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『「論理的思考」の社会的構築: フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』  渡邉 雅子 (著) フランスとアメリカの小論文(教育)比較を通じて、社会の根幹を成す思考表現スタイル、国のあり方までを深く考えさせる。必読。

『「論理的思考」の社会的構築: フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』  渡邉 雅子 (著)


Amazon内容紹介

国内外で活躍するための必須スキルとされる「論理的思考」。だが実は、「何を論理的・説得的と感じるか」は普遍的なものでなく、ある国(文化)で論理的とされるものが、ほかでは非論理的だと受け取られることも。本書では、日や米とも異なるフランスの「論理的思考」と、それが社会的に構築される様相と背景を読み解く。

ここから僕の感想


 以前に著者の、この著書内容に関するインタビュー記事を読んで、Facebookで紹介した。だいたい以下のようなことが語られていた。

 論理的であると人が感じるのは、どういうことか。論理的とは「読み手にとって必要な部分が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚である」(応用言語学者カプラン)

 そして、どの様な順序で並んでいることを読み手が期待するかは、文化によって違う。

 筆者本人がアメリカで小論文を書くと、最低評価を受けてしまう。そこでアメリカ流の5パラグラフエッセイの書き方構造を学んだら、評価が上がった。研究をするうち、フランスの小論文ディセルタシオンは全然違う構造であることを知った。

 日本人の小論文日本式スタイル(起承転結)では、どっちの国で書いても低評価になってしまう。

 文化によって「どのような必要要素が」「どのような順序で並んでいる」と論理的だと感じるかが異なるのである。

 フランスの小論文の書き方が、アメリカのエッセイ(5パラグラフ・エッセイ)とは全く異なる論理構造が期待されていて、フランスの学校教育は高校卒業時のバカロレア試験で、その論理構造に沿った小論文、ディセルタシオンが書けることを目標に、小学校、中学校と段階的に緻密に組まれているということ。

 その記事を読んで、以前からアメリカ型エッセイの構造に全然納得していなかった私は「そうだよねー」と思ったわけだ。

 私はインタビュー記事で満足してしまっていたのたが。読書師匠のしむちょんが、そのことについての著者の論文をまとめた本書を読んで、感想をFacebookに投稿してくれたのである。

 さすが師匠は、インタビュー記事で満足せず、ちゃんと本を読むのである。

 反省した私も、読んでみました。

 画期的に面白い。すごい。ほんとに。

本書は、『思考表現スタイル」この語を定義するところから始まる。

思考表現スタイルとは、「各社会で支配的な行動の原理を、コミュニケーションの基本である書く・語る・合意形成をする型の分析を通して明らかにする概念」と定義できる。

 思考表現スタイルと言うのは、国によって文化によって違う。単に文章の形だけでなく、合意形成する型が違うと言うことは、つまり政治、社会のあり方までが、この『思考表現スタイル」と相関してくるということはこの定義から明らかでしょう。この本、「小論文のスタイル比較」に終わらないわけだ。政治、社会の違いにまで、話が進んでいくのである。

 第一部では高校でバカロレアで出題される例題を見ながら、「哲学のディセルタシオン哲学教育」「文学のディセルタシオン文学教育」「フランスの歴史とディセルタシオンの歴史」として見ていく。問いを、文法的に分析し、与えられた問いからさらに問いを作り、弁証法の構造にするために、正・反のふたつの視点で論じ、そして合を導く。答えは「結論」で終わるのではなく、さらにそこから新たな「問い」が生まれるところまでいかないとダメ。

 えー、そんな高度なことを、高校生が全員やるの? やるんです。できるように指導していくんです。

 で、第二部では、小学校、中学校で段階的に、どういう教育していくのを、実際に多くの学校の授業を観察しながら分析していく。驚くことに、小学校では国語が授業の半分くらいあるわけ。そうじゃないと、出来るようにならないんだわね。

 第三部は、なんでそんなものを書かせることに教育のほとんどを費やすの、ということを、フランスの歴史、フランスの社会の目指すところ、どういう国民を育てることを教育の目標にしているの。それはフランス社会がどういう社会を目指しているからなの。それは「社会というのは国民全員が公共善を求めて改革し続けていくもので、そのための手続き、議論から法律を変えていくことまでを、すべての国民がそれに主体的に参加できるようにするための教育をしているわけなんだわ。

 たとえば「法律と社会規範」はどう違うの、っていうことを、小学生が考えるわけ。考えさせるわけ。社会規範は時代により変化する。そうするとそれに従って法律も変えていかなければいけない。その意味と手続きについて、小学生から考えて学んでいくんだわ。法律は絶えず変えていくべきものである。

 ルイ16世の時の社会を変えるべき点を目安箱に入れた「陳情書」、そこからの「テニスコートの誓い」というフランス革命に至るところを劇にして、現代の社会の変えるべき点を「陳情書」にして劇中で発表する、それが小学校卒業のときの「お楽しみ会」の出し物になって、保護者も見るわけだ。

 日本の卒業式の「楽しかった修学旅行」「みんなで力を合わせた体育祭」みたいなバカ発表(まあ親は感動はするんだが)なんかはしないわけだ。小学校からの教育がすべて「社会は変えられる」「法律は常に変えていかなければいけない」「それに主体的に関わる市民になるために教育がある」ということをやっているわけだ。こういうことを議論できるようになる能力を身に着けるために、ディセルタシオンはあるわけだ。

 そして、フランス革命後の、極端な理想主義からむしろ極端な残忍な独裁粛清に至ったジャコバン派などへの反省から、常に真実は極端と極端の中間にある、ということを常に考えられるようになるために、弁証法の論理であらゆるテーマについて考えられるように、ディセルタシオンの訓練が積まれるのである。

