返答に困るのは
わとりの両親はわとりが成人した後に離婚していて、その後は父の機嫌を取るために私を生贄にし続けた母とそれを見て育った弟と暮らしていました。
父からの性的虐待はなかったけれど(多分)、父は女には勉強は必要ないと言って私の高校進学に猛反対したし、里帰り出産で生まれた私を半ば「自分の知らない子供」として扱いました。母はそんな父の機嫌を損ねないよう、私を他の兄弟(彼らは父がすぐ行ける病院で生まれました)と区別して扱ってきました。
自分(たち)の老後を面倒みさせる駒として落ち着いたんだなぁと思います。
こういうのを「搾取子(さくしゅこ)」って言うらしいですね。
自分が家族の中でそう扱われてきたことを自覚するのも、とても、とても辛いことです。
この父母や兄弟に、トラウマケアのサポートを期待するのはどうあっても無理だったので、この人たちは両親よりまともなのでは、と期待して母方の伯父へ手紙を書いたことがありました。
自分でもどういう助けがあれば人生を立て直せるのかまったくわからなかったので、手紙に事件に遭ったこと、それに対する家族の反応、母にされてきたこと、カウンセリングが足踏みしていることなどを書いて、人生の先人でもある、家族外の大人のアドバイスや助けが得られたならと、藁にもすがる思いでした。
伯父から返って来たのは「生きていればいいことがある」という返事で、すでにこの頃幸不幸の帳尻は合わないことを悟っていた私には失望しかないものでした。
彼の妻である伯母とは何度か電話で話す機会もありましたが、伯父に宛てた手紙のことを話して読んでもらったあと来た電話は
「それはあなたに必要な試練だったって思えばいいんじゃないかしら。」
でした。
この時私がどれほど絶望したか、伯父伯母の二人にはきっと理解できないだろうと思います。
この言葉は今でも私の首を締めにきます。私に必要で、あなたに必要ではなかったその差はどこにあるの?
これも結局「あなたに原因がある」という思考の一形態では?
これを言われてから3年が経とうとしています。
何度も何度も、あの電話口の声が私の首を細い細いワイヤーで締め上げる。息が詰まる。これを書いている今も。
ずっと考えていました。
被害者じゃなく加害者にNOと言わない人たちの世界は一体どうなっているのかと。
自分が逆の立場だったらどうしただろうと。
止まない雨はないよ、今幸運の貯金をしてるんだよ、うつむいていても幸せはやってこないよ。
そんなこと生きてればわざわざ言われなくても耳に目にするし、すでにやってきたことです。散々自分に言い聞かせ、やってきたことなんです。
私に必要だったのは、前向きになれる言葉ではなくて現実的なサポートでした。
こんなサポートがあるよ、こういう相談機関があるけど知ってる?
でもそんなこと、誰も言わない。
がんばって、いいことあるよ、早く忘れなよ、過去にとらわれてたら前に進めないよ。
今の私が同じような相談を誰かに受けても、カウンセリングを利用しようとか、こんな本があるよ、自分はダメだと思いこまされてるだけだよ、くらいのことしか言えないかもしれません。
あと多分鬱陶しいと思うんだけど、セロトニンをどうやって増やすかとか、落ち込む気持ちを生活習慣から矯正していくためのアドバイス。これは有用なんだけど、本当にそれどころじゃない時に言われると腹が立ってくるやつです。
どっちにしろ、「皿から落ちた人」に対してどうすることが助けになるのか、という知識があらゆる人に足りないのだと思います。
それを知ってストックできるほど、社会には支援する情報や場もない。
だから「いいことがあるよ」というなんの根拠もない楽観的な励ましも、「あなたに必要な試練だった」という傷口にさらにナイフをねじ込む諭しも、腹を立てて恨むわけにはいかない。
私たちはそれを救う方法を持ってないし、あったとしてもその存在を知らないのだから。
フラワーデモという活動があります。#metoo というタグもあります。
これは、この社会にないものを作り出す動きなんだと思います。
目を開いて、それを見ている。
生きている間にこんな活動を目撃できるのは幸運なのではと思います。
遠くない未来に私や誰かを助けてくれる別な言葉、受け皿が生まれるかもしれない。
このことに無関係な人間はいない。
何故なら誰もが被害者になりえるから。
だから、こんなnoteを書いていますわとり。
起こったことを外に出さなければ、いつまでもない事にされたままだから。