「ゲンロン12 (特集)無料とはなにか」を巡る考察。前半・私の広告屋人生・1983年→2021年の広告変化を考える。 後半 サッカーワールドカップ最終予選アウェイ戦地上波放送なしの問題点を考える。
「ゲンロン12」には、「無料とは何か」という特集がある。
「無料」について論じるには、大きく、ふたつの異なる切り口が存在する。ひとつは、「広告モデル(一見無料)」vs「有料課金型配信サービス」という、主に現実的なビジネスの仕組みとしての、情報消費生活の中で機能している無料のあり方をテーマにするものである。東浩紀氏が、今、このテーマを設定したことは、東氏自身のビジネス、ニコニコ動画でゲンロンのコンテンツを有料配信していたものを発展させる形で、「シラス」という有料配信サービスと言うか、ネットサロンともちょっと違う、そういうものを始めたことと関係するのだと思う。この「広告と無料」を巡るテーマについて、楠木建氏の「無料についての断章」と鹿島茂氏の「無料はパリから始まった 1983の広告革命」の二編の論考は、深い洞察・知見に満ちている。普通、私の仕事時代の友人たち、広告関係者は「ゲンロン」を読んだりしないと思うのだが、必読だと思う。
もうひとつは、文化人類学の「贈与」や「互酬」、その論の延長線上にある柄谷行人の交換の四形態についての議論、という、まあいかにも現代思想的な議論である。私は柄谷行人の著作については80年代前半、文学部の大学生だった時代から現在に至るまで、(よく分かりもしないのに)、およそ主要作品はずっと読み続けてきた。『トランス・クリティーク』『世界史の構造』以来の、この「交換の四形態」議論、いまだ誰もが「それで、四番目っていうのは、結局どういうことなのか」と判然としない気持ちでいるものの、「無料」を議論する際には、どうしても持ち出したくなる、出てきてしまうということについて、明確な理路はわからないものの、私にも気持ちは分かる。無料とは交換の一形態であり、最も原始的か、最も未来的か、どちらかのものである。 こちらのテーマについては桜井英治氏の「贈与の境界、境界の贈与」と、飯田泰之氏、東氏、井上智洋氏の対談で掘り下げられている。
この二つのテーマが、どの様な形でひとつにつながるか、というのが、この論が最後に目指すゴールではあるのだが。
まずは、「広告モデル(みせかけの無料)vs有料配信サービス」というテーマ、端的に:現代の広告を巡る議論の方について、考えてみたい。ちなみに私は、今は悪名高き、日本最大の広告代理店、電通出身の戦略プランナーであり、電通自体は新卒入社後3年でに辞めたものの、つい数年前まで、電通の仕事をメインに、結局35年以上、電通周辺で生きてきた広告屋である。
広告が嫌がらせになった時代について。
「無料」というテーマで広告を語るとき、まずは「本当に無料なのか」ということが指摘される。「一見、無料に見える広告モデルと言うのは、影で、間接的に、どの様に金を取っているのか」という問題である。答えを言えば、金を支払うこととサービスを享受することの間の「負担する人と受益する人が、重なりつつズレている」「支払うタイミングと受益するタイミングがズレている」「支払う名目が受益するサービス名目とズレている」ことにより、狭い範囲で見ると「無料に見える」。それが広告モデルである。
それに対して、サービスを受ける人、コンテンツを視聴する人と、金を払う人が明確に同一であり、名目的にも時間的にも対応関係が明瞭なのが「有料」モデルである。
広告モデルと言うのは、①商品サービスの提供者(広告主)と、②その顧客・消費者(商品サービスに金を払う人と、③広告媒体を提供するプラットフォーマーやメディア企業と、④そのプラットフォームを利用する利用者=メディアの視聴者の四社関係に金とサービスが行ったり来たりする仕組みである。
①広告主商品サービスの顧客・消費者は同時に④プラットフォーム使用者(GoogleやSNS、YouTubeを使う人であり、メディア視聴者(民放テレビラジオの視聴者)である。①であり④である人間を一般生活者と呼ぶことにする。一般生活者はGoogleやYouTubeやツイッターやFacebookを無料で使い、民放地上波放送を無料で視聴する。④として無料を享受するが、①では金を払っている。
③GoogleもFacebookも民放各社も、現段階では収入のほとんどは広告収入であり、②広告主は、消費者に売る商品、その価格の中に広告費分を上乗せして売っているのである。視聴者は、「消費者として、何か商品を買うときに、実は広告費としての金を払っており」「テレビを無料で見るときはタダだと思っていても、商品代金のうちに、そのお金を知らないうちに払っている」のである。