 このあたりについての「アメリカの民主主義」と「フランスの共和主義」の比較というのは、ものすごく面白い。アメリカの市民教育が「ボランティア、地域活動へ参加」というような個人の体験と地域コミュニティ、小集団への参加をベースにしたものであるのに対し、フランスでは常に「国がめざすところ」に対する「抽象的概念と、歴史に対する洞察」でもって、理想に向けて変化することを議論できる能力を身に着けることを重視するわけ。全然違う。

 アメリカの大学入試で重視されるエッセイについて、まず「5パラグラフエッセイ」という「結論 論拠① 論拠② 論拠③ 結論」これだと全然多様な視点や反対意見が入って来ないじゃんね、いや、それだけじゃなく、「個人の体験」「そこから目指すところ」という個人体験が重視される。(だから、ハーヴァードやスタンフォードなんか金持ち師弟はそのための体験の質・量がものすごいから、金持ち有利になるという欠点がよく指摘される。)のに対し、ディセルタシオンは、個人の体験は書いちゃダメなんだよ。「先人の哲学者や文学者の言葉」を引用しながら書かないといけないの。もちろん、引用するための「こういうテーマのときは、この先人のこういう文章、言葉が必須知識だよ」というのを、たくさんメニューとして勉強して、学生が手持ちで持っておけるようにカリキュラムが組まれているのである。

 アメリカのエッセイが「個人体験」重視に対し、フランスのディセルタシオンは「人文知教養・歴史」というものをもとに書くものなんだな。

話は突然、この本とは関係ない、ウクライナの戦争についての話に飛ぶ。

 ウクライナの戦争で、「ロシアが悪。議論の余地なし」論を唱えているのは米英と、日本でも米国で教育を受けた国際政治学者の人たちだ。さっきも書いたけれど、アメリカの「思考表現スタイル」の基本となっている5パラグラフエッセイでは、「異論は認めない」になりやすいでしょう。「結論 ロシアが悪い。根拠① 根拠i ② 根拠③ 結論もう一回言います。ロシアが悪い」以上。

 これに対し、なんとかロシアとも対話をしようとしているのが、フランスのマクロンで、どっちの立場もわかるよね論を書いてるのがエマニュエル・トッドやジャック・アタリというフランスの学者で、日本で普段は保守派の八幡和郎氏が、エマニュエルトッドに近い立場でこの戦争については意見を発信しているのだけれど、八幡氏も経産官僚時代に、フランスのENA(フランス国立行政学院)に留学したことを考えると、この、ディセルタシオンという「思考表現スタイル」と、ウクライナ戦争への意見の持ち方というのは、なんらか相関がありそうに思えるのだよな。

 ディセルタシオンを身に着けた人と言いうのは、正に対して反も掲げて検討し、なんとか弁証法的に「合」の解決策を見いだせないかと思考するという考え方を、それはもう思考のスタイルとして必ずするということなのだと思うのだよな。ウクライナの戦争のことも、そうやって自然に考えるのだと思う。アメリカ5パラグラフエッセイ思考の人から見ると「どっちもどっち」論に見えるのだろうけれど。

最後に、ちょっと本書から引用する。

「科学パラダイムの時代と呼ばれる現代において、アメリカをはじめとする多くの国では、科学的なデータや経験を根拠として論を展開するのに対して、フランスは人文学に基づく古典や共通教養を根拠として論を展開し、結論を導く。革命後もフランスは人文学の論理を優先させる伝統の根を捨てなかった。科学とは異なる知恵と問題解決の手法がそこにある。科学は「価値」について語る術を持たないが、弁証法は科学がカバーできない分野の問題解決を得意とする。」

 本書内には、日本の小論文と学校教育についての比較や言及ももちょっとだけあります。そしてあとがきによると、今はイランの調査をしていて、日米仏に加えてイランも含めた四か国比較モデルを完成させようとしているんだそうだ。読みたいなあ。だってね、イランとだって、アメリカみたいに敵対して「ぶっ潰す」みたいな態度じゃ、問題は解決しないでしょ。イランの人の「思考表現スタイル」を知るところからだよね。


追記

 

 仕事時代のことを考えても、私の広告のプレゼンは、クライアントが出したお題(オリエンテーション)に対して、「とは何か」「それを問うには、実は何を考えないといけないか」「本当にそうなのか、実はこうではないのか」と、冒頭でオリエンで問われたお題をこねくり回して、有力な二つくらいの方向性をさんざん比較して、結局、結論もひとつではなく、「有力な二方向について、そのまま、広告案まで作ってみた」みたいなことをすることが多かった。

 アメリカ系外資で修行を積んだ、5パラグラフエッセイで思考表現スタイルを身に着けたクライアントキーマンからすると「結論はどれだ。結論から言え」「エビデンスは、簡潔に重要なのから3つ」みたいに怒られたし。

 電通の若手マーケターからも「原さんのプレゼンは、やたら〈とは何か〉とか哲学的問いをするし、結論が一つに絞れていないし、時代遅れぽいですよね。」とか言われたりしたのだが。

 でも、本当に有効な解決策を考えるには、こういう思考プロセスを、そのプロセスに沿ってプレゼンするのが、正しいと思って、そのスタイルで35年間、やってきたんだよな。

 今でも間違っていたとは思わない。アメリカン5パラグラフエッセイ型プレゼンて言うのは、単純すぎてバカっぽいし、たいてい間違えると、僕は思っているのである。

 という視点から、私のプレゼンスタイルを、今から「ディセルタシオン・スタイル・プレゼン」と名付けることにした。もう引退・隠居したので、今さらだが。

この本の続編、進化決定版が「文化的基盤」。上がAmazonリンクで、下が僕の感想文です。(追記、2024.8.17)


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