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千人針と観音さま 山ノ井晃道

(前略)

千人針の腹巻きは弾丸よけに用ひられると一般に信じられてゐる。都会田舎を問はず私達はこの千人針風景を眼のあたり見てゐる。一針々々の赤い糸の結び目は緋絨(ひおどし)の鎧の堅固さを想像させる。誰れも知つてゐるやうに千人針は千人の女性の手によつて縫はれねばならない。これは女性のみが持つ「いみきらひ」所謂タブーの呪力を意味してゐるのではなからうか、又寅歳生れの女性は自分の年齢数だけ縫ふことが許される。「虎は千里行つて千里かへる」との俗信に由来してをゐるとのことである。或人は云ふ。「千人針は迷信である。」と、又云ふ、「弾丸よけの千人針などは生還を期せざる帝国軍人の所持すべきものではない」と。私はさうは思はない。千人針は迷信でもなく、又之を所持するのは決して軍人の恥辱ではない、私はこの千人針に観世音菩薩の慈悲を排するものである。

惑値怨賊遶 各執刀加害 念彼観音力 咸即起慈心 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壊 ・・・・・ 怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散

この観世音菩薩の加被力こそ千人針真精神でなくしてなんであらう。「弱き者こそ強い」と云ふ矛盾命題は宗教の世界の真理である。我慢の心のみ徒に強く自己の弱さを反省しない者には、おそらく観音の大慈悲が解らないであらうし、かゝる人々には信仰の芽生も阻まれるであらう。忠勇なる兵士とても、一個の人間として切り離して見れば、いのちが惜しい弱き凡夫であらう。弱き人間としての兵士が弾丸よけの千人針の腹巻きで身を守らうとするのは極めて自然である。殆どすべての兵士は千人針の腹巻をおびて、戦つてゐることであらう。しかも私は千人針故に日本の兵士が弱くなつたと云ふことを聞かない、見よ、毎日の新聞に報ぜられる決死的奮闘を、宗教の妙用も、人間の深き精神生活も解せざる武弁や唯物論社は、千人針は勿論、兵士が肌身を離さない神社仏閣のお守を否定し迷信よばりしてゐる。自分一個の身を護らんとする安全感は、単なる保身危険よけに終始するものではない。いざ敵前に立ち上り検電弾雨の修羅場にさらされる時、弾丸よけの安全感、観世音菩薩の大悲は弱き人間としての個人をすつかり止揚する。兵士は機関銃座へ向つての突撃も辞しない。尽忠奉国の至誠一徹に燃えあがる。千人針の腹巻に身を固めた百万の兵士は、必ずしも仏教の専門家の如き観世音菩薩の信者でもなく、又一ぺんの名号すら念じないであらう、しかも私は戦争と千人針に、観世音菩薩の慈悲の妙用を拝するものである。(後略)

『観音世界』第一巻第十号、観音世界運動本部、昭和十二年十二月

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