ことを「集団としての消費者」「集団としての視聴者」として考えれば辻褄は会っているが、個人レベルで言うと、ズレが生じる。一般生活者の中には、例えば「サッカーは観ないけれどビール大好き」と言う人も、知らないうちにビール会社が日本代表サポーティングカンパニーとして払うお金や、日本代表戦のテレビCMの製作費と放送料金として広告代理店や放送局に支払うお金を負担しているのである。広告無料モデルの問題は、「実はお金を払っている」というだけではなく、「一個人レベルで言うと、受益と負担の関係がかならずしも正しく対応していない」ということである。
この需給ギャップにはふたつの側面がある。ひとつは今書いたように、興味もない、見もしない人も、商品の値段の中に広告費を払わされている問題。だが、もうひとつある。
民放テレビのコンテンツは、常に、一般生活者の平均レベルに合わせて作られているので、例えばサッカーの無料・民放地上波放送では、解説の質も、実況アナの質も、番組の作りもスポーツ専門チャンネルと比較すれば低レベルであり、本当のサッカーファンからすれば不満だらけの放送内容になるのである。本当のサッカーファンは「金を払ってでも、余計な広告なしで、本当に質の高い解説や実況で観たい」と思っているのである。
だから、ネット配信の質と技術が向上する中で、有料配信サービスがどんどん伸びるのは、当然である。スポーツだけでなく、映画の「地上波の吹き替え&CMでぶつ切り洋画劇場よりもNETFLIXなど配信サービス」というのも、同じ流れである。こうしたことはBS、CSの有料放送が始まった時から生じていた構造で、放送波の「地上波と衛星波」のときは問題なく併存していたのが、ネット配信有料サービスが拡大すると、ビジネス構造が根本的に変わったのである。
それは、どちらも電波という有限資源に依存していたときには、CSの放送量は限定的だったが、ネット配信はいくらでも専門的有料配信コンテンツを増やせるということである。これにより、地上波無料ビジネスを成り立たせていた広告費よりも、ネットの有料配信収入を直接もらえる方が、(グローバル企業化することもあり)売り上げが大きくなり、予算が潤沢になり、コンテンツの質が上がったり、独占配信権を獲得したりできるようになる、というところまで状況が進んだのが、2021年現在である。NETFLIXの巨大化やDAZNのサッカーワールドカップ最終予選日本代表アウェイ戦独占(地上波で観られない問題は、こうした変化により起きているのである。
現在、「無料広告モデルの貧困化」と「有料配信のリッチ化・お金の集中によるお金がリッチなことによる、コンテンツの質向上や独占化という意味でのリッチ化」が起きているのである。そのことが、広告自体の意味や質にも大きな変化をもたらしている。そのうえ、広告というものの持つ、むき出しの、本当の姿をさらけ出させてしまっている。この点を楠木氏の論考は鋭く指摘している。
楠木氏の論考の面白いところは、プラットフォーマーにおいては、その収入のいまだ9割以上が広告収入であるにも関わらず、事業の方向性としては「無料広告モデルから有料配信モデルに移行させた方が売り上げが伸びる」ということが鮮明化した現代においては、広告が、きわめて矛盾に満ちた状態に置かれている、ということを抉り出した点にある。
広告に内包されている「本来見たくないものを視聴者に無理やり見せる、嫌がらせとしての本質をあらわにしつつある」という点について指摘していることだ。
広告は本来、商品や広告主に対して好意を獲得せさ、それを通じて商品購買や企業選択(株を投資したり就職したり)で優位になるように導くことを目的としている。つまり、「企業や商品への好意」獲得を目的とする以上、まずは「広告自体への好意」を獲得することが必要になるわけだ。
それなのに、「無料広告モデルから、有料配信へ視聴者・利用者を移動させたい」という動機がメディア・プラットフォーム側にあると、「広告視聴は、無料視聴者への「いやがらせ」として機能した方がいい」ということになる。YouTubeを無料で観ようとするならば、冒頭5秒の広告は我慢しなければならない。広告が嫌がらせであることを、今どきの一般生活者は日常的に体験しているのである。さらにひどい、最近起きた実例を挙げようと思う。
