宮崎新聞にみる宮崎県の千人針事情
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月18日付
「神武の原頭に 愛国千人針 在支将兵に贈らる」
「銃後の護りは私達の腕で」と甲斐甲斐しく叫んで起った国防婦人会宮崎支部福島支部長ほか会員五百名は十七日午前七時四十分宮崎神宮へ集合、午前八時から社頭で心からなる北支駐屯軍将兵の武運長久を祈ったが、さらにそれを同時に神宮第一鳥居脇で千人縫を行って非常時の国■婦人の意気をみせている。早朝からの人々で一人一人による厚い愛国心に千人縫の完成も近いがこれは総て直ちに在支将兵送るのである。
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月18日付
「「軍国色」に塗られた けさの神宮社頭 三千の国婦に中等学生を加え 赤誠の祈願行わる」
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月18日付
「愛国婦人会員の千人針(宮崎神宮社頭で)」〔写真〕
○『宮崎新聞』昭和12年7月19日付
「県下愛国熱 準戦時風景を生む」「北支緊迫とともに県下各地に愛国の絵巻が繰りひろげられ準戦時の風景を描いている。◇宮崎郡清武村国防婦人会が街頭で十七日から千人縫いを行い愛国熱をあぶっている。(後略)」
○『宮崎新聞』昭和12年7月21日付
「銃後の街話 千里を走れ 愛婦支部と宮崎市役所 社中一記者」
「寅歳生れの懐妊婦人が千人針縫えば一騎当千の弾衣となるというので二十四歳、三十六歳の婦人は全国津々浦々でお針を持たされている。日向路でも宮崎都城両高女生をはじめ女学生。各団体婦人が総動員で千人針や慰問袋つくりに心づくしの愛国風景をえがき出しているが、二十日午前十時半炎天下にハイヤーを飛ばして宮崎市役所を訪れた二婦人は揃って寅歳生れの三十六歳で玄関右脇に移転した学務課室から課員らは『縁起がよい』と、北支事変最悪の事態へ我々独自の■」
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月20日付
「“千人針”の作成に 都高女生が街道進出 道行く人に呼びかく」
「尽忠奉公を誓って北支に活躍しつつある吾が皇軍へ贈る銃後大和撫子の真心は澎湃(ほうはい)として燃え涙ぐましい迄に皇軍後援の誠を致しつつあるが、都城高等女学校生徒七百八十名は炎天下の街頭に立ち道行く人々に呼びかけて千人針を作成しつつあるが、この非常時風景に何れも感激している。」
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月21日付
「千人縫を求めて 高女生街頭へ進出 児童等は神宮祈願」
「宮崎第一小学校一年生から六年生まで約一千二百名は二十日午前八時全先生に引率され宮崎神宮へ参拝、在支皇軍兵士の武運長久を祈った。また宮崎高等小学校生徒千名も同日午前八時半から宮崎神宮へ参拝皇軍兵士の祈願を行った。更に宮崎高等女学校一年生から四年生専攻科生は二十日街頭の焼きつくような陽をうけながら道行く人に千人縫を求め、宮崎市民一同を感激させた。」
○『宮崎新聞』昭和12年7月22日付
「延女校生も 千人針 作製に街頭へ」「北支事変は○○化してこれら敵前に活躍する我が将兵の激励慰問は各方面より慰問袋献金が委託されつつあって延岡市兵事係では愛国民の行為に感激をなしているが、二十一日は延岡高女生が市内各所に立って道行く人々に呼びかけ、愛国真心の千人針縫を行ったが、北支に活躍の兵士に送ることとなった」
