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『わが悲しき娼婦たちの思い出』 ガブリエル・ガルシア=マルケス (著), 木村 榮一 (訳) 90歳老人の14歳娼婦への、性というより恋の話。マルケスらしく明るく前向き元気なのだこれが。川端の『眠れる美女』に触発されて書かれたというが印象は正反対。

『わが悲しき娼婦たちの思い出』 単行本 – 2006/9/28
ガブリエル・ガルシア=マルケス (著), 木村 榮一 (翻訳)

Amazon内容紹介

って最近なくなったのかな。ネタバレ禁止仕様になったのかな。なので本の帯まず表面を引用します。(一部改行変更しています。)

〈90歳を迎える記念すべき一夜を処女と淫らに過ごしたい!
「物語るために生きてきた」
作者77歳にして川端の『眠れる美女』に想を得た
今世紀の小説第一作。〉

本の帯 表面

裏面

〈これまでの幾年月を表向きは平凡な独り者でとおしてきたその男、実は往年夜の巷の猛者として鳴らしたもう一つの顔を持っていた。かくして昔なじみの娼館の女主人が取り持った14歳少女との成り行きは…。
悲しくも心温まる波乱の恋の物語。2004年発表。〉

本の帯 裏面

ここから僕の感想

  本の帯に「淫らに過ごしたい」と書いてあるからと言って、すごく淫らな小説かと言うと全然そんなことはないのである。かといって、「悲しくも心温まる」と書いてあるがお涙頂戴のいい話でもないのである。老いたときの欲望と生命力と周囲や社会との関係や経済的生活の現実と、老いるってこういうことかもなあという現実感と、こんなふうになれたら最高だよなあというおとぎ話感が、なんだかうまいことひとつの物語になっているのである。

 先日、ナボコフの『ロリータ』の感想文を書いたのだが、こっちの本の翻訳者、木村榮一氏のあとがき解説でも、成人男性の少女愛を描いたということで、この二作の冒頭と、そして本作エピグラフとして掲げられている川端康成『眠れる美女』の一節を比較して論じている。

 のだが木村氏もあきれたように書いているが、暗い死の影をまとった川端の描く世界と較べてはもちろんのこと、ナボコフの描く37~42歳主人公の一途だが異常な感じと較べてすら、ガルシア・マルケスの描く老人、90歳の元気なこと明るいこと健全なこと。なんというか生きる事への前向きさ、肉体や精神の変化をそのまま受け取めながら、欲望のまま思うまま素直に行動していく、その幸福感にあふれているのである。

 前作『コレラの時代の愛』執筆時58歳で、主人公76歳と相手女性72歳の、性欲性愛ありの愛を描いたガルシア・マルケスさん。それからほぼ20年後、作者77歳で主人公90歳を描くわけである。相手女性は14歳。年の差が76歳。そういえば、解説で木村さんも書いているが、『コレラの時代の愛』の中でも、76歳主人公は、初恋の人72歳を追いかける間、同時に親戚のすんごく若い女学生アメリカ・ピクーニャというのとも性的関係というか恋愛関係になっていたのだよな。

 この「自分の年齢よりはるか先の老いたときに、性と愛について人間って何を望むのか、何ができるのか、自分はどうなっちゃうのか」を想像力と創造力を駆使して描き続ける、このテーマでずんずん進んでいくというのは、面白いよなあ。

 設定だけを語っていくと、不適切で犯罪的で変態的な老人の少女愛の話に思えちゃいそうなのだが。あるいはこれくらいの年齢のおじいさまが、現実に介護施設や病院で、理性ブレーキ部分が先に認知症などで衰えが進んでしまい、性的なことの問題行動が歯止めが効かなくなっちゃって困った状態になっている、そういう問題を抱えている方からすると、シャレにならない、というような話かもしれないのだが。

 だがまあ性的欲望は人生を前向きに明るく生きていく原動力でもあるのだということを、おとぎ話のようにガルシア・マルケスは描きたいのである。性的欲望がそのものとして剥き出しになるのではなく、それは「恋」となり、その老人の「恋」を、「そういうのもありだよね」と様々な形で受け止める社会の裏表の度量とか仕組みがある。文学というのは、小説というのは、それを表現することができる、と言うことなのである。少なくとも、コロンビアという国の文化と、その中での文学というのは、そういうふうに機能しているみたいなのである。

 日本ではどうなのかしら。川端康成の『眠れる美女』を生み出した国、その文学ではあるのだが。


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