『富国と強兵』中野 剛志 (著)     グローバリズム・新自由主義の潮流への私的違和感の正体を、歴史と地理と経済学のものすごく大きな視野から納得できる本。


タイトルだけ読むと、右派の、戦争経済推進派の本、のように思われてしまうかもしれません。著者の略歴を見ると、経産省の原子力推進のど真ん中のポジションにしばらくいたこともあり、リベラル系の人は著者略歴を見ただけで、「敵」認定してしまいそうです。しかし、著者は反TPPの理論家として日本で最も優れた論者と言われており、グローバリスト・新自由主義の政権政策に対する最も手厳しい批判者です。
 しかも、これは、時事的問題に対して自説を適用するような、お手軽な新書などではなくて、大判の単行本で600ページもある、本格的な論文です。資本主義の成立過程から、ふたつの大戦をめぐる「地政学的条件と各国経済政策、国際的経済動向が、どのような相互作用をもって発展変化してきたか」を分析していきます。終盤では、日本の戦後から現在に至る対米従属構造を「地政学と経済学」の関連の中で解き明かしていきます。グローバリズムと新自由主義の流れが、歴史と地政学的必然としてどのように置き、その中で日本という国が、そして私たち一人一人がどう苦しい境遇に追いやられているのかが、きわめて明確に説明されていきます。大著ですから「すぐ、ぱっと読める」とは言えませんが、論旨も文章も明快ですから、ゆっくり読んでいけば、理解するのが難しいということはありません。この正月から、ノートを取りながら、勉強モードで、二週間くらいかかりましたが、今日、読み終わりました。
  冒頭数章は、現在の新自由主義を推し進めている理論的背景となっていて、主流派の経済学に対する根源的批判が繰り広げられるのですが、これが、強烈におもしろい。
 僕には、経済学という学問に対して、不信感がありました。(数学ができなかったせいもあるのですが。) 経済学は社会科学の中で、いちばん「本格科学」っぽいふりをしているが、実はかなりインチキくさい学問なんじゃないか。そもそもスタートラインの「合理的経済人」というところから間違っているのではないか。その上にいくら複雑な数学で科学的学問のように理論構築しても、現実を説明できないだろう。根拠はないが、漠とそう思っていました。
著者も、同じような疑問を持っていた人のようで、私のように「なんとなく」ではなく、ひとつひとつ厳密な議論を経て、批判していきます。冒頭「貨幣論」から説き起こし、主流派経済学の欠陥を指摘していきます。
主流派経済学とそれに基づく経済運営をする政権が財政均衡を重視するのに対し、国に対する信用が続き、極端なインフレがコントロールされている限り、財政赤字には何の問題もない、という著者の立場は、普段聞いている、政府やマスコミの語っていることと全く異なる話なので、半信半疑で読みながらも、この本の中では、たしかに論理的に正しいことに思われます。
実はこの本、この冒頭の主流経済批判のところがいちばん面白くて、そのあとの中盤、資本主義の発展過程、戦争と資本主義の進化の関係のところは、読み進むのに根気がいりました。 著者がこの本でやろうとしていることは、「歴史」と「地理」と「公民」と「経済学」を、ひとつの時代、ひとつの国について、丹念に関係を分析していく、という作業なわけで、その面倒に付き合いながら、そうしなければ、本当の意味で政治的なことは理解できないのだ、ということを飲み込んでいく。そういう読書体験であるわけです。