○『宮崎新聞』昭和12年7月23日付
「銃後の声援高潮 献金二千二十九円六十九銭 都連寄託(廿二日正午まで) 随所に湧く愛国美談」
「(前略)(その六)都城高等女学校では北支の広野に活躍する戦士に送るため真心をこめて千人針を作成中であったが一部が出来上がったので二十二日司令部に第■分を寄託したが戦士達もその熱誠さにいたく感激していた」
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月23日付
「あたいも一針と 可愛いい小学児童 各所に描く愛国風景」
「宮崎高等女学校生徒約三百五十名は数班に分れ一班はやきつくような橘通り専線舗道に立って道ゆく人に千人針の一針を依頼し一班は小学校校門前に帰校の女生徒を捕えて幼い子供達からも赤誠の一針を受けているが、一班は製糸工場等の休憩時間を利用し女工さんt達に一針づつを依頼するなど実に愛国の美しさを描き出している」
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月23日付
「松検の姐さん 街頭に進出 憂国の一針を依頼」
「宮崎市松山■■達も二十二日市内各所へ島田に姐さんかぶりと言った、小粋な姿で出勤して三味を持つ手に白布を持ち街路の婦人に一針を頼んでいたが非常時らしい異彩を放っている」
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月23日付
「車掌さん 千人針」
「宮崎バス会社の車掌さん九十六名は目下仕事の余暇に千人針を行っている、また高鍋高等女学校一年生から四年生まで二十二日同地で街頭で千人針を道行く人に求め、うるわしい愛国風景を描いている」
○『宮崎新聞(夕刊)』昭和12年7月23日付
「勇士の越中を 女学生から贈る 宮崎技芸の全生徒」
「宮崎女子高等技芸学校では非常時局に対する国民の熱意に刺激されて毎週の月曜日を節約デーと定め、お小使いを貯めた金で全校生徒三百八十名が白木綿を買い、可憐な愛国の情を傾けた千人針入りの褌三百八十枚を作成して北支、北満の第一線将士へ送ることとなった、既に十九日より作成を急いでおり二十四日には全部完成するはずであるが完成と同時に都城連隊区司令部に届けられるはず」
○『宮崎新聞』昭和12年7月24日付
「染めた国旗 十五枚を献納する明道校児童 愛国の至誠に感激」
「皇威宣揚の国民的熱情は今や高潮に達し幾多の感激的なニュースが毎日の如く伝えられているいるが、都城明道小学校児童達ちは今回の事変について種々先生から話を聞かされ暴虐なる支那の態度に憤怒を感ずると共に童心にも誠忠の赤心は熾烈に燃え、皇軍へ贈るために日の丸の赤を千人針の赤糸で染め抜いた国旗十五枚を児童の手で作成中であったがこの程完成したので近く森山校長が此の児童の赤誠を司令部へ届けることになって居るが職員達ちも児童の愛国的至情に痛く感激している」
○『宮崎新聞』昭和12年7月24日付(2)
「八十五万全県民が 忠烈一如の誓い 皇威宣揚、皇軍健勝祈願祭を 八月一日一斉に執行」「北支事変に処する八十五万の忠烈一如を如実にして宮崎県では来る八月一日各市町村一斉に皇威宣揚皇軍健勝祈願祭を行うことになり、二十三日社寺兵事課から左の如く平間社寺兵事課長名を以て通牒を発した
今次の北支事変に際し挙国一致皇国の使命の達成に努むることの肝要なるを思い来る八月一日を期し県下各市町村一斉に市町村無い鎮座官国幣社以下各神社において国威の宣揚と皇軍の健勝を祈願する祭典を執行することとなりました。時局に鑑み市町村■各位が多数参列され右祭典の意義を全うせられんことを希望致します」
