白戸三平の訃報から。叔父たちの部屋に見事に揃ったガロのバックナンバーに連載されていた『カムイ伝』。1970年代前半の思い出。
ぼくらの年代(58歳)だと、白戸三平と言えば、小学校時代に「サスケ」をテレビアニメで見た、という記憶しかなかったり、カムイも、テレビアニメの「カムイ外伝」の方しか知らなくて、白戸三平=忍者マンガの人、というくらいの記憶の人の方が多いと思う。
僕の母には弟(僕から見ると叔父さん)が三人いるのだけれど、母とすぐ下の弟は昭和11年、12年生まれの年子でいわゆる戦中派世代。祖父が戦争(軍医として中国戦線にいた)から帰ってきてから生まれた下二人の弟は、1946,7年生まれ、団塊の世代のド真ん中だ。この下二人の叔父は、70年安保の時代に学生運動に身を投じた。いつのまにやら代表的な新左翼セクトの全学連委員長と副委員長になっていた。末の弟(こちらが委員長だった)は、僕が六年生のときに内ゲバで頭を割られたが生き残り、地下に潜伏したまま今も行方不明だ。下から二番目の叔父は、末の弟が内ゲバで大けがをしたことで親からも責められたし、本人も考えた末に、セクトを抜けて名前も替えて人生をやり直そうと地方の国立大学医学部に入学した。1979年、あと二年で医者になるというときに、対立セクトに見つかったらしく、内ゲバで亡くなった。一人暮らしのアパートで襲われ、惨殺されていた。僕が高校二年の時のことだ。
母実家(つまりは叔父たちの実家でもある)は札幌市にあって、僕は小学校五年、六年、中一のはじめの2年ちょっと、父の転勤で札幌に住んでいた。父の公務員官舎と母の実家は200メートルくらいのご近所だったので、母もよく実家に行ったし、僕もそれにくっついて行っては、二階の叔父たち不在の部屋に入り浸った。1973年から1975年のことで、学生運動は陰惨な内ゲバの時代にすでに入っていて、叔父2人は、実家には寄り付かなかった。祖父母とも関係は悪かったのだと思うし、所在が知れると危ない、ということもあったのだと思う。
叔父たちの部屋には、叔父たちが隠していた平凡パンチ(水着グラビアは関根恵子だった)とか、井上陽水ソングブックとギターとか、普通の大学生の部屋にあるようなあれこれが放置されていた。小学五年六年のマセガキだった僕は、そういうのを祖母にも母にも隠れて、ひそかに一人で学習していた。
中でもいちばん時間を費やしたのが、ガロのバックナンバーを読むことで、つげ義春の「ねじ式」とか林静一の「赤色エレジー」といった名作を、僕は単行本ではなく、ガロに掲載された初出の状態で小学生のときに読んだのだった。中でも、白戸三平の「カムイ伝」は、「忍者ものだろう」と思って読んだら、たしかに忍者は出てくるのだが、全然、手裏剣と忍法の活劇、みたいな話ではなかった。
差別問題について何も知らなかったし、「カムイ伝」を読んでも、それが現代まで続く問題などとは、当時は全然分からなかったが、とにかく何か重苦しい、どこまでも暗い話が延々と続く、そういうマンガだという印象だけは残っている。その後、『カムイ伝』を読み返すことは今に至るまでないから、具体的にどんな内容なのかは、正直、覚えていない。マンガの内容の陰惨な印象と、叔父の陰惨な死に方のイメージが重なって、手に取る気が、これまで、ずっとしなかったのだ。
白戸三平の名前を聞くと、今から50年近く前の、1973年~75年のことを思い出すので、昨日の訃報に接して、「令和の時代まで、生きていたんだ」という驚きの方が強かった。白戸三平の享年が89歳で、一番下の叔父は、74歳の老人になっているのか。生きているとして。