『宮崎新聞(夕刊)』昭和十二年七月二十三日付
「勇士の越中を 女学生から贈る 宮崎技芸の全生徒」「宮崎女子高等技芸学校では非常時局に対する国民の熱意に刺激されて毎週の月曜日を節約デーと定め、お小使いを貯めた金で全校生徒三百八十名が白木綿を買い、可憐な愛国の情を傾けた千人針入りの褌三百八十枚を作成して北支、北満の第一線将士へ送ることとなった、既に十九日より作成を急いでおり二十四日には全部完成するはずであるが完成と同時に都城連隊区司令部に届けられるはず」
「千人針入りの褌」という事例は珍しい。日露戦争の際の事例を宮武外骨が記しているが、詳細は不明であった。(註3)

新聞⑨『宮崎新聞』昭和十二年七月二十四日付
「染めた国旗 十五枚を献納する明道校児童 愛国の至誠に感激」
「皇威宣揚の国民的熱情は今や高潮に達し幾多の感激的なニュースが毎日の如く伝えられているが、都城明道小学校児童達は今回の事変について種々先生から話を聞かされ暴虐なる支那の態度に憤怒を感ずると共に童心にも誠忠の赤心は熾烈に燃え、皇軍へ贈るために日の丸の赤を千人針の赤糸で染め抜いた国旗十五枚を児童の手で作成中であったが、この程完成したので近く森山校長が此の児童の赤誠を司令部へ届けることになって居るが職員達も児童の愛国的至情に痛く感激している」
「日の丸の赤を千人針の赤糸で染め抜いた国旗」の事例は把握していたが、小学校で作成されていたことは貴重な事例である。

新聞⑩『宮崎新聞』昭和十二年七月二十四日付(二頁)
「千人針が 街頭氾濫 富高地方女生」「北支事変と共に富高地方には千人縫いの群が街頭此処彼処に現れているが富高実業学校女子部と第一富高校女子生徒が今や全町に氾濫して通行の婦人を捉えて千人縫をなしているが捉えられた婦人は吾先きにと針を取る有様は北支における皇軍の労苦を遙に思いを馳せて一針を縫う愛国の至情には何れも敬虔の■湧然として湧き出づるものがある(富高)」
日向市においても「千人縫い」と呼ばれ、盛んだった。

新聞⑪『宮崎新聞』昭和十二年七月二十九日付
「県民極度に緊張して 神宮参拝三万人 御符を受けたものも約千人 街頭に活躍の女性」「(前略)また市内街頭通り繁き処には愛国心に燃えたつ女学生が婦人に千人針を求め宮崎駅、花ヶ島駅、大淀構内でもこれ等女学生の雄々しい姿がみうけられ非常時意識が全市にみち溢れているが宮崎技芸女学校全生徒は二十六日越中褌を三百五十枚千人針三百三十八枚を在支皇軍将士宛に発送、皇軍、将士の志気を高めている。(後略)」
宮崎駅・花ヶ島駅などの駅でも千人針風景が見られた。

新聞⑫『宮崎新聞(夕)』昭和十二年七月二十九日付
「慰問袋や千人針作成」「宮崎郡佐土原校ではさきに職員・生徒全部佐土原神社に参拝を前に整列して皇城遙拝後戦勝祈願祭を執行し皇軍の武運長久をいのり原田校長の北支事変に関する講話と生徒の執るべき覚悟等につき諄々として訓諭があり茲(ここ)に生徒等は愛国の至情に駆られ自発的に児童に■しき慰問袋の寄贈をなすものや女子では千人針のやさしき思い立ちやそれぞれ赤心こめた小国民の健気な心尽に一般を感激せしめている」
あくまでも自発的に思い立ったことが強調されている。

新聞⑬『宮崎新聞』昭和十二年八月七日付
「やさしい手紙に 添えて贈る千人針 出稼ぎ娘の国家愛」
「今や日支事変をめぐる銃後の熱誠は最高潮に達せんとしている、このとき又健気な女性が二人あった、それは今姫路の東洋紡績に働いている西諸県郡須木村出身の女工平田百合子と永井ミサエさんの二人である、去る五日次のようなやさしい手紙と共に千人針を送り池田村長含め吏員一同を感激せしめている(後略)」
個人で作成した千人針を役場に届けた事例である。

