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「個人」と「徒党を組む」の対立から、「政党」について考える。『誰のために法は生まれた』 木庭 顕 (著)を手掛かりに。個人として戦った田中康夫が、(徒)党を組んだ候補に敗れたことについて。

 『誰のために法は生まれた』 木庭 顕 (著)、すごく感動した本なのに、noteに感想を書いていなかった。この本について何度がFacebookに感想断片を書いた。まずはそこから抜粋。そのうえで今回のnoteは、横浜市長選とその本を手掛かりに、政治、法治主義、選挙、そういうことについて、あれこれ考えてみたいと思う。

2019年2月1日の投稿

『誰のために法は生まれた』 単行本 – 2018/7/25 木庭 顕 (著)
Amazon内容紹介
「追いつめられた、たった一人を守るもの。
それが法とデモクラシーの基(もと)なんだ。
替えのきく人間なんて一人もいない――
問題を鋭く見つめ、格闘した紀元前ギリシャ・ローマの人たち。
彼らが残した古典作品を深く読み解き、すべてを貫く原理を取り出してくる。
 ここ最近、考えている、政治についての、いちばん本質的なこと(実力組織・暴力性と、政治・権力の関係)について、まるで私の問題意識に答えてくれるかのように、深く詳しく厳密に答えてくれる内容になっています。
それは相当に難しいことなのに、読み進めていくと、ものすごく分かってくる。(桐蔭学園の、ごく普通の高校生を相手に、映画や文学を素材に、わかりやすく教えてくれる連続講義の記録。そういう内容の本なので、読めば、すごく分かりやすい。)
 ずっと気になっていたカールシュミット(ナチスを準備したドイツの法制学者。政治の本質を友敵関係と規定し、ナチスの独裁への道を理論的につけたと言われている)に対して、きわめて厳しく、その根本的誤りを指摘しています。

2020年4月19日の投稿から 

 政治における実力(暴力性)の話をずっと考えていますが、直近、それを考える拠り所は、木庭顕先生の『誰のために法は生まれた』(朝日出版社)です。
木庭先生が、この本で一貫して高校生たちに教えているのは
⑴所有と占有の違い
⑵法とは「所有を主張し徒党を組むもの=力とモノで支配しようとするもの」から、「占有=本当に大切なものとしてそれを持っている弱者」を「法、論理と言葉、市民社会の監視」で守るのが法の支配だ、ということです。

さて、2021年8月29日、今日、書くのはここから。「個人と徒党」の関係について。

 まず、「党」っていうのは、何らかの共通点や目的をもって集まった人の集合体のことだ。

 これが「徒党」となると、ごの意味内容に「なにやら良くない目的をもって集まった」というのが付け加わる。

 「政党」というのは、特定の共通の政治思想や目的を持った人の集団のことだ、政党は誰かを幸福にする目的で集まった集団だから、徒党じゃないともいえるけれど、一部の人の利益や幸せのために集まったのだとすると、自分側からすると「政党」だけれど、反対の立場の人からは「徒党」ということになるよね。集まった目的が「悪いこと」に見えるわけだから。お金持ちの利益のために集まった政党は、貧乏な人からは徒党に見えるし、できるだけ昔の伝統を守りたい人が作った政党は、伝統を打破したい人からは「徒党」に見える。「政党」と「徒党」というのは、はっきりとは分けられないと思うのだよね。そのことを突き詰めて考えたのが、カールシュミットだと思うわけ。

 カールシュミットは、政治の本質を「友敵関係」と定義していて、相手の集団を敵、こちらの集団の仲間を「友」として、最終的に相手の存在をせん滅するところまでいくのが政治の本質だと考えているのだよね。なんといっても「敵」なわけで。「鬼畜米英」と言っていた時、日本人は連合国人を人間ではなく「鬼畜」と考えたわけだし、米英も、日本人のことを人間と思っていなかったから、原爆投下を平気でしてしまえたわけだ。

 で、こういう「友敵関係」というのは、政治的動物としての人間のひどさ、残虐さを戒める意味での認識としては正しいと思うのだが、それが政治の本質だぞ、と開き直った場合には、政治的暴力で、敵をせん滅する行為の正当化に至ってしまうわけだ。対外関係なら戦争になるし、国内であれば弾圧迫害になるわけだ。こういう政治の持つ暴力性がフル回転フル発揮された事例と言うのは、古今東西、右翼左翼問わず、現代にいたるまで枚挙にいとまがない。

 で、法治主義というのは、こういう政治的動物としての人間の暴力性を、どうやってコントロールするかという、人類の苦労の末にたどりついた、しかしまだ完成していない試行錯誤の現在の到達点、と考えるのが良いと思う。

「政党対政党」こそ民主主義の王道だ、という民主主義観というのは、ここまでの理路をたどれば、容易に「友と敵の対決」、「集団対集団の敵対」と言うところに行きついてしまうわけだ。

 「民主主義」だから「政党の対立で争うのが正しい」というのは、ものすごく短絡で、間違っているんじゃあないか。そういう、普段はあんまり考えないことに、この本を読むと、気づく。