○『宮崎新聞』昭和12年7月24日付(2)
「千人針が 街頭氾濫 富高地方女生」
「北支事変と共に富高地方には千人縫いの群が街頭此処彼処に現れているが富高実業学校女子部と第一富高校女子生徒が今や全町に氾濫して通行の婦人を捉えて千人縫をなしているが捉えられた婦人は吾先きにと針を取る有様は北支における皇軍の労苦を遙に思いを馳せて一針を縫う愛国の至情には何れも敬虔の■湧然として湧き出づるものがある(富高)」
○『宮崎新聞』昭和12年7月25日付
「郷土色豊かな 榎原様の夏祭り 八月一日は宵祭り」
「ローカルカラー■な日南における夏祭りの豪華祝■・・・郷社榎原神社の祭典は八月一日宵祭りから翌二日にかけてその静かな古典床しき式典の■を繰りひろげるが東亜の風雲将に急を告げみなぎる国防非常色に皇軍激励や在満支出征将兵の武運長久祈願参詣人で近時各地から素晴らしい人手を見せるなど銃後に赤誠は燃えさかり赤心報国に国民等しくハリキッている折柄であり来るべき祭典当日の同神社頭は各地からの参詣人で例年にない非常な■賑が予想され国鉄志布志線は車両連結の臨時列車を運転一般参詣客の便宜に備えるはずで社務所では森山宮司以下早くも祭礼準備に大童となっている(油津)」
○『宮崎新聞』昭和12年7月29日付
「県民極度に緊張して 神宮参拝三万人 御符を受けたものも約千人 街頭に活躍の女性」
「北支事変再悪化にともない県民はさらに緊張の色濃く県下等しく戦時体制下にあるが二十八日の宮崎神宮参拝者は俄に激増して早朝来からひっきいりなし在支将兵武運長久祈願社在郷軍人、国防婦人、愛国婦人、市内、各区民等約三万人と云われ遠く農村からも続々参拝している。また市内街頭通り繁き処には愛国心に燃えたつ女学生が婦人に千人針を求め宮崎駅、花ヶ島駅、大淀構内でもこれ等女学生の雄々しい姿がみうけられ非常時意識が全市にみち溢れているが宮崎技芸女学校全生徒は二十六日越中褌を三百五十枚千人針三百三十八枚を在支皇軍将士宛に発送、皇軍、将士の志気を高めている。なお神宮の御符を受けたものも正午までに約千人の多きに達している。」
○『宮崎新聞(夕)』昭和12年7月29日付(3頁)
「未明から正午までに 五万人の参拝者 しの突く雨中に宮崎神宮へ お賽銭が千円突破!!!」
「北支事件勃発と同時に街から津々浦々に至るまで千人針を依頼する人達で非常時の美しい情景を描いているが同時に宮崎神宮における将兵の武運長久を祈願する人達も日についで増加し参道は恰も終日蟻の行列の観を呈しているが二十八日は土砂降りの雨の中を意ともせず各町村区民官庁団体の祈願社が未明からまるで精米器の口から吐きだされる米の如くで正午までにはすでに三万人の参拝者を突破し御守御符は羽が生えた如く八百五十を越えるに至った。午后は市内在住者よりも郡部からの参拝者が多く、児湯郡、東諸県郡方面から子供を背負って篠付く雨の中に一心に祈願した。参道の両側には女学生、国防婦人会員が参拝者の一人一人を捉えて千人針を依頼していたが、日没までの参拝者は五万一千人で近来にない記録を作り夕刻までの御守の売上げは二千三百枚お賽銭の上り高は千円を越したと云われている(写真上は郡部から押寄せた参拝者、下は■の御札授与所と千人針を縫う乙女)
○『宮崎新聞(夕)』昭和12年7月29日付
「慰問袋や千人針作成」
