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『光る君へ (14) 星落ちてなお』感想つれづれ。一部R18な深読みあります。

「光る君へ (14)星、落ちてなお」感想つれづれ。

 吉高まひろの演技のキモは、姿勢と歩き方走り方にあるよな。道長に遭ってしまった後の背中をまるめてちょこちょこと歩く姿、かわいくてかわいそう。かわいいとかわいそうは同じ語源だからな。そもそもおかあさん殺されたのも、子役まひろが走ったせいって本人思っちゃってたり。道長に呼び出されても走るし。「光る君へ 走るまひろ」が原題である。ウソ。

 段田安則兼家、息子3人を集めて出家と跡取り発表。今、段田安則は舞台でリア王をやっているのだよな。あっちでは耄碌したリア王は、娘3人集めて誰に国土を譲るかその配分を娘たちの自分への愛で測ろうとする。その舞台に玉置玲央も出ている。演じるエドマンドはリア王家臣グロスター卿の妾腹の子で長男と父を恨む役。リア王の娘姉二人と組んでリア王暗殺を企む。

 「光る君へ」では二人は直接の父息子、「リア王」では血縁ではないが、演じる役の立場やらはなんだがちょっと似ているのである。段田安則に「お前のような人殺しに一族の長が務まると思うのか」と罵倒されて激高する玉置玲央。シェイクスピア演劇ぽい(ってどんなだ)演技である。後の、段田安則が月を見上げて、それが赤く見えて、そして死ぬ、というのもシェイクスピア演劇ぽいなあと、そう思うと思えてくる。ついでに「お前のような人殺しに、おまえの手は血で汚れているのだ」なんていうセリフを、急に段田安則が英語で喋り出したら、それは再放送朝ドラ「オードリー」ぽくなるなあ、とかバカなことを考えながら見ていた。段田安則、死後硬直まで演技していたか?いたような気がする。演技派は死体死後硬直まで演じ切ろうとするのである。

 道綱の母「蜻蛉日記」作者に、段田安則「嘆きつつひとり寝る夜のあくる間は いかに久しきものとかは知る」を「よかったなあ」と言ってあげる。人間の複雑さ多面性をしっかり描く脚本である。(また全然関係ないのだが、東大国文学科卒の私、蜻蛉日記のことを、なぜかずっと「はまぐり日記」だと思い込んでいたのである。なぜそう思い込んだかの経緯は全く分からない。誰かの前でそう読んでしまったことも1度や2度ではない。なので蜻蛉日記が出てくると、もうそれだけで恥ずかしくて「ぎゃぁぁぁ」と身もだえするのである。)

  またまた真面目な方に話はずれるが、このシーン、段田安則は今まで妾である道綱母のことを訪ねていたわけであるが、このときは倒れて寝ていたのだから、あれは兼家の家に見舞いに道綱母と道綱が来たという設定なのか。先週から、この時代の結婚制度、(昔は、平安貴族は男が通う「妻問婚」だと言われていたように思うのだが、)最近の学説的には、この時期の婚姻形態は婿取婚、妻実家に婿が住むに変わっていたというのが定説らしい。では、その婿取婚で、このドラマの誰が、もともと誰のどの家に誰が住んでいて、誰が通っていてというのが、一部不明である。天皇だと広い屋敷の中に妾も同居していたの?ん?みたいなことが、このドラマを見ていて、よく分からなくなるのである。今日も、荒れる玉置玲央道兼、妻子が出て行く、妻が実家に帰るエピソードがあったが、ということは、今、何処に住んでいたのよ。妻実家じゃないの?鼠がいたのはどこなのよ。いつもは父兼家と同居していたの?それじゃ婿取婚じゃないじゃん。誰か「光る君へ、誰がどこに住んでいるか図解マップ」とか作ってほしいなあ。わからん。

 明子呪詛して気を出して扇を吹っ飛ばす。気功か。この「呪詛」が、この時代に本気で信じられていたのは本当だと思うのだが、このドラマではどこまでそれを「ほんとにあり」として描いているのかが、ときどきよく分からなくなる。

 話は飛んで、まひろのうちの乳母さんの、いとさんな、どういう人なんだか、どうしてもうまく理解把握できないが、食べなくても太る体質であることは、今回はっきりわかった。困窮していても、なんかふくふくと太っていて、申し訳なくて居場所がなく感じて、お暇したいと申し出る。かわいそうである。兼家が死んだと聞いて、ガッツポーズするしなあ。悪い人ではないのは分かるが。

