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等号で言葉と言葉をつないで世界を織りあげる

「等号で言葉と言葉をつないで世界を織りあげる」ということについて話をしたいと思います。等号というのは、「イコール」のこと。イコールで言葉と言葉を接続させることです。

Aという言葉とBという言葉を等号でつなぐ。「AイコールB」、「AはBである。」、「BはCである。」、「CはDである。」、「DはEである。」・・・そして、「AはEでもある。」(正確には、内包関係がないと飛躍が出来ないけれど)

そうすることで、その二つの言葉が持つ世界が接合されて、新しい世界が生まれます。それをたくさんつなげてゆくと、何が出来る上がるのでしょうか? ひとつひとつの接続は単純なものかもしれませんが、それが織り上げる世界はきっと、単純にして複雑、平明にして難渋、透明にして遮断、軽量にして重厚、淡泊にして濃厚、そんな世界だと思います。私はそんな言葉の織物を作りたいと思って、このnoteを用いています。ここに書かれてあるのはそんな織物のために糸を紡ぐことでもあり、その織物の断片を作ることであり、その糸を染めることであります。

そして、その言葉の織物がもたらすもうひとつの大きな意味があります。それは、その織物がこの世界の本質を書き表したものであるということです。ここに「等号で言葉と言葉をつなぐ」ということの本当の意味があります。その言葉の織物はテーゼの伽藍でもあるということです。つまり、真理を見出すという意味において、それは科学(サイエンス)であり哲学(フィロソフィ)であるということです。

今回は、そんな私が夢見る言葉の織物の中の「等号でつないだ言葉と言葉」の実例を紹介したいと思います。紹介するのは、三つの言葉たち。村上春樹さんと谷川俊太郎さんとティム・オブライエン。

(1)その一つ目 村上春樹さんの「海辺のカフカ」より

村上春樹さんの小説「海辺のカフカ」の一節をナレーションにした映画の予告編があります。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の映画「ビューティフル」の予告編です。まずは、その映像と言葉を見てほしいと思います。

少し長くなりますが、そのナレーションを文字として引用したいと思います。予告編では原本の小説の一節が幾分編集されていますが、細部の表現はそのまま残され実質は変わりません。確認はしていますが、もし、引用に瑕疵あれば、それは私のミスです。

「ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようとして足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係ななにかじゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君にできることといえば、その嵐の中にまっすぐ足を踏み入れることなんだ。その嵐は千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君は両手にその血を受けるだろう。それは君の血であり、ほかの人たちの血でもある。そしてその砂嵐が終わったとき、どうやって自分がそいつをくぐり抜けて生のびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。でもひとつだけはっきりしているこがある。その嵐から出てきた後、人生が変わっているんだ。ビューティフルに。」

ナレーションで引用されてある部分は上巻の冒頭の部分、7ページと8ページから9ページにあります。小説の方では前半と後半に分かれていて、予告編ではそれがひとつとなり、末尾の言葉が映画のタイトルと重ね合わされ新たに加えられています。もし、よろしかったら読んでみてください。私にとって大切な重要な意味を持つ小説のひとつです。

映画はこの小説を映画化したものではありません。映画の内容はこの「海辺のカフカ」とは表面的には全く関係はありません。表面的には(繰り返しますが)。但し、運命という視点に立てば、それは別です。或る意味、救いのない凄まじい映画ですが、傑作です。掛け値なしに。正直に申し上げるなら、私はこの映画をDVDで見ましたが、一度で見終わることができませんでした。少し時間を置いて何回かに分けて見ることでしか全部を見終わることができませんでした。それだけ激しい力を持った映画です。でも、決して、損をする映画ではありません。深く記憶に残りその人を揺さぶり続ける映画のひとつです。バルセロナの中の闇が映し出され、それが鮮烈な残像として記憶されます。