「宮崎郡佐土原校ではさきに職員・生徒全部佐土原神社に参拝を前に整列して皇城遙拝後戦勝祈願祭を執行し皇軍の武運長久をいのり原田校長の北支事変に関する講話と生徒の執るべき覚悟等につき諄々として訓諭があり茲(ここ)に生徒等は愛国の至情に駆られ自発的に児童に■しき慰問袋の寄贈をなすものや女子では千人針のやさしき思い立ちやそれぞれ赤心こめた小国民の健気な心尽に一般を感激せしめている」
○『宮崎新聞』昭和12年7月30日付
「きょうもまた 神宮参拝一万人 御守も四千に上る」
「戦時体制下にある二十九日の宮崎市は雨に包まれながら重苦しい緊張の色が溢れ、いやがうえにも高潮した、銃後の雄々しい風景を点殺している、この日官幣大社宮崎神宮は二十八日より以上の皇軍兵士武運長久祈願参拝者で雨に濡れた神武参道社頭は雨傘のオンパレードで大混雑を示し社務所当局も非常な緊張味を帯びている。参拝者の多くは在郷軍人、国婦、愛婦、各団体、一般市民で正午までの参拝者一万人に上り由緒深い神符を御受けしたもの約四千人で大淀―神宮間の宮崎バスは二分間置きの臨時増発を行っている、この他有名な住吉神社参拝者も雨中をついて続々と参拝を行っている」
○『宮崎新聞(夕)』昭和12年8月5日付(2)
「女軍を向うに廻して 男千人力日章旗 後藤県耕地課長が提言して 皇軍将兵宛に贈る」
「耕地課では後藤課長の発案で街頭女軍の千人針の向うを張って男千人力の日章旗を十枚作成し皇国のため極暑の北支に活躍中の我が萱島部隊に送ることとなったこの千人力日章旗は後藤課長が過般の上京の途次広島において傍見したもので婦人達の千人針は多いが銃後男子の力に依る前線部隊支■も必要なりとして長野主事以下全課員を督励して四日よりこれが作成に取掛ったこの千人力は三尺四方の白木綿の日章旗に力の文字を墨で千人の男子に書いてもらうもので初筆を知事か部長かに依頼するはずである」
○『宮崎新聞』昭和12年8月7日付
「やさしい手紙に 添えて贈る千人針 出稼ぎ娘の国家愛」
「今や日支事変をめぐる銃後の熱誠は最高潮に達せんとしている、このとき又健気な女性が二人あった、それは今姫路の東洋紡績に働いている西諸県郡須木村出身の女工平田百合子と永井ミサエさんの二人である、去る五日次のようなやさしい手紙と共に千人針を送り池田村長含め吏員一同を感激せしめている
「暑中お見舞い申し上げます。お優しい村長様暑さ厳しい折柄でございますが皆様にはお変わりなく我々村民のために御骨折り下さることと存じます。私達も故里を後にして此処に来てより毎日元気にて国家産業戦線に立って一生懸命に働いております故ご安心くださいませ、ついては突然粗筆にてこんな事をお書きしてお恥ずかしい事で御座居ますが、今度北支事変については全国民一致協力して御国のために尽くさなければならない時がまいりましたのに私達も同じ日本女性と生まれておりながらこの弱い細手ではつまらない者にはどうする事も出来ない私達で御座居います(中略)此処に粗末ながら千人針をわづかばかりですが、お送り致しますから御面倒ながら宜敷く御願い致します(中略)私達は男子のように戦さに行って奉公することは出来ませんが自分が勤むる業に一生懸命にはげんで皆様の万分の一なりと思いゆるめる我が心に■って精進しております、今は家の事情で工場生活など致しておりますが何れは故里に帰り又農村の乙女として大自然を友に働かして■くつもりです(後略)」」
○『宮崎新聞』昭和12年8月7日付
「富高にも『千人力』 芳野さん奉仕」
「男の千人力――富高町芳野一郎さんは四五日前から長い布に一字一字の■■を示しこの中に力という字を通行の男子から書いて貰っているが千人の男の力を合わせて一つの日の丸国旗を造るもので、女の千人針に対抗して男の千人力として皇軍に贈るのだとある(富高)」