囲碁将棋チャンネルというスカパーのチャンネルがある。スカパー自体が有料放送だから、これを見ている人は本当はお金を払っているのだが、スカパー加入の基本チャンネルセットに、この囲碁将棋チャンネルは入っているので、「有料なのだが、無料に近い」チャンネルである。ここでは「広告モデルに依存しているのテレビ放送」の代表として扱う。(雑誌や新聞が購読料も取りつつ、売り上げの多くを広告費に依存しているのに近いメディアである。)
この囲碁将棋チャンネルという事業主体が「囲碁将棋プレミアム」という、有料配信サービスも同時に行っている。月額990円。こちらの方が、配信コンテンツがはるかに豊富である。将棋の「王将戦」という棋戦タイトルの放送・配信権は囲碁将棋チャンネル、囲碁将棋プレミアムが独占保有している。これを例にとり、「囲碁将棋チャンネル」と「囲碁将棋プレミアム」の差のつけ方を説明したい。王将戦というタイトルは、名人や竜王より格式は低いものの、その挑戦者決定リーグ戦は、将棋界で最も人気実力の高い七人によるリーグ戦として名高い。配信の「囲碁将棋プレミアム」であれば、その全試合が、生中継でノーカット、広告なしで配信される。一方、囲碁将棋チャンネルでは、そのリーグ戦の中でも、特に人気のカードだけを、時間を限定して放送する。放送だと、途中に広告も入る。途中で番組が終わってしまうこともあるのである。
ちなみに、囲碁将棋チャンネル事業主体にとって、スカパー契約者からの収入売り上げは、おそらくCS放送だと契約一人当たり月額100円にもならないと思う。(スカパーの基本セット料金は3960円で52チャンネル見放題。一チャンネルで均等に割ったとしたら70円くらいである。)
一方配信サービスなら、月額990円がまるまる売り上げになる。
だから、スカパーテレビ視聴より、配信プレミアムに入ってほしいのである。
さて、先日、王将リーグ戦で、若き天才、大人気の藤井聡太三冠(現在は竜王含め四冠になった)と、この30年、将棋界をリードしてきた天才、羽生九段が、リーグ戦トップを争うという目玉カードがあった。スカパー囲碁将棋チャンネルも、異例の、午前中から夕方終局まで生中継、夜も放送延長ありという、異例の扱いで放送した。しかし、テレビなので、広告、CMはあり、だった。
夜の7時を過ぎて、大熱戦もいよいよ大詰め。夕方4時ごろまでは羽生九段が優勢に指していたが、そこから藤井三冠が強烈な反撃を仕掛け、ついに、もうすぐ羽生九段か投了するだろう、という緊迫の場面。息をつめて多くの視聴者が見ていただろう。
そこで、いきなり、CMが入った。しかも、スカパーのこのチャンネルのCMは、高齢者向けの、頻尿に利くサプリメントとか、膝や腰の痛みに効く「歩けるようにサポートする」サプリだったりの、みなさんおなじみの長尺120秒インフォマーシャルである。そういうものが長々と入った。そして、CMがあけて番組に戻ると、なんと、もう羽生九段が投了して、藤井聡太三冠が勝ちました、となっていた。いちばん見どころの、投了終局場面が放送されなかったのである。
広告主との間で、こういう場合の扱いがきちんと話し合われていないと、地上波のスポーツ中継でもこういう事故・事件は起きる。柔道の東京五輪66キロ級代表決定ワンマッチ、大注目の阿部一二三、丸山城四郎戦を途中で打ち切ったテレビ東京とか、最近でもいろいろ起きている。
今回も、そういう事故だと受け取った人もいるが、ツイッターへの怒りの投稿の半分くらいは「囲碁将棋プレミアムに契約させるために、囲碁将棋チャンネルは、わざと、嫌がらせのために、いちばんいいところで広告を入れているに違いない、許せない」というものだった。YouTubeなどで『広告は有料会員になれという、いやがらせ行為だ」ということを日々体験している一般生活者は、今回のことも、そういうものとして受け取ったのである。
そして「あのCMの商品なんて、絶対買わないからな」という、広告主への怒りのツイートも多数、投稿されていた。広告主にとっては、好意の獲得とは正反対の結果を受けることになる。
広告というものが、視聴者への嫌がらせであるということ。無料放送から有料配信に移動させるための、嫌がらせとして、広告が機能しているということ。
YouTubeを無料で観ようとすると、冒頭少なくとも5秒は広告を見なければならない。長い動画だと、途中のいいところでも、いきなり広告が入る。それがいやならYouTubeプレミアムに加入して、有料サービスに切り替えればいい。
「広告は本当は誰も見たくない」「コンテンツを楽しみたい人にとっては広告は観るのは、無料のための我慢タイムである」「有料配信サービスに移行させたいプラットフォーマーは、広告主から金を取っているにも関わらず、嫌がらせとして広告を利用する」というのが、現代の広告事情なのである。