新聞⑭『宮崎新聞』昭和十二年八月七日付
「女給さんの千人縫」「延岡市カフェー、キリン女給さん達が千人縫六枚を五日市兵事課に託した」
ここでも作成した千人針を役場に届けている。

新聞⑮『宮崎新聞』昭和十二年八月十三日付
「血染のハンカチと千人針献納 ベ社女工さんの誠心」「北諸県郡庄内町出身現延岡旭ベンベルグ女工して働いている吉田ハツ子さん(二〇)は自分の町から入営者があるとの由を知り、薄給をさいて白木綿一反を買い千人針と血染のハンカチ七枚を作成して赤き誠を司令部を通じて献納したが係官も乙女の至情に痛く感激していた」
白木綿一反から千人針を作成したことが分かる。血染めのハンカチは全国的に行われた。

新聞⑯『宮崎新聞』昭和十二年九月二十三日付
「延岡高女生の 千人針を貰う 銃後の赤誠に感謝」「○地へ上陸し西南方面の敵と対抗して居りますが、逐次敵兵の姿も消えて行きます。昨日は郡司部隊全員の追撃が行われました。(中略)それから先日水安紡績工場に○○した際、延岡高等女学校からの千人針をいただきました、全員腹に締め込んでいますが、銃後の熱誠なる御後援に深く感謝しています(上海に活躍する宮崎郡田野村本社支局長安藤栄七氏の通信)
作成した千人針が実際に戦地の兵士に届けられていた例である。

新聞⑰『宮崎新聞』昭和十二年九月三十日付
「千人針六枚で 六千人力だ 元気百倍の安藤君」「宮崎郡田野村出身安藤栄七氏は上海方面の戦闘に活躍しているが、こまごまと現地の模様を郷里に留守居の妻ハツさんに宛て通信した。
今日は十三かね、日付も忘れるような気がする、上陸早々○名の負傷者を出したが其後皆元気で西南から夜に入るとボツボツ出てくる支那兵と戦っているがやはり大演習のような気持で弾が飛んで来るのも平気だ、(中略)助役さんの奥さんや鳥山先生、和気さんや皆さんによろしく、千人針六枚を身につけて六千人の力をいただいて元気百倍、皇国のために働く。」
個人に六枚の千人針が送られ、すべてを身につけていたことが分かる。

新聞⑱『宮崎新聞』昭和十二年十月十六日付
「愛妻の心をこめた千人針・・・敵弾にあッと倒れた 兵士が城内突入 不思議・・・奇蹟幸運の勇士 感激して華々しく活躍」
「新樂十五日発同盟】去る八日夜の正定攻撃に又も千人針の奇蹟が起った・・・。我が砲弾の炸裂、紅蓮の焔が夜空を焦がし、神田、猪木両部隊が攻撃を続けているとき一名の兵士が二丈余りの城壁に縄梯子をかけて猿の如くかけ上った。敵弾は、雨、霰(あられ)と飛んで来る。あっと兵士は叫んでどっとなかり城壁上に倒れたが・・・と一瞬にしてむくむくと起上って城内めがけて飛び込んだ弾丸は右腹部に当ったのであるが何と云う奇蹟であろう、弾丸は愛妻が心をこめて仕上げてくれた千人針の糸と糸との間二本を抜いて左腹部に収めてあった伊勢大神宮の御札が二つに割れている。弾丸は更に右袖を抜いているのだが腹部は勿論何処にもかすり傷一つでもできていなかったのだ(後略)」
当時の人々の千人針に対する送る側、送られる側の気持ちが記されている。

以上、昭和十二年七月から十月までの千人針に関する記事を紹介してきたが、この後も記事は散見されることと思うが、このあとの新聞記事調査については、今後の課題としたい。

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