○『宮崎新聞』昭和12年8月7日付
「女給さんの千人縫」
「延岡市カフェー、キリン女給さん達が千人縫六枚を五日市兵事課に託した」
○『宮崎新聞』昭和12年8月7日付
「『千人力』作製 延中生も街頭へ進出」
「女工さんや女学生さん達が皇軍兵士へ千人縫、慰問袋などを贈って愛国熱の溢れている折柄、延中生が『千人力』をつくって千人縫にかえて皇軍兵士に送らんと街頭で人々に『一筆づつ書いて下さい』と呼びかけている、千人力は白木綿に『力』と一字づつ千人から書いて貰って千人の赤誠をこめるのであるが、勇士をして一層力づけさせることだろう・・・工都延岡の非常時風景も緊張味を帯びてきた」
○『宮崎新聞』昭和12年8月12日付(3)
「敵弾よけの お守が寄付された 慰問袋へ入れましょう」
「北支事変緊迫とともに国民銃後の熱意は火と燃え国防献金や皇軍慰問金。街々には千人針、千人力に沸きかえっている時、また一つ心強い銃後の話題が発表された。それは現陸相杉山大将も日露戦争出陣の際、軍帽に貼って行かれたという、敵弾除けのお守『サムハラ』が日清日露の役を初め満州、上海事変にも幾多の奇蹟的な実例があることを予て聞いていた仁丹本舗主森下博氏が今回の北支事変に当っても是非皇軍の方々に差上げたいとの念願から、わざわざ石清水八幡宮に祈願をこめて広く寄付を発表したことである。希望の人は誰でも送料を同封して申込まれるとよい」
○『宮崎新聞』昭和12年8月13日付
「血染のハンカチと千人針献納 ベ社女工さんの誠心」
「北諸県郡庄内町出身現延岡旭ベンベルグ女工して働いている吉田ハツ子さん(二〇)は自分の町から入営者があるとの由を知り、薄給をさいて白木綿一反を買い千人針と血染のハンカチ七枚を作成して赤き誠を司令部を通じて通じて献納したが係官も乙女の至情に痛く感激していた」
○『宮崎新聞』昭和12年8月18日付
「敵弾封じの不思議な御守」
「現陸相の杉山大将も日露役に軍帽の中へ入れて出陣され、日清日露、満洲、上海事変と、いつも戦場で不思議な霊験を顕し殊に日露奉天の戦いで決死隊として万死を期した加茂町出身の前原遼平氏が唯一人微動も受けなかったという縁りの『サムハラ』の御守を今度仁丹本舗では皇軍将兵のため広く一般に無代で贈呈することとなり時節柄非常に時宜に適した好計画とせられている」
○『宮崎新聞(夕)』昭和12年8月18日付
「後藤県耕地課長の発言で作成に着手、日州健児の力をシンボライズした千人力、日章旗十三枚は耕地課全員の努力が実を結んで十六日迄完成した。先づ相川知事の健筆を仰いで以来二週間。非常時局の事務多忙の中に部長、課長を始め各課を歴巡して庁員全部の一筆を求め、不足のところは街頭に進出して文字通り銃後の赤誠を傾倒して完成を見たものであるが、十七日後藤課長、長野主事は晴の日章旗を携えて社寺兵事課を訪い北支皇軍への発送方を依頼した(写真は晴の日章旗)」
○『宮崎新聞(夕)』昭和12年8月25日付
「婦人評論 事変を彩る千人針佳話 村松敏子」
「北支事変突発以来、街には銃後を守る女性達の手によって、千人針があとをたたず、此処にも国民の熱誠をまのあたりみる感激がある。
千人のまことをこめた腹巻をしていれば、弾丸も通らぬという、その由来の科学的根拠はともかくとしても、これは、殺伐な戦争をいろどる美しい花のような情緒である。
ある友達が最近自分の身内の出征するものに送るため街頭に立ったが「千人針をやっていると初めて色々な人の心の奥をのぞくよう■
足をとどめて之を縫う人々、その一すじの糸を通じて互いに相手のことも、それを送られる人のことも何一つ知らぬながら、その瞬間だけは、純粋に遠い戦地の兵士達をしのぶ感情によって結ばれているのである。