 法や民主主義というのは、本来的には「党同士の争い」ではなく、とにかく集団になって何かやろうという「党」と、ひとりぼっちの「個人」がいたら、両者が何かを主張したら、まずは「個人」の方を守ろうね、ということを大原則にしているのだ。ということが『誰のために法は生まれたか』で木庭先生が教えてくれる、いちばん大切なことなんだよね。政党の争いではなく、「徒党から個人を守る仕組みをどう作るか」が民主主義の本質、法治主義の本質だ、というのだね。こんなことは考えたこともない、という人がほとんどじゃないかと思う。

 さらにね、「(徒)党と個人が対立しているなら、正否の判断の前に、まずは個人を守る」という緊急性があるということも、法の大原則にはある、と先生は言うわけ。(話はずれるけれど、旭川のいじめ自殺事件の、中学の校長の「1人の被害者より10人のいじめた側の子どもの未来が大事」発言が、いかに間違っているか、こうして考えると分かるよね。「いじめられる側にも原因がある」みたいな言説が根本的に間違っていることがわかるよね。徒党を組んで集団で個人をいじめたら、理由もへったくれもなく、その構造自体が悪なんだよね。緊急に理由とかなんとか問わず、個人が保護されないといけないんだよね。)

 徒党というのは、たいてい「暴力」と「金」を持っているわけだ。昔から洋の東西を問わず、暴力で金を集め、金で暴力を集めるので、徒党側は圧倒的に有利なわけだ。そもそもそういう不均衡がある以上、「個人が被害を受けそう」というのを、とにかく緊急に保護した上で、ことの正否はゆっくり審理すればいい。その審理にあたっても、「基本、徒党を組む側がそれ自体として悪い」という原則が適用されるんだよね。

 こういう徒党から個人を守るために「法」(みんなで出し合った力と金をどう使うかのきまり)を作り、「法」が決められる場所からは暴力も金の影響も一切排除された公開の場にすること(議会、つまり言論の府なのだ。政治家は言葉が全てで、暴力や金、それをもとにした組織の力から、議会は独立していないと、いけないわけだ。本質的に。)、それを行使する「行政」も、法に定められた場合に、定められた限度でしか暴力を使わないこと。などが法治主義の原則と運用の工夫としてだんだん整備されていった(今もまだ発展途上で未完成なわけだ。金持ち企業がロービイストを使って金の力で政策を通すアメリカの政治の仕組みは、民主主義、法治主義の理想からは程遠い未完成なものだとして、批判されていたりするわけだ。)

 「徒党を組まず個人として行動するリーダーを、市民として個人が支援する」、そうやって権力の座に就いた人が、その統治行為が原則すべて公開され、衆人環視のもとで、できるだけ実力行使を伴わない、人の公正さへの意志、志向を信頼して行われるのが、法治主義の理想なのだ。

 もちろん、現実には悪人、犯罪行為を働く人というのはいるわけで、特に徒党を組み金の力に頼り、暴力を組織化して悪事をなそうというものに対しては、「法と、市民の監視のもとで、正当に行使される実力」によって対峙する必要はある。警察や徴税が、実力組織として存在するわけだけれど、権力の行為が「弱い個人への権利の迫害、権力による暴力になっていないか」は、常に厳しく監視されなければならない。

 この本の中でも、実力行使のあり方について触れている章がある。昔のFacebook投稿から引用する。

この本の中、『ルデンス』 プラウトゥス作を題材に、正義の側の実力行使について説明していきます。
悪人ラプラスクの手から逃れ神殿に逃げ込んだ二人の女性、アンペリスカとパラエストラを守るために、神殿の隣に住んでいるダエモネスというおじさんが、力の強い奴隷二人を使って守った。ラプラスクが無理やり二人を連れ去ろうとしたら、二人の奴隷がラプラスクを殴って守った。
木庭先生は「あくまで受動的に発動されるもの」「劇中劇的な、神殿と言う空間で行われること」など、実力が行使される条件をいろいろ解説されていきます。とはいえ、「強い奴隷」が、悪人と女性の間に立ちふさがることは、正義の行使、実現にどうしても必要なわけです。
法の支配のもとでの正義の側の実力のあり方というのは、民主主義、法の支配を理解する上での、いちばん難しい「最終問題」だと思うわけです。

 横浜市市長選挙の、各陣営の戦い方や、各候補の振る舞いということについて考える。

 勝った陣営の戦い方が、「徒党を組み」「どこよりも大きな金と、組織動員に頼った」戦い方ではなかったのか。

 勝った候補者が、「金や地位を背景に、個人や弱者を恫喝」するタイプの人間ではなかったのか。

 「政党」という名前の、徒党と徒党の争いを民主主義と考え、敵を徹底的に叩き潰すのが政治の本質と考え、一人一人の弱い個人の側に立つことを忘れるならば、それは保守政党だろうとリベラル政党だろうと、翼の左右を問わず、「徒党」なのではないか。総選挙に向けて、政治家一人一人が、桐蔭学園の高校生くらいの素直な心で、『誰のために法は生まれた』を読んで、法治主義の、民主主義の本質について考えてくれたらいいなあ。絶対、そんなことは起きないのだけれど。

 このnoteを読んだ人には、ぜひとも手に取ってほしいなあ。以下の書名下線部クリックすると、Amazonのページに飛びます。

『誰のために法は生まれた』 木庭 顕 (著)


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