ここで、話は、1983~4年、私の広告屋人生のスタート地点まで、遡る。当時、広告は文化だった。
1983年秋から1984年にかけて。私は、大学3年生から4年になるところ。漠然と小説家になりたいなあ、なんていうぼんやりした思いで文学部に入ったものの、もし本当にそうならば、小説創作自体を教える日大芸術学部の文芸学科か早稲田一文の文芸ジャーナルコースに行くべきだったろうに、そこは優等生のプライドもあり、東大の文学部に行ってしまった。が、そこには小説創作に関するコースなど、当然、無かった。小説を大量に読むばかりで、さっぱり書けず、サークル活動もせず、成績もパッとせず、このまま就職に向かうとしても、「大学で何をしましたか」と聞かれても、何もしていない。ただ、部屋で小説を読んでいただけの三年間であった。これから半年から一年で、就活面接で何かネタになるようなことをしないとまずいなあ、そんなことを考えていた。
当時、世の中は広告、コピーライターブーム。花形コピーライターの、まだ30代半ばの糸井重里氏が、NHK教育テレビ「YOU」という若者向けサブカル番組の司会をしていて、私にとっての知的ヒーローだった。
コピーライターになるための学校と言うと、昔も今も変わらず、雑誌「宣伝会議」のコピーライター教室が王道定番なのだが、この80年代半ばの一時期だけは、天野祐吉氏が主宰する雑誌「広告批評」が主宰する「広告学校」の方が、圧倒的な人気だった。なにせ、糸井さんや、糸井さんと並ぶ超人気コピーライター仲畑貴志さん、真木準さんらが講師を務め、その他業界有名人、有名サブカル系文化人も講師に名を連ねていたのである。入学試験があって、倍率は30倍ともいわれていた。大学の親しい友人が「第一期生」になって「ハラ、面白いぞ」と誘ってくれた。
私は、単純に、糸井さんの話を聞いたら、小説が書けない悩みに対して、何か面白い文章を書くのに役に立つかなあ、という思いと、就職活動の箔付けとか、広告業界への足掛かりになるのではという下心と、両方の合わさった動機で、応募した。大学三年の秋のこと。宣伝会議の講座には何の興味もなかったということは、つまり、「実務的に仕事としてコピーが書けるようになりたい」という欲求はなくて、「サブカル的文化としての広告」に興味があったのだと思う。
第三期生募集でも、やはり10倍以上の倍率だったが、幸運にも合格した。(東大生は、試験にだけは強いのである。) 同期生には、東大から電通や博報堂に進んでコピーライターになったのも何人もいるし、仲の良かった友人(彼女は日芸で小説を書いていた)はサントリーのコピーライターになった。また今は業界最大手のCMプロダクションの社長、業界団体の代表という出世をした人もいる。一方、シナリオライターとなって、ドラマやマンガ原作者になった人なんかもいる。当時の広告学校が、広告と文化が一体の、特別な一時期だけにあだ花のように存在した場所だったのだと思う。
話がすごく横道にそれたように思うかもしれないが、そう、このことを言いたかったのだ。1980年代、広告は、最も魅力ある表現文化だとみなされていたのだ。雑誌、「広告批評」は、宣伝会議とは違い、広告ビジネスとしての広告ではなく、文化的表現活動としての広告について批評する雑誌だったと思う。
もちろん、当時だって、広告は、マーケティングツールの、商品を売るための道具であることには変わりなかったのだけれど。
その広告学校の講義で、先生たちは、こういうことを異口同音に言った。特に、仲畑さんが特にはっきりと言っていた。当時の講義をノートにとったものを、私はいまだに持っている。
広告と言うのは、本質的に、自分を褒める恥ずかしい行為だ。広告媒体も広告主が金を出して買う。広告表現も広告主が金を出して作らせる。自分の金で買った場所で、自分の金で作った自分を褒める表現を見せびらかす。自分で自分を褒めるやつのこと、どう思う?嫌いだろう。軽蔑するだろう。そうだとしたら、逆効果だよな。商品を売らなきゃいけないんだから。そのためには、好きになってもらわなきゃいけないんだから。
それならば、どうするのか。テレビ視聴者は、広告なんて、基本的には観たくない。野球中継とか、ドラマとか、本当に見たいものの間に、むりやり入ってきて、むりやり見せられちゃう。それならば、せめて、きれいなものとか、素敵なものとか。面白いものとか、ああ、ほんとうのこと言っているな、とかそういうものにしなければいけないだろう。商品のことを、べたに褒めるんじゃなくて、その広告がちょっと好きだな。そういう言い方伝え方をするのなら、その企業のこと、ちょっといいな。好きだな。そう思ってもらえるように、広告っていうのは作るもんだ。(ということをいろいろ考えて<あらゆる広告の可能性を掘り尽くした果てに、一回りして「ベンザエースを買ってください」と小泉今日子にいわせるだけ、というところまでたどり着いてしまったのが、仲畑さんの本当にすごいところだと思うのだが。またそれは別の話。)
ほんとうのことを言って、広告ビジネスにはあんまり興味がなくて、当時の僕は、ライトパブリシティの秋山晶さんの書くコピー、作るCM世界のかっこよさなんかは、本当に、かっこいいアメリカ映画みたいだったんだよな。表現として、秋山さんの、あの感じが本当に好きだった。文学的で、映画的だったのである。
で、当時、バブルに向かう日本企業には、お金もいっぱいあったわけなんだ。
単位秒数あたりにかけられる予算金額において、当時の日本のテレビCMは、ハリウッドの超大作映画と同じくらい潤沢な、贅沢な表現物だった。作られる表現の「予算・金が掛かっていることで担保される質」という意味では、当時の日本映画の100倍くらい、単位時間あたり予算が多かったのだ。
いまどきの若い人たちは、サントリー・ローヤルという高級ウイスキーの「ガウディ」のTVCM、と言われてもピンとこないだろうなあ。
そういえば、昨年亡くなられたタグボートの岡康道さんは、そういう広告を最後まで作っていたよなあ。ペプシコーラの桃太郎なんて、ハリウッド映画みたいだったでしょう。美しいか、かっこいいか、面白いか、そういう広告しか、作らない人だったなあと思う。
商品の作り手が言いたいことではなく、テレビをぼんやり見ている人(そもそもCMときにはトイレにでも行っちゃいたい人に対して)、最大限、美しかったり面白かったり素敵だったりするものをお届けする。そのついでに、ちょっとだけ「控えめな美学」をもって、商品や企業を見せる。コピー(広告の言葉)も、直接、商品を褒めるのではなく、見ている人が、面白いな、素敵だな、今の時代らしい、いい感じのことを言っているな、そして、よーく考えると、商品のこと、商品が提供するいいことのことも言っているな。それくらいの控えめな感じがいい。広告っていうのは、そういうものだ、というところから、私の広告屋人生はスタートしていたのに。
クリエーターとして挫折して、戦略プランナーになった私自身の仕事も、また、電通の仕事も、いつのまにやら、特にリーマンショック以降だと思うが、「本当に買うのに結びつくのは、商品のいいところをどれだけ説得力あるように伝えるかだ」という価値観にシフトしていった。ある種、こちらが当たり前で、80年代から90年代の「広告が表現文化だ」という時代が、少し異常、特殊だったのかもしれない。そして、日本経済の停滞、日本が貧しい国になるにつれて、平成後期というのは、広告が実利的なものになっていったと思う。広告は文化だ、なんて言ったら「バカか」と言われるような、そういう雰囲気になっていった。いや、した張本人の1人が私だ。
広告表現も、そういう理屈の勝った戦略に沿って、ロジカルに作られるものが主流になっていった。それはそれで、その商品やサービスを切実に必要とする人にとってはより分かりやすく、有益で有効な広告が増えていったということなのだが。しかし、漠然とテレビを見ている人にとっては、味気ない広告が増えて行った、と言うことなのだ。広告というのが、文化の香りのする、余裕のあるものから、だんだん実利的で余裕のないものに変わっていった。バブル崩壊後の、日本経済衰退トレンドが止まらない平成30年間で、広告というのは、そういう変化をしていったのだ。
それでも、広告というのは、見ている人にとって、不快な物であってはいけない、最後の一線は、なんとか踏みとどまっていたはずだったのに。
「無料広告モデルから、有料配信サービスに人を移動させるために。広告を見せるというのは、そのための嫌がらせとして機能すればいいのだ」というところまで、広告ビジネスと言うのは、来てしまったようなのである。
尿すっきりサプリメントも膝や腰に効く,老人の歩くことをサポートするサプリも、悩んでいる人にとっては有益な情報だけれど。しかし、そういう悩みはもっていなくて、単に藤井聡太三冠と羽生九段と将棋の決着が見たかった多くの人にとっては、その広告は、不快以外の何物でもなかったと思うんだよな。表現の中身ではなく、流し方、見せ方の作法が「いやがらせとして広告を機能させる」というふうに、変化してしまったのだ。