ある夕暮であった。
街角に、千人針を持って立つ二人連れの小さな男の子がいた、年の頃は六つと三つ位で顔立ちがよく似ているので、兄弟であろう、そこへ立ち止まった一人の中年の婦人は、糸をとりあげながら
『坊ちゃんのお家ではどなたが出征なさるの?』
と尋ねた。すると大きい方の子供は廻らぬ口で漸く
『父ちゃん』だと答えた。婦人は、うなづいて、一針を縫い終わったが、たえきれぬように一しづくの涙がほろほろと手に持った布の上にこぼれた。
『御免なさいよ』婦人は涙の顔でほほえんで、布を子供に返すと静かに立ち去っていった。
その光景を目撃した私は、いつか自分も目があつくなって来るのを感じた。
人間のまごころ、しみじみと触れた思いであった
このほど新聞に、上海の航空戦に華々しい武勲を立てた岡島大尉の厳父岡島少将が、愛息があっぱれ武運強く働いてくれるようにと老の良を自ら街頭に立って千人針をつくって送ったという話しが出ていたが、いかにも父親らしい慈愛が本当に良いお父さんを想像させて気持ちがよかった
文士の中村地平氏も無骨な手を差し出して街頭で婦人に千人針を依頼し令兄に贈ったという
嘗つて文学博士辻喜之助氏が高松宮様の思召を拝して『日本人は好戦国ではない』という著書をあらわし、諸外国に配ったことがあるが如何なる時にも芸術的な情操を忘れ得ないのが日本人である、一度銃を取って立てば勇猛果敢、世界を戦慄させるその超人的な活動振りが好戦国の如き感を諸外国人に与えたが、実は虫一匹も殺したくない人情にもろい日本人の国民性は斯かる事変に際してもこうした処々に現れていると思う。」
○『宮崎新聞』昭和12年9月7日付
「軍の神 竹谷神社 八日祈願祭」
「延岡市東海軍の神として入営兵士の武運長久祈願の為、参拝者のたえまない竹谷神社では八日午前九時より祈願祭を行うこととなった当日奉納の神楽は鎮守の舞、剱の舞、弓矢の舞、岩戸の式等が行われるので遺家族多数参拝されたしと」
○『宮崎新聞』昭和12年9月23日付
「延岡高女生の 千人針を貰う 銃後の赤誠に感謝」
「○地へ上陸し西南方面の敵と対抗して居りますが、逐次敵兵の姿も消えて行きます。昨日は郡司部隊全員の追撃が行われました。上海上陸迄約三里の追撃にて相当激しい旧追撃でしたが夕刻より雨が降り出したので皆濡れて帰りました、然し一名の負傷者もなく将兵皆元気旺盛です。我々の今一番困っていることは水が思う様使われないこと、井戸はありますがほとんど内地のドブ水の様な水で生水は絶対に飲まれません。それから煙草がなくなっていること、支那兵及び馬の死体の腐敗したのが鼻持ちならず、蝿が非常に多く、食器、その他の食べ物は一寸も油断なりません。現在の宿営地付近は今水稲が刈時となっていますが、支那人は一人も居りません。残っているのは犬と猫、鶏が所々居ります、作付の主なるものは綿であります、水稲も相当な出来栄えです。それから先日水安紡績工場に○○した際延岡高等女学校からの千人針をいただきました、全員腹に締め込んでいますが銃後の熱誠なる御後援に深く感謝しています(上海に活躍する宮崎郡田野村本社支局長安藤栄七氏の通信)
○『宮崎新聞(夕)』昭和12年9月23日付
「歴史に輝やける 神武の森・宮崎神宮 玉砂利につづく・・・・麗しき非常時風景」
「官幣大社宮崎神宮といえば八十五万県民中三歳の幼子もこれを知っているに違いない。