さて、ここにある「等号でつながれた言葉と言葉の織物」とは。

ここでは、村上春樹さんらしい言葉で「運命」が「砂嵐」と等号でつながれ、言葉の織物が作り出されています。比喩が比喩を超え、運命の本質が顕わになります。言葉と言葉が等号でつながれることが、言葉の比喩的な表現から定義的なものに移行し、さらに、この世界の成り立ちの本質を示すことであるという実例のひとつだと私は思います。「等号で言葉と言葉をつなぐ」ということはこの世界の本質を探究し解き明かすことなのです。(凄く陳腐な言葉で言えば、それは哲学的探求の実践でもあります。)

(2)その二つ目 谷川俊太郎さんの「定義」より

そのものずばりの「定義」と題された詩集。冒頭の「メートル原器に関する引用」は平凡社の世界大百科事典からの引用。

定義が詩であり散文であり言葉であり言葉を超えたものであることの証明のひとつ。人によっては、これを絵画、あるいは、音楽、または、数学とする方も存在するでしょう。私はこれをひとつの鉱物、方解石として扱う者です。紙で作られたこの詩集を標本箱のような木の箱の中に保存しています。

全二十四篇の詩、その中から一篇の一部を引用したいと思います。

静謐で清潔で穏かで広く深い、ひかりのおとのようなおとのひかりのようなことばたち

なんでもないものの尊厳
なんでもないものが、なんでもなくごろんところがっていて、なんでもないものと、なんでもないものとの間に、なんでもない関係がある。なんでもないものが、何故此の世に出現したのか、それを問おうにも問いかたが分からない。なんでもないものは、いつでもどこにでもさりげなくころがっていて、さしあたり私たちの生存を脅かさないのだが、なんでもないもののなんでもなさ故に、私たちは狼狽しつづけてきた。

追伸

私の誤解かもしれませんがこの詩集(紙の本版)が絶版になっていることが、私には理解不能です。電子書籍版があるし、内容は谷川さんの他の本の中に収録されているから必要ないし、販売上もそれで十分だと出版の方々が認識されているとしたら、それは大きな間違いだと私は思います。この作品は一冊の物質として存在することによってその真価が放たれる本のひとつです。本を作る人、本を売る人、本を買う人、本を読む人、みんな、どうかしている、何かが狂っている。全員で泥船に乗って全員で沈没して溺れようとしているとしたら、目を覚ましてほしいと私は切実に悲痛に叫びたい。紙のこの本が絶版になっているなんて、ありえないよね、うん、私の勘違いに違いない。そう思って眠ることにしよう。おやすみなさい。ぐうぐう。

(3)その三つ目 ティム・オブライエンの「本当の戦争の話をしよう」より

今回の記事の終わりに、不可解な禅問答的な謎のようなテーゼをひとつ。翻訳者である村上春樹さんの言葉を借りれば「パラドキシカルなテーゼ」となります。これまた村上さんの解説が素晴らしいのでその部分を引用したいと思います。引用は巻末にある村上さんの解説文より引用しました。

「しかしそれは決して、よくある小説作法的な仕掛けではない。それは知的なレトリック・ゲームからはほど遠い地点に置かれた切実な迷路である。オブライエンはそんな迷路の中でこう叫ぶ、「本当の戦争の話というのは、戦争についての話ではないのだ。絶対に」と。この一見パラドキシカルなテーゼがどれほど痛切なものであるかは、本書を読み通された読者にはおそらく理解いただけるだろうと思う。」

小説の中では、収録されている「本当の戦争の話をしよう」の中の終わり近くにこのテーゼが書かれてあります。

重複しますが繰り返し書いてみたいと思います。

「本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。それは太陽の光についての話である。・・・それは愛と記憶についての話である。それは悲しみについての話である。・・・」

なぜ、私が今回の記事の終わりに、オブライエンのこの小説の一節を紹介したかというと、等号でつなげることが不可能な領域が存在していること示したかったからです。形式的にはいかようにでも等号で言葉と言葉をつなげることは可能です。形の上では。言葉の上では。文字の上では。しかし、それは見掛け上のことでしかないということです。簡単に言ってしまえば、「絵に描いた餅は食べられない」ということです。

言葉が言葉であるとしても、それが意味することは言葉を超えています。

言葉は言葉ではないのです。絶対に。

自戒を込めて。

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