 太っていると言えば、赤痢からすっかり回復した今回のロバート秋山藤原実資は、新しい若い妻に、お腹をなでられまくりつつ(「うんん、この張り具合」ってこの若い妻、太鼓腹マニアなのか。変わった趣味だな。それとも日曜夜8時お茶の間では、そこより下をなでて「この張り具合」という脚本は却下されて太鼓腹を撫でるという謎のシーンに着地したのか。) ,秋山、「ん、腹をつかむなあ」といいつつ、「17歳の伊周殿を蔵人の長にするとは異常、異常中の異常」と、お仕事、政治の不満を語るという「前々回むっつりすけべ+前回の政治的に真面目で筋を貫く重鎮」の合わせ技である。ロバート秋山でないと演じられない難しい役どころである。

 清少納言がまひろを訪ねて来て「志のために夫を捨てようと思いますの」と語るシーン。「夫は女房に出ようなどという恥ずかしいことはやめてくれ、文章も和歌もうまくなどならずともよい、自分を慰める女でいよと。どう思います?下の下でございます。」と強い語気で語るところ、ここのBGMがね、面白かった。昔の向田邦子名作ドラマ「阿修羅のごとく」の主題歌で使われた、トルコの有名なメフテル(軍楽、Mehter)『ジェッディン・デデン(祖父も父も、"Ceeddin Deden")』を思い起こさせる、明らかにトルコの音楽ぽかったよな。この番組の音楽、ときどきかなり不思議である。が、「こういうときにはこの音楽」みたいなのがあるので、清少納言が女性の自立と職業意識を強く語るたびに阿修羅のごとくテーマぽいのが流れることになるのか、注目である。清少納言と「虎に翼」の主人公の対比みたいな視点も、今後のドラマ批評的には出てくるかもなあ。

 さて、今回、見ていて、いちばんよく分からなかったのが、最後の「中宮と皇后」について、新・摂政になった道隆が何をごり押ししているのか、そもそも「中宮と皇后ってどういう関係」について分からないから分からなかったのである。調べました。っていってもYahoo!知恵袋にどこぞの方が回答しているのがいちばん分かりやすかったのだが。まるごと引用紹介しておきます。もし専門家で、「いや違う」という方は、コメント欄に間違い私的いただけるとありがたいです。

引用 

「2010/8/26 9:14「中宮」と「皇后」の違いを教えてください!(平安時代)」
回答
「「中宮」という言葉は元々 「皇后の住居」 という意味で、そこから転じて、「中宮」 に住む人=皇后自身を指して「中宮」と呼ぶようになったといわれていますから、「中宮=皇后」 と考えるのが最も自然かもしれません。「中宮」 と呼ばれる方も、立后する時、「中宮」 に冊立されるのではなく 「皇后」 に冊立され、立后の詔には 「皇后」 と書かれます。この事からも、「中宮」 は、「皇后」 の別称と考えていいのではないでしょうか。
 ただ、「皇太后」 や 「太皇太后」 も后位にあることから、その住居も 「中宮」 と呼ばれ、そこに住む人=皇太后・太皇太后の呼称としても、「中宮」 が用いられました。「中宮」 という呼称がどのような地位の女性を主に指したかは、時代によって微妙に変わります。
ご質問の定子の場合、「中宮・皇后並立」 の時代で、事情は少し複雑です。彼女が一条帝の女御だった時、後宮には、
①先々代冷泉帝の皇后昌子内親王 (=太皇太后)②今上帝の生母藤原詮子 (=皇太后)
③先代円融帝の皇后藤原遵子 (=皇后)
がいらっしゃったので、三后 (皇后・皇太后・太皇太后) の位が全て埋まっていました。ですから、そのままでは定子の立后は不可能でした。そこで、定子の父藤原道隆は、定子を立后させるため、「皇后」 とイコールとされていた 「中宮」 の称号を分離し、定子を立后させたのです。
 道隆の死後、一族内の政争を勝ち抜いた藤原道長が実権を握るようになると、彼はこの「中宮・皇后並立」 の制度を利用し、娘の彰子を立后させるため、実家が没落して後ろ盾のなくなった定子を一条帝の 「中宮」 から 「皇后」 の位に移し、彰子を一条帝の 「中宮」 にしました。定子の解説に 「中宮(のちに皇后)」 と書かれているのはそのためです。
 これ以降、鎌倉時代の末まで、制度上、皇后の定員は二名となりました。皇后がお二人いらっしゃる場合は、仰るとおり、「先に妻になった人を 『皇后』、そのあとに妻になった人を 『中宮』 」 と呼ぶのが慣例だったようですが、「皇后がいなくなったら、中宮は皇后になれる」 というわけではないでしょう。」

Yahoo!知恵袋

ここんとこ、どこかでちゃんと解説しないと、おいてけぼりになった人がたくさんいたんではないだろうか。そんなことはないのかな。みんな分かってみてた?

  さて、来週の予告編、なんか、来週はまた激しい押し倒して重なるシーンがちらっと見えたのだが、あれ、誰?  誰が誰を?

楽しみである。

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