それほど宮崎神宮は県民にとってゆかりの深い神宮である。今時北支の風雲急を告げ一色触発の重苦しい風雲低迷し皇軍が敢然正義の楯を執るや、国家の安泰と皇国の武運長久を祈願する人の群れをなした。ことに我が郷土部隊が威風堂々として北支の野に向う報伝わるや一般家庭は勿論、国防婦人会、愛国婦人会その他一般団体等が一日数千と押しかけて折からのしのつくような風雨をも厭わず一心に将兵の武運長久を祈願し、いまなお終日祈願者が絶えない有様である。殊に玉砂利の参拝道の両側に立って参拝者の婦人に千人針の一を依頼する姿は実に美しいものではっきりと祖国日向の神苑にふさわしい非常時の風景を描き出していた。」
○『宮崎新聞』昭和12年9月30日付
「千人針六枚で 六千人力だ 元気百倍の安藤君」
「宮崎郡田野村出身安藤栄七氏は上海方面の戦闘に活躍しているが、こまごまと現地の模様を郷里に留守居の妻ハツさんに宛て通信した
今日は十三かね、日付も忘れるような気がする、上陸早々○名の負傷者を出したが其後皆元気で西南から夜に入るとボツボツ出てくる支那兵と戦っているがやはり大演習のような気持で弾が飛んで来るのも平気だ、昨日は日本の飛行機が敵の重な所に爆弾を落して朝から晩まで火災で曇っていた、只今○○○という村にいるが、支那の子供も居らない、残っているのは犬ばかりだ、十二日午後八時ごろ曹長以下の○名で○○本部に伝令に行って自分と得野上等兵が今朝までいて帰って来た、昼はたいしたことはない、夕方からボツボツ敵が出て来る、上海も長くはないだろう、支那の家は空家ばかりで何もかも捨て全部留守だ、実に哀れなものだ、十一日子供たちの夢を見たが悪いことはないか、元気にしていなさい、七日からまだ一度も風呂に入らないが、その割合に気持は悪くないよ、チサちゃんが行く様に言って来たら風呂場を作って貰いなさい、助役さんの奥さんや鳥山先生、和気さんや皆さんによろしく、千人針六枚を身につけて六千人の力をいただいて元気百倍、皇国のために働く。」
○『宮崎新聞』昭和12年10月16日付
「愛妻の心をこめた千人針・・・敵弾にあッと倒れた 兵士が城内突入 不思議・・・奇蹟幸運の勇士 感激して華々しく活躍」
「新樂十五日発同盟】去る八日夜の正定攻撃に又も千人針の奇蹟が起った・・・。我が砲弾の炸裂、紅蓮の焔が夜空を焦がし、神田、猪木両部隊が攻撃を続けているとき一名の兵士が二丈余りの城壁に縄梯子をかけて猿の如くかけ上った。敵弾は、雨、霰(あられ)と飛んで来る。あっと兵士は叫んでどっとなかり城壁上に倒れたが・・・と一瞬にしてむくむくと起上って城内めがけて飛び込んだ弾丸は右腹部に当ったのであるが何と云う奇蹟であろう、弾丸は愛妻が心をこめて仕上げてくれた千人針の糸と糸との間二本を抜いて左腹部に収めてあった伊勢大神宮の御札が二つに割れている。弾丸は更に右袖を抜いているのだが腹部は勿論何処にもかすり傷一つでもできていなかったのだ、この幸運な勇士は神田部隊に配属せられている通信手南条正成君(二六)だ、同君は神戸市港区東■街五ノ七十一番地で、二、三年前結婚した愛妻淑子(二二)さんとささやかな愛の巣を営み、自動車の運転手をしていた今度の事変で遠く征途につくべき召集をうくるや早速淑子さんを伴い伊勢大廟に参拝何卒日本男子として戦場で立派な働きが出来ますようにと心をこめて祈願した、この時神前で淑子さんは心をこめて仕上げた千人針を取り出しこれは僅な暇に木綿で作った見事な千人針だ、南条君は愛妻の心をつくしたこの千人針をその場でキリッと腹に巻込み共に、神前にぬかづき内宮の御礼を有難くいただき、八日一日出発征途につき万里の長城を越えて北支を縦横に活躍していたが南條君は今更ながら神の加護と愛妻の心つくしによる千人針の奇蹟に感激して第一線に花々しく活躍を続けている