ここからは、この本を私が読もうとした動機について。現実の政治の話に飛びます。著者の意見ではなく、私の関心事と、この本のかかわりを説明していきたいと思います。
 安倍政権の支持率が高いのは、野党側の経済政策への不信があるために野党に政権を任せられないと思う人が多いせい、という声は多く聞かれます。民主党政権が、不運にもリーマンショック直後に政権を引き継ぎ、東日本大震災という大きな衝撃の中で、「あのときは苦しかった。民主党政権の経済政策がめちゃくちゃだったからだ」という記憶、印象が強い人がたくさんいます。本当のところは、数値で見るとそうでもなかった、という議論はあるのですが、とにかく「印象として、経済が苦しかった」という人が多いことは事実です。円高株安が続いていたので、株式や外貨預金などの投資を少額でもしていた人(例えばリタイア層とか)と、輸出関連企業・業界で働いていた人、さらには就職活動をしていた学生や若い社会人にその印象が強いようです。
 もうひとつ、野党の安全保障政策について、不安があるという人が多数います。中国の軍事的拡大主義。北朝鮮の核ミサイル武装など、東アジアの不安が高まる中で、野党に外交をまかせて大丈夫なのか。外交は相手のあることですから、敵味方ともに様々な相手のある現実世界の中で、有効に働く外交政策、安全保障政策を野党が取れるのか。鳩山政権の基地問題対応が、米国に納得されなかったことの印象が強く残っているのは事実でしょう。(これも、後に、反対していたのは米国ではなく、外務官僚に足を引っ張られたという事実が明らかになっているわけですが。)
 野党は、ひとつひとつの政権の政策については、批判できる、実は対案もきちんと示しているわけですが、いくつもの異なる政策、内政、経済政策、社会保障、それらと外構、安全保障、それらが全体としてつながった時に、どのような整合性をもってそれらが働くのかのイメージがつきにくい。現政権の政策の場合は、まがりなりにも、今現在、政策の束で、現実に社会、政治は動いているわけです。「まあまあなんとか回っている」と。それに対し、野党の政策の束が、現実に機能するかどうかについて、国民、有権者は明確なイメージが持ちづらいわけです。
 野党の、社会保障を重視した政策、内需景気刺激策その他もろもろは、単体で見れば良さそうだけれど・・・・。これら野党案に対し、与党支持者からはすぐ「財源は?」というツッコミが入る。野党は「防衛費を抑制すれば」と答える。与党支持者からは「中国の軍事費の伸びをどう考えるの」という反論がすぐに返ってくる。といういつもお決まりのやりとり。
 こういうやりとりしか繰り返せないところに、積極的に政権を支持しているわけではないけれど、野党が信じられないから、消極的選択として与党支持という人が、結局多数派になってしまうのだよなあと残念に思うわけです。
 現政権が、国会での議論を軽視し、文書管理を軽視し、統計資料を軽視し、という意味では、民主主義の根幹をないがしろにする戦後最低の政権であることは疑いのないところです。にも関わらず、野党が選挙で負け続けているのは、そのような「民主主義の根幹」という問題よりも、「経済政策と安全保障政策」という現実の生活や隣国との関係という不安要素に対して、与党と野党、どちらに任せた方がとりあえず安心できそうか、という競争において、与党が選ばれている、ということだと思うわけです。

 話がものすごく大回りをしましたが、私がこの『富国と強兵』という本を、なぜこれほど一生懸命、単に読んだというよりも「勉強」したか、というと、経済政策と安全保障政策について、どのように一貫し連関したものとして政策を立案しうるのか。それはどのような理論と理念に基づくものなのか。そういうことに本気で取り組まない限りは、与党に対抗できないのではないか。そう考えたからです。

「広告と民主主義」というノートですから、私の仕事をしてきた道筋と「グローバリズム」という話を、最後にちょっとだけ、します。
 

 新自由主義、グローバリズムに対する直観的反発というのは、広告屋として働いている間、はっきりとありました。外資系企業出身で、企業を短期間に渡り歩くマネージメント層が増えてきた時期がありました。彼らの「短期的成果」を求める姿勢で、それまでの、地道にものづくりをする善き日本企業が変質してしまう。そういうことが90年代後半あたりからはっきり増えてきて、仕事をする中での「何かがおかしい」という感覚は年ごとに膨らんでいきました。

 どこかの企業がGEの「シックスシグマ」がどうした、「集中と選択だ」と言い出したあの頃。あのあたりが、仕事の現場で、グローバリズムと新自由主義の風が吹き出したころだと思います。当時は「僕は英語も苦手だし、単に自分が時代遅れになってきただけなんだろうな」と思い、「適応できない自分が悪い」と思っていました。

 しかし、自分がうまく適応できないだけでなく、多くのすぐれた「ものづくり」日本企業が変調をきたしてしまう。何かがおかしい。

 仕事の中で起きた、ひとつひとつは小さな変化。それが、実はどのような国際情勢の中で起きたことなのかが、この本を読むと、なるほどと納得できました。

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