話を「ゲンロン12」の方に戻すと。楠木氏は、広告モデル=無料のまま、不快な広告を我慢しても(無料のままで)YouTubeを見る人は、「ひまつぶし」としてYouTubeを楽しんでいるのだ、という。「ひまつぶし→無料のまま、広告を我慢して」。YouTubeだけではない。民放テレビのコンテンツが、お笑いタレントのくだらないおしゃべりを垂れ流すワイドショ=やバラエティだらけになっているのも、「無料・広告我慢・ひまつぶし」なメディアになっているからである。
これと反対の、「ひまつぶし」でないものは「文化的なもの」だという。文化的なコンテンツを求める人は、有料配信を選択する。
楠木氏は書く。
「文化的」とはどういうことか。精神を高揚し、心を動かす。その人の生活に何らかの影響を与える。刹那的な刺激への反射に終わらず、記憶として定着する。ーーーあっさり言えば、「心に残る」。ここに文化的情報財とそうでないものの境界線がある。
で、ここから先は、文化的体験を求める人は課金型に移動するし、そうなることで受け手がスクリーニングされるから、文化的体験を求める良質な受け手に向けて情報を提供するという「送りて受けて」相互のコミットメントが生じる、と楠木氏の論は、「文化的情報財」を有料プラットフォーム上で提供するものとしての、実体験からの考察に進んでいく。基本的に「シラス」肯定、東さんのやっていること、正しい、という方向に話がいくのだが。これはこれとして、半分・閉じた場で、文化的情報・価値・創造発信を有料配信をするという形、その特性というのは、今どきの、重要な論点なのだろうと思う。
が、「無料」を論じているということでいうと このあたりで、楠木氏の論は、大きな論点の取りこぼしをしていると思う。無料と「贈与」「互酬」の柄谷問題というのと、この「有料配信論」が、うまくつながらないのは、その点を取りこぼしているからだと思う。
ひらたい言葉でいうと「初めての感動」「入り口」問題である。人生で初めて、スポーツや音楽や映画が、暇つぶしではなく、文化だと気づく瞬間、人はそれを有料で体験しているだろうか。自分の人生を思い出してみるべきだと思う。そもそも、子どもは本は「学級文庫」や「図書館」で読むし、親が買ってくれたり、家にあったりするのも「無料」で読むものである。映画は、地上波の洋画劇場で観るだろう、中学生高校生までは。スポーツだって、親が「ガチ勢」でないかぎり、サッカー日本代表戦の興奮も、地上波で見る人が大半だろう。一昨年のラグビーワールドカップで初めてラグビーに感動した「にわか」の人は、ほぼ全員が地上波テレビで無料で観戦した人だろう。
無料を楽しむ態度が「ひまつぶし」だ、という分析は、正しいが、人は、「ひまつぶし」のつもりで見たもので、感動してしまうことが、ときどきある。「無料」だからこそ、気軽によく知らないものをつまみぐいに見て歩くことができて、そうしているうちに「ガチ」な感動に出会ってしまうことがあるのである。YouTubeも、地上波テレビも、どんなにくだらないコンテンツが多数を占めていても、その中に「ガチな感動」が混じっていることは、誰もが知っているのではないか。
「文化的」な、ガチの感動をもたらすコンテンツを、どんどん「有料配信」に囲い込んでいったら、無料の領域で「ガチな感動」に出会う確率が、どんどん下がって行ってしまうのではないか。それは、長期的には、受け手の文化水準を引き下げる方向に働くのではないか。それは送り手、文化的情報発信者にとっても、不幸なことなのではないか。
「無料」の文化的意義は「公共性」「入門ルート」「初めて感動の創出」にある。
それが象徴的に表れているのが、DAZNのサッカーワールドカップアジア最終予選、アウェイ独占配信により、地上波でもBSでも「テレビ放送」からワールドカップ予選代表戦の半分が消えてしまった事態の中に象徴的に表れている。そのことを書いていきたい。
私の現役時代の仕事は、企業の広告戦略全体を立案提案する「戦略プランナー」という仕事をしてきたのだが、その中で、日本代表のサポーティング企業の権利利や、ワールドカップのテレビ放映権を広告主に売る、というような仕事も多々、してきた。そのセールスのために代表戦の歴代視聴率資料などをよく作成してきた。そのおぼろな記憶を呼び起こしながら書く。
これまで、日本代表の試合と言うのは、歴代のテレビ放送の視聴率記録のベストテンの上位半分以上を占める人気コンテンツであった。ワールドカップ本戦だけでなく、ワールドカップ出場を争う最終予選の視聴率というのももきわめて高かった。地上波テレビの、民放の中継が、ホーム、アウェイを問わず、必ずあるのが通例であった。中東の試合は深夜早朝時間帯になることはあるが、東アジアやオーストラリアなら時差もほとんどないので、ゴールデンからプライムタイム、夜の7時から12時くらいの、いちばん視聴率が取れる時間帯に試合が組まれるのも
それが、今回、アウェイ全試合の独占放映権をDAZN、有料動画配信サービスが獲得した。テレビから、日本代表の、ワールドカップ最終予選の半分が姿を消したのである。
こうなった事情については、朝日新聞、11月19日 耕論「サッカー代表選の今」の中で、元・電通サッカー事業局長 濱口博之 広島経済大学教授が「有料放送化 公共性どこに」で詳しく解説している。端的に言うと、高額になった放送権料を、日本のテレビ局(NHKと民放が組んだジャバンコンソーシアム)が、アジア・サッカー連盟の提示する放送権料を払えなかった、と言うことなのである。スポーツは、有料配信サービスにどんどんシフトしているのである。
同じ朝日新聞・耕論の特集の中で社会学者の鈴木謙介さんが〈「ガチ勢」の熱、欠く広がり〉として、こう書いている。「つまりサッカーだけでなくエンタメ全般に、熱狂や盛り上がりは広がっていて、その総熱量はかなり高いとも言えるのに、集団行動のサイズが小さくなってきています。動画配信サービス「DAZN」で日本代表のアウェー戦を見て、細かく選手起用や戦術を語り合う人の中には、時にサッカーに人生を賭けても応援するといった熱狂性をもつ人もいます。いわゆる「ガチ勢」です。その集合に加わっていないのが「普通の人たち」です。関心は強くないけれど、みんなが乗れる大きな物語を共有した気分になりたくて集団行動に参加した、という不特定多数の人たちです。「にわか」とも呼ばれています。」
本当は、ワールドカップの予選というのは、「にわか」の人が、サッカーについてはよく分からなくても「ワールドカップに出られるの、出られないの」という物語に乗っかって、「ガチ勢」の人たちと一緒に、そのときだけは盛り上がる。その体験の中で、「にわか」から「ガチ勢」に育っていく人がいくらか出てくる。そうやって、サッカー文化も、ラグビー文化も育っていくもののはずなのに。
私という人間ついて、論を理解してもらう前提として、いくつか書いておく。私は、サッカーに限らず、その他多くのスポーツに関して「ガチ勢」的に楽しむ人生を送ってきた。サッカーは1978年のアルゼンチン大会以来、何らかの形でTV放送されたものは全て全試合生放送で見てきた。1994年のアメリカ大会以降のワールドカップ全試合は録画してアーカイブとして保管してある。1998年の中田英寿の活躍とペルージャへの移籍以来、BS、CSで放送された中田の出場試合も全試合録画してあるし、ユーロやコパアメリカもUEFAチャンピオンズリーグの放送もスペインやプレミアの強豪チームの放送もほぼもれなく、つまり年間にサッカーのテレビ放送を500試合くらい見ている。NBAもバルセロナドリームチームの活躍以来、ボクシングのビッグマッチは中学校以来何十年もれなく、格闘技、柔道、ラグビー、テニス、陸上、ハンドボールについても同様。
ちなみに、「サッカー、陸上」は中高で「ボクシング、格闘技、柔道」は社会人になってからプレー経験がある。柔道とラグビーとハンドボールは、子どもたちのどれかが本格的に競技経験があり応援観戦研究の経験がある。
それらを網羅しようとすると、衛星波のテレビサービスは、開始されるといずれも真っ先に加入した。BSから始まって、パーフェクTV、ディレクTVに分かれていた頃のCS放送(現在のスカパーは二社が合併したもの)、WOWOWも、サービス開始と同時に加入し、今もスカパー2契約、WOWOWも3契約している。「有料放送」から「有料配信」に移行しつつある今、各種有料配信サービスにも、当然、加入している。Jスポーツオンデマンド、楽天TV、そこから分かれた楽天NBA、DAZNも、スポーツの中継を見損ねることは、ほぼ無い。
という極端な「ガチ勢」なので、個人的趣味生活上は、本来は民放でスポーツを見る必要は、スポーツファンとしては無いのであるが、しかし、仕事柄、「地上波でどのように中継され、どの様なスポンサーがどんな広告表現を放送し、あるいはその他会場看板など、どんな広告活動をしているか」をチェックするために、地上波民放のスポーツ中継ももれなくチェックする、ということを、まあ、1990年から現在までの30年間ほど、趣味と仕事にまたがってやってきたのである。
サッカーだけ、ラグビーだけ、テニスだけ、など、スポーツジャンルを限定すれば、それぞれのマニアの人は、私よりも深く多く見ていると思うが、スポーツ多種目にわたって、あらゆる有料サービスも、無料民放地上波コンテンツも、衛星波からネット配信サービスの時代変化の中で継続的に見続けてきた人間は、おそらくほとんどいないだろうと思う。
これだけの競技について「ガチ勢」になるのの入り口は、それはテレビの無料放送なのである。(NHKは無料ではないが)、地上波と普通のBS放送で中継されたものを見て、感動して、ガチ勢に移行していくのである。
昔はサッカーでもボクシングで「東京12チャンネル」がその役割を果たしてくれた。「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組が、世界のサッカーを毎週、一試合、放送してくれたし、ボクシングの、外国人同士のビッグノッチなども放送してくれた。BS放送が始まってからは、NHKBSのスポーツ放送を通じてNBAファンになった人は多いはず。NHKBSが無かったら、マンガ「スラムダンク」は生まれていないと思う。
有料配信サービスが独占することで、「入門」が難しくなっている。
NBAは、放送権を楽天が独占したことで、有料配信サービス 楽天NBAに加入しない限り、全く見られなくなった。数年前までは、NBA、プレーオフからファイナルをWOWOWが放送していたし、その前はNHKBSが何十年も放送をしていたのだが、今は楽天でしか見られなくなった。せっかく、日本人NBAプレーヤーが複数出てきたのに、その試合を日常的に、「ひまつぶし、興味本位で」まずは見てみる、ということが、今、できないのである。このことの損失というのを、日本のバスケットボール関係者は真剣に考えた方が良い。
そういえば、「無料」と文化について考えるならば、柄谷行人ではなく、内田樹氏がすでに深く論じていた。
内田樹氏は初めに書籍を出したときのことを回想しつつこんな意味の文章を書いていた。自分の考えをブログに書いて、無料で読んでもらえていた。それが面白いと言われて、まとめて書籍化することを編集者から提案された。無料で読んでもらえていたものを有料化すること。それが何を意味するのか。その中で、読書と言うのは、人生の長さのスパンで考えれば、はじめは絶対に無料で体験するものであり、その体験をもとにして、一部が「お金を出して本を買う」人に育っていくのであり、「無料」の環境を豊かにするこことでしか「有料」の読者は育たない。ということをかつて、書いていたのを、私が「無料のブログ」で読んだのか、「有料の書籍」で読んだのかを覚えていない、というのが象徴的である。(さっき書いた「自分の人生を思い出してみるべきだと思う。そもそも、子どもは本は「学級文庫」や「図書館」で読むし、親が買ってくれたり、家にあったりするのも「無料」で読むものである。」という論は、内田樹氏の文章に書かれていたことだった。誰かが書いたことを、自分で考えたことのように思いこむ。学問やビジネスだと大問題だが、文化の継承というのは、こういうふうに「無料・有料」も「自分で考えたこと、教わったり読んだりしたこと」も判然としないままに、伝わり広がっていくものなのだと思う。などど弁解してみる。)
「贈与」と「互酬」ということでいえば、ずっと時間がたってから、違う相手に返すのでいい、というのが、こういう文化的な「無料」の特性であるはずだ。
子供を育て、その子供が大人になり、また子供を産み育てる。その中に「無料の体験」というか「無償の愛」があり、それは親に恩返しする必要はなく、大人になったら、また子供を作り、子どもに「無料の体験、無償の愛」を与えていくという形で、人間は文化を育て、継承してきたのである。
前に、同じ「ゲンロン12」の、東浩紀氏の「訂正可能性の哲学」についての感想を書いた。不思議なことに、その結論も同じところに行っている。ハンナ・アーレントをめぐる「出生の哲学」の意味について、東氏が言及し、私は感想でそれに賛意を示した。どんなに理屈をこねても、ポリス、政治は多数の人を必要とし、人はオイコスでしか、出生と育児でしか増えないのである。「無料」をめぐる考察も、結局のところ「無料」と「有料」を「ひまつぶし」と「文化」と二項対立にしてしまったら、それは、それぞれが閉じて衰退していくしかないのではないか。「無料」でしか、文化的体験を初めてする人は増えない。「無料」の体験か豊かでない社会では「有料」の市場も増えて行かないのである。「無料」というのは、非常に長いスパンでの、「だれかが良いことをしてくれたら、ずっと後に、他の人にお返しをすることでつながっていく」交換の形態だと